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春夏秋冬シリーズ

夏の恍惚

作者: 密室天使


 今日もあの人が来ますようにっ、と店の片隅で私は祈っていた。

 小さな喫茶店。

 うっすらと流れるジャズの音調。

「いらっしゃいませ」

 私は入店したお客さんにお辞儀をして、さりげない風にその横顔をのぞき見た。

 ……来た。

 やったっ、願いが通じたっ、と噛み締めた歯の間から幸せが漏れ出てしまいそうになって、知らず知らずのうちに気分が高揚してくる。それでも私は、マニュアル通りの接待を心がけるんだ。

 夏休みの昼過ぎだというのに、お客さんの姿はあまりない。この喫茶店は店長の道楽で経営されているようなものだから、来客の動員数が僅少であるのは仕方がないのかも。

 でも、そんな中で、この人は折を見てこの喫茶店に来店してくる稀有なお客さんだった。

 彼は私に案内されたテーブルに腰を落ち着けた。頬杖をつく。彼は首を不安定に揺らして昏々と眠りこけていた。

 ……相も変わらず、ってとこね。

 湧き上がる面白さを堪えきれず、一隅に座り込み、くっく、と笑った。

 私は目線で周囲を確認して、何気ない風に化粧室に入った。

 化粧室には店長の趣味で、古色を帯びた姿見が置いてある。

 私はそれに己の姿を投影した。

 鏡の中にはにっこりと笑う私がいた。

 完璧っ、と私は思った。私はこんなにもいい女なのだ、と再確認。様々なポーズをとる。流し目でもう一度、鏡とご対面……。

 自信をみなぎらせた私は、カウンターに座り込んだ。そーっと顔をつき出し、彼の姿を盗み見る。

 すると。

 すると、すると、すると。

 私はなんとも言えない幸福感を味わう。この店に勤めてよかった、彼と同じ時代に生きててよかった、とそんな風に思うんだ。

 店の外から夏蝉の鳴き声が聞こえてくる。

 静寂に包まれた店内。

 反面、刻々と脈動を続ける心臓……。

 どれほどの時間が経過したのだろうか。

 彼は。

 彼は眠りから目覚めたらしく、呆けたような顔で辺りをせわしなく見渡した。

 私は矢のように疾駆した。

「ご注文でしょうか?」

 私は自分で最高だと思える笑顔を彼に向けた。

 彼はメニュー表も見ず、ただ、ナポリタン、とだけ言った。

 私は彼と会話できるのが嬉しくて、嬉しくて、緊張のあまり内臓が口から飛び出るかと思った。

 数分後。

 フォークで絡めとリ、ナポリタンをおいしそうに食べている。彼の口内に運ばれていく赤い麺。付着した唾液。わずかに見える歯、歯茎。熱気に火照る彼の頬……。

 私はポケットにある携帯電話に手を伸ばした。

 暮れなずんでいく空。

「五百五十円になります」

「ん」

 彼は勘定を支払い、飄々として店を出て行った。彼のルーチンワーク。もうすぐ高校受験だと言うのに、彼はいつもそんな感じだった。

 彼は鮮烈な夕空に目を細め、すーっと雑踏の中を泳いでいく。

 私はその後をつけていった。

 彼は不思議な人だ。何もないところで立ち止まったり、清冽に流れる川を見て感嘆の声を上げたりする。私はその姿をパシャパシャと携帯電話で撮影する。メモリは彼の画像、動画でいっぱい、いっぱい。

 しばらく行くと陶磁器のような白亜の壁が見えてくる。吸い込まれるように消えて行く彼。家に明かりがともるのを見て、彼の両親が不在であることを知る。

 私は染み渡るような幸せを実感した。

 あぁ、私、乙女やってるよ、とくすくす笑いが漏れる。

 私は彼の郵便ポストに携帯から吸い出した画像、動画の集塊を投函した。彼はこれを見てどう思うのかな……? 喜んでくれるかな。ふふっ、私の愛の結晶。

 充実感と達成感。

 達成感と充実感。

 ほのぼのとした気持ちで自宅へと帰還した。

 家に帰った私はまず、幸せ日記をつける。今日は彼とたくさん話した。いらっしゃいませ。ご注文でしょうか。ナポリタン。五百五十円になります。ん。これまでの幸せ日記を見返してみても、彼が寡黙な性格であることが分かる。私もあんまりぺちゃくちゃしゃべる人は嫌い。 

 時刻は八時を回ろうとしていた。

 学校の宿題を済ませるか、入浴するか、悩む。

 長考の末、メールを打つことにした。

 携帯電話で彼のメールアドレスを入力し、メールを打つ。ハートマークをあしらった文面。彼には刺激が強すぎるかな……とかく言う私も顔が赤くなったりする。返信は決まって来ない。

 宿題を済ませ、入浴を終わらせた私は、羽毛のベットにダイブした。ふかふか。私は彼から借りた制服のカッターシャツに顔をうずめた。染み付いた彼のにおい、体臭。たまらなくなって、着る。あぁ、好きだよ、愛してるよ、春彦君……。 

 私はかばんの中からフォークを取り出した。先刻喫茶店から拝借したもの。まだ彼の唾液が付着しているはずだと思う。私はそれを口にふくめた。幸せな気持ちになった。これ以上の幸せはないと思った。

夏帆(かほ)-、いい加減こっちに来なさい」

 階下からお母さんの声。両親が共働きだから、夕食はかなり遅くなる。

「分かってるよー」

 水をささないでよ、と猛烈に思う。私はカッターシャツを脱いで、適当な服に着替えた。

 こうして。

 こうして私の一日は終わる。今日も幸福で安逸な日だった。こんな順境な寧日がいつまでも続くといいな、と私はいつも考えるんだ。

 けど……。

 私は携帯の待ち受け画面を見る。

 待ち受けには静かに笑う彼の笑顔。彼に気づかれず真正面から撮るのは正直、相当に難しかった。

 私はそれを胸に抱きしめた。うぅ、と目の辺りが熱くなる。真綿で首を絞められているみたいで、胸が苦しくて、でもいとおしくて……。いやだよ。もう耐えられないよ。私はほろほろと泣き崩れた。

 ……絶対に彼と同じ高校に行こう。

 彼と出会って以来、そう心の中で誓った。高校生活を営む彼を見届けたい、と思った。そしてあわよくば……つ、付き合ったり、するかも、なんて……夢みたいな幻想。

 私の真ん中にはいつも、彼が居座っている。私は彼を中心に回る衛星みたいなものだった。 

 そして。

 これからも。

 ずっと。

 ずっと。

 永遠に。

ついに書いてしまった、春夏秋冬――夏。


相変わらずいかれてるな、と思う。


続きは暇を見て書くよ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 夏帆の心境が丁寧に綴られています。 無駄を多く排されています。 [気になる点] 場所の描写などが不足気味かと思われます。無駄を排す過程で必要な箇所も誤って削られたように見受けられました。 …
2012/05/11 19:42 退会済み
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