第1部 第8話
「ただいま」
私は実家の玄関の重い扉を力を込めてゆっくりと押した。
「重い」というのは比喩ではなく、物理的に重いのだ。
まあ、この大きな一戸建てにはこのくらい扉がちょうどいい。
ただ、この扉。
確かに今の私には物理的にだけではなく精神的にも重い。
本来帰省は楽しみなものだ。この扉を重く感じることは無い。実家は私が心からくつろげる数少ない場所なのだから。
でも、今年は・・・
「お帰りなさい、桜子」
フランス人と日本人のハーフモデルとして昔は結構有名だったらしいママが、ふわふわしたスリッパで音も無く廊下を歩いてきた。我が母ながら、いつ見ても優雅で美しい。今は若いから余計だ。
私は玄関にドサッと荷物を置いた。
「ああ、疲れた。あ、もう少ししたら、出かけるから」
「言ってることが滅茶苦茶よ。久しぶりに帰ってきたんだから、少しはゆっくりしなさい。
いつもは帰ってきたら一日中ゴロゴロしてるじゃないの」
そうなんだけど。
今年は違う。
今年は帰省したくなかった。
ノエルと付き合い始めて一週間が経った。
最初の頃は「この夢、早く覚めないかな」とばかり思っていた私だったけど、次第に「この夢、ずっと覚めなきゃいいのに」と本気で願うようになっていた。
それほどに、ノエルとのお付き合いは楽しい。
小さな喧嘩なんてしょっちゅうだし、イライラさせられることも多いけど、ノエルは3歳年上の、ううん、15歳も年上の私を楽しませるのに充分な話術と知識を持っている。
時間も相変わらず現実と同じスピードで流れ、私は半ば本気でこれが夢ではないんじゃないかと思い始めていた。
つまりこれは、タイムスリップ。
神様が私にくれた再チャンス。
私は人生をやり直せるんだ。
もしかしたら、ノエルと一緒に。
だけど頭の中には冷静な私もいる。
タイムスリップなんてある訳ない。
これはただの夢。ちょっと長い、ただの夢。
いつか覚める時が来る。
でもこれが夢なのかタイムスリップなのかなんてどうでもいい。私は今、高校時代を生きている。
今この瞬間を大事に過ごそう。
だから帰省なんてせずにノエルと一緒に寮に残っていたかったけど、
寮は今日から1週間閉鎖されてしまう。
・・・まあ、今日も後で会う約束してるけどね。
何着ていこうかな。いつもは制服ばっかりだから、こういう時くらいお洒落したい。
ノエルをあっと驚かせてやるんだ。
でも、ノエルってフリフリした格好は好きじゃない気がする。
私も好きじゃないし、どうしようかな。あの服はどうだろう、それともこっちの服の方が・・・
ところが。ママの一言が私の浮かれた気分を打ち砕いた。
「そうだ、桜子。今日は出掛けちゃダメよ」
「え!?どうして!?」
私はブーツを脱ぐ手を止め、ママを見上げた。
もうノエルと約束しちゃったんだから!
