エピローグ2
桜子が連れて行かれたのは、待合室と診察室の間にある中待合だった。
そうだ、いつも8時50分からは病院で働く人全員で行うミーティングがあるんだった。
桜子はまるで本当に何年も仕事をしていなかったような気持ちになったのだが・・・そこには桜子の見慣れない光景が広がっていた。正確に言うと、見慣れない人達がいたのだ。
医者、看護婦、受付、そして院長である桜子の父、これは桜子の記憶通り。しかし、それに混じって4人ほどエプロンをつけた女の人達がいる。エプロンの下はみんな動きやすそうな格好をしてはいるけど白衣ではないし、デザインもまちまちだ。
彼女達は何者なんだろう?
この場にいるということは、病院の人間なんだろうけど・・・
桜子はその女性達の1人に目を留めた。小柄でぽっちゃりとした少し地味な感じの女性だが、桜子に負けず劣らず大きなお腹をしているから気になったのだ。それに・・・見覚えのある気がする。誰なのだろう、彼女は。
「あ、来た来た!」
桜子を引っ張って来た看護婦が扉の方を振り返り、歓声を上げた。
その声につられて振り向くと、そこにも見覚えのある人物が立っていた。
・・・え?
桜子は今度こそ息ができなくなるほど驚いた。
そこに立っていたのは、桜子と一緒にC大に通っていた三浦だったのだ。
「三浦君!?」
桜子は思わず声を上げた。
あれは全て夢の中の出来事だったはずだ。現実には桜子はC大に通っていないし、三浦なんて人物も知らない。
その三浦がどうしてここにいるのか。
三浦は白衣を着ていた。
そして手には何故か大きな花束を抱えている。
三浦は桜子の方をチラッと見て微笑むと、視線を目の前のお腹の大きなエプロン姿の女性に移した。女性は目を大きく見開き、驚きの表情で三浦を見ている。
桜子は唐突に思い出した。
この女性は三浦の彼女だ。
C大で文学部に通っていた三浦の彼女だ。
その彼女がここにいて、大きなお腹をしている。
つまりそれは・・・。
「今日で最後だな。お疲れ様」
三浦が彼女に花束を渡すと、周囲から大きな拍手が巻き起こった。それと同時に彼女の目から涙がこぼれる。
「・・・ありがとうございます・・・」
「頑張って元気な赤ちゃん産んでくださいねー!」
「はい」
「子供が大きくなったら、またここの託児所に復帰してくださいよ?」
「うん」
彼女は、はなむけの言葉を贈るみんなに向かって深々とお辞儀をすると、桜子の方を向いた。
桜子は驚きながらも、そのエプロンの胸の部分につけられた名札を見た。
みうら ひなこ
丸い平仮名でそう書かれた文字を見て、桜子は全てを悟った。
あれはただの夢ではなかったのだ。
人生のやり直しだったのかどうかは分からないが、夢の中の時間は確実に「今」を変えている。
「桜子ちゃんも、来月ね」
「あ、う、うん」
「頑張ってね」
「・・・うん。・・・ひなこちゃんも」
ぎこちなくそう言うと、ひなこは目に涙を溜めたままニッコリと微笑んだ。
桜子の父がひなこに歩み寄る。
「お疲れ様。桜子と三浦先生がマミーホスピタル内に一時預かりの託児所を作りたいと言い出した時はどうなることかと思ったけど、君が保母さんをやってくれたお陰で上手くいったよ。ありがとう」
「いえ、そんな・・・」
「桜子みたいにすぐに復帰しろとは言わないけど、いつか是非戻ってきてください。私もみんなも待っているよ」
「はい!」
桜子は、父とひなこ、そしてその横でひなこを温かく見守っている三浦を見て、言いようもない幸福感に襲われた。
三浦と語り合った夢は実現したのだ。
いや、三浦と桜子で実現させたのだ。
ただ、そこにあったであろう苦労や喜びを知らないことを、桜子はとても残念に思った。
三浦が桜子に話しかける。
「桜子もヒナみたいに俺にかかればよかったのに」
「嫌!それだけは絶対に嫌!」
記憶がなくともこれだけは自信を持って言える。
知り合いの産婦人科医に診察など絶対にして欲しくない。
ましてや、三浦などもっての他だ!
