ある熟年夫婦
話を数年前に戻す。ある仲の良い熟年夫婦の話だ。
さて、その夫の名は正一郎という。三年後に定年を迎える歳であった。会社勤めに一応のけりをつけ、まだ体力が残っている内に退職し、第二の人生を送りたいと思っていた。妻の洋子が何と言うか心配であったが、『残りの人生をあんたの好きなように生きたらいいわ。私はあなたの後をどこまでも付いていくから心配しないでいいのよ』と言ってくれた事が嬉しかった。
正一郎は和歌山の農家の出身であったが、東京の大学を出たのをきっかけに故郷に戻ることもなく、そのまま就職することになった。それ以来三十年以上東京で暮している。
彼は長年の都会暮らしにうんざりしていた。やはり歳をとると子供の頃過ごした田舎暮らしが恋しくなるものだ。
正一郎は早期退職を決意し、その退職金を元手に田舎に土地を探し、妻との二人暮らしに十分な広さの家を建てた。また自分たちが食べていけるだけの農地も手に入れた。もちろん、妻とも十分話し合った結果である。
大都会の時間に追われる生活から逃れ、大自然と対話しながらの生活は彼に生気を蘇らせた。
「洋子、本当にこれで良かったのかい?」
「これで良いのよ。あなたの笑顔がとても素敵になったから」
しかし彼ら夫婦には子供がいなかった。結婚したての頃は「子供が三人ほどいたら良いね」と言っていたが、結局子宝に恵まれる事はなかった。
公園で親子が仲良く遊んでいる姿を見ると、とても羨ましかった。しかし六十歳前後の年齢では子供を望むべくもなかった。二人とも口には出さなかったが、子供のいない寂しさを深く感じていたのである。
彼らが田舎暮らしを始めてから五年が経過した。慣れない農作業にも漸く慣れ、丹精こめて作った作物を収穫する喜びを満喫していた。そうやって子供のいない寂しさを紛らわしていたのである。