「伴野さんが来るのよ」
「・・・」
ママは私の浮かれた気分を打ち砕くだけでは飽き足らないのか、更に冷や水をぶっかけてくる。
もちろん、ママに悪気がないのは分かってる。
でも、その名前は今私が一番聞きたくない名前だ。
「・・・いなきゃダメ?」
「当たり前でしょ。みんなで夕食を食べましょうね」
嫌だ。
ノエルの口癖が頭に浮かぶ。
だけど逆らえないのは分かってる。
私はどんよりとした気持ちで、足を引き摺るようにして2階の自室へと上がっていった。
「桜子ちゃんは見るたびに綺麗になるな」
いかにも大企業の重役といった感じの伴野のおじ様がワイン片手にご機嫌な声を出した。パパとママはそのおじ様の向かいで穏やかに笑っているだけだ。
私はここぞとばかりに「氷の女王」に変身する。
「恐れ入ります」
「いやー、美人で頭もよくて上品。非の打ち所がないとはこのことだ」
あっそ。それはどーも。
さっさとそれ飲んで帰ってよ。
ウザい客相手にお酌をするキャバクラ嬢ってこんな気分なんだろうな。だけど私はキャバクラ嬢じゃないんだから、お世辞の笑顔なんて作れるはずがない。
ノエルと一緒の時は、自然と笑顔になれるのに・・・。怒った顔になることの方が多いけどね。
でも私がお世辞でも笑えない理由はこの伴野のおじ様だけではない。
私は伴野のおじ様の横で、私に負けず劣らず仏頂面をしている派手な男を見た。
金さえ積めば入れる高校の制服を着崩し、頭は赤に近い茶色。顔の作りだけはハッとするほど綺麗だけど、そのいでたちとやる気のないオーラが全てを台無しにしている。
伴野聖。
私の将来の旦那だ。
厚顔無恥タイプの伴野のおじ様と冷静沈着で穏やかなパパは、高校の同級生で何故か仲が良い。
だけど、周囲の目を気にしないおじ様を、パパが放っておけなかっただけなんじゃないかと私は睨んでいる。
とにかくこの2人は、自分たちの子供が同じ年に生まれたのをいいことに、勝手に結婚の約束をしてしまった。お陰で私たちは小さな頃からことあるごとに「お前たちは大きくなったら結婚するんだよ」と、言い含められてきた。
誤解のないように言っておくと、私は昔から聖のことを嫌いだったわけじゃない。
子供の頃は純粋に聖のことをかっこいいと思っていたし、聖と結婚するのも悪くないと思っていた。
だけど聖は違った。
伴野建設という大企業の社長一家の三男坊として甘やかされて育った聖は我が儘したい放題だった。
そして小学校に上がる頃にはことごとく親の言う事に反発するようになり、親も賢い兄二人と聖を比べては聖を「出来損ない」扱いした。
伴野のおじ様が私と聖の婚約を解消しないのは、それが昔パパと約束したことだからなのか、お邪魔虫を本竜家に押し付けたいからなのかは、分からない。でもどちらにしろ、私にはいい迷惑だ。
もちろん私はパパに何度も婚約解消を頼んだ。でもいつもは優しいパパも何故かこれだけは了解してくれない。パパは聖のことを生まれた時から知っているから、我が子のように思っているのかもしれない。うちは女の私一人しか子供がいないから余計なのだろう。
パパは、荒くれ者の聖を心配して、本気で自分の息子にしたいんだ。
「今日は聖君がうちに来たいと言ってくれたんだってね、ありがとう」
パパがまるで患者さんに尋ねるような口調で聖に話しかける。
パパは小児科のお医者さんだ。つまり「パパの患者さん」というのは子供。
聖の扱いなんてお手の物なんだろう。
だけど聖は私のパパをも邪険に扱う。
「いえ、別に」
聞いてるこっちがイライラしてくるような、口の中でもごもごと話す話し方。
いっつもそうだ。聖はこれからさきずっと、私が知ってる限りでは12年後もこういう話し方をしている。
パパは気を悪くした様子も無く、笑顔で「うんうん」と頷いた。
ああ、面倒臭い。
どういう風の吹き回しか知らないけど、なんでわざわざうちに来たいなんて言い出したのよ。さてはパパにお小遣いでもせびろうとしてるのね?ありがた迷惑とはこのことだ。
やっぱり、適当な理由をつけて出掛ければよかったな・・・
私はわざと正直に「許婚が来るから会えない」と電話で言った時のノエルの反応を思い出して、1人でむうっと膨れた。
ノエルが少しでも妬いてくれたら私だってなんとかして家を抜け出したのにさ。「あっそう」じゃあやる気も出ないわよ。ノエルは携帯を持っていないから、わざわざノエルの実家にまで電話したっていうのに。
私は自分から会う約束をキャンセルしたにも関わらず、理不尽にも心の中でノエルを責め始めた。
ふんっ。
明日会ったら、許してやらないんだから。
明日会ったら、とことん無視してやるんだから。
明日会ったら、・・・どこへ行こう?
そう言えばノエル、美術館に行きたいって言ってたな。どこまでも優等生なんだから。でも美術館じゃ、カジュアルな格好もなんだな。春用のワンピース、あったっけ?
私の脳は、相変わらず仏頂面な聖を映し出す視神経をシャットアウトし、代わりにノエルと白いワンピースを着た私が一緒に美術館の中を歩いている光景を作り出していた。