三浦は楽しげに笑う。
「桜子の子供、取り上げたかったのになー。ま、取り上げる医者が俺じゃ、聖さんも嫌か」
「そ、そうよ・・・」
桜子はお腹に手を置いた。それはパンッと張っていて、温かく脈打っている。
今更だが、やはり自分は妊娠しているのだ。
自分と聖との子供を。
この中には確実に生命がいる。
不思議な気分だった。知らぬ間に妊娠し、こんなにお腹が大きくなっている。
妊娠を知ったとき、自分はどんな風に感じたのだろう。
聖はどう思って何と言ったのだろう。
それも分からない。
どうも神様はいつも、桜子から一番楽しい時間を取り上げてしまうようだ。
だけどきっと2人は手を取り合って喜んだんだ。
そんな気がする。
「ほらほら、もう開院だぞ。産前休暇中の伴野先生はさっさと帰る」
三浦がわざとらしく背中を押して桜子を帰らせようとする。
先程ひなこが言っていた「桜子ちゃんも、来月ね」という言葉から推測するに、桜子は今臨月らしい。産前休暇に入っていて当然だ。
今日はひなこの送別会のために病院に来ることになっていたようだが、三浦は桜子の身体を心配して早く帰らせようとしているのだろう。
「うん。じゃあね、三浦君。・・・頑張って」
「何を?」
「えーっと、診察を」
「はあ?何を今更」
三浦が苦笑いする。だが、三浦にとっては「今更」でも、大学時代の三浦しか知らない桜子にとっては感慨深いものがある。
自分と三浦は医者になり、夢を叶えて2人でマミーホスピタルに勤めているのだ。
以前にはなかった仕事への情熱のようなものが、桜子の中に沸々と湧き上がる。
「・・・私も早く復帰して働きたい。早く三浦君と一緒に仕事がしたい」
桜子は心の底からそう言った。
「ああ、待ってるよ」
「法律では産後8週間から働けるわよね?あ、申請すれば産後6週間からOKなんだっけ?」
「おいおい、もうちょっとゆっくり休めって。子供もかわいそうだろ」
「うん。でもできるだけ早く復帰するね」
桜子は三浦に手を振り、病院を後にした。
三浦に気を使ってもらったのに申し訳ないが、桜子は病院を出ると家とは反対方向の駅の方へと向かった。
臨月のこの時期にわざわざ成田まで行く予定にしていたのだから、よほど大切な用事があるのだろう。
桜子は電車に乗り、席を譲られるという生まれて初めての経験をしてから、鞄を開いた。スケジュール帳に書かれている「人物紹介」を見るためだ。三浦と過ごした大学時代が本物なら、「人物紹介」も実在しているはずだ。慌てて家を出てきたので日記帳を見る暇などとてもなかったが、きっとそれもある。帰ったら見なければ。
しかし桜子は鞄を開いてがっかりした。
今持っているのは仕事用の鞄で、入っているのは財布に携帯、それと仕事関係の書類だけだった。スケジュール帳は見当たらない。おそらくプライベートで使っている鞄に入れたままなのだろう。
今日成田で何があるかとか、どんな人と知り合っているかをチェックしておきたかったのに。
ため息をついて鞄を閉じようとした時、見慣れない物が目に飛び込んできた。鞄の内ポケットに濃い緑色の手帳のような物が入っている。
いや、手帳にしては大きすぎるし、布製で四方にファスナーが付いている。
・・・あ、もしかして。
桜子は今まで散々目にしてきた、しかし自分で持つのは初めてという意味で「見慣れない」それを鞄から取り出した。
母子手帳ケースだ。
中に入っているのはもちろん・・・
「母子手帳!」
桜子は電車の中にも関わらず、思わず歓喜の声を上げた。
次回、最終話です。