エピローグ1
瞼の向こうの眩しい光に顔をしかめながら、桜子は目を開いた。
いつものベッド、いつものカーテン、いつもの部屋。
ナイトテーブルの上にはシフト表が散らばっていて・・・
戻ってきた。
桜子は背中がスッと冷えるのを感じた。
・・・違う。戻ってきたんじゃない。
夢が醒めたんだ。
どうしてかは分からないが、桜子はそう悟った。
「今」は、夫の聖と本当に心を通わすことのできた22歳のあの日ではない。
冷め切った夫婦生活の延長だ。
どうして・・・?
桜子は身体を起こし、隣を見た。ベッドの上に聖の姿はない。
昨日の夜は・・・そう、昨日の夜はいた。
「おやすみなさい」という桜子の言葉に返事はしなかったが、確かにベッドの中で眠っていた。
ということは、朝からパチンコにでも行ったのだろう。
桜子はため息をついた。
あの日々は、人生のやり直しなどではなかった。ただの夢だったのだ。
・・・当たり前だ。そんな都合のいい話があるわけない。
桜子はいつも以上に重く感じる身体を引き摺るようにベッドからおり、ナイトテーブルの上のシフト表を手に取った。
そこに書かれた日付は7月7日の木曜日。
間違いない。やはり夢が醒めたのだ。
日常が戻ってきた。
絶望よりも諦めが先に桜子の心を満たした。
しかしどうしてもまだ諦めきれないことが1つある。
聖の舞台を見たかった。
夢でもなんでもいい、聖が主役を演じているところを一目でいいから見たかった。
そうすれば夢が醒めても少しは幸せな気分が残る気がした。
だが醒めた夢は戻らない。後の祭だ。
これからはまたいつもの毎日を過ごすしかない。
桜子は落とすようにシフト表をナイトテーブルの上に戻すと、寝室を出て洗面所に向かった。
いつまでも呆然としているわけにはいかない。患者は待ってくれないのだ。
しかし洗面所の鏡に映った自分の顔を見て、桜子は再び落胆した。
鏡に映っているのは、紛れもなく28歳の自分だった。
まだ「年だ」というほどでもないが、22歳とは比べるべくもない。
・・・そう言えば、子供の頃聖に「結婚しよう」と言ったのは本当だったのかな。
桜子は鏡に映った自分に訊ねてみた。
だがもちろん、鏡が答えてくれるはずはない。あれも夢だったのかどうかすら、桜子は思い出せなかった。
そして顔を洗い、洗面所を出て、リビングダイニングの扉を開いた。
1人で朝食の準備をして1人で食べ、1人で片付けて1人で出掛ける。
いつものことだ。
そう、今日もこれからも・・・
「あれ、早いな」
その声で桜子の全ての動きが止まった。
「・・・聖?」
皿を片手に冷蔵庫を覗き込んでいた聖が、桜子に振り向いた。
皿の上にあるのは2枚の焼いていない白いままの食パンだ。
「おはよう、早いな」
「お、おは、よう」
「あ、そうか。今日は出掛けるって言ってたよな」
聖はキッチンから出てダイニングテーブルの上に皿を置くと、再びキッチンの中へ戻り、今度はミルクボールにシリアルと牛乳を入れた。
聖も間違いなく28歳の聖だ。精悍さが増し、大人っぽくなっている。
だが、心なしか以前の28歳の聖よりも身体つきががっしりしていて健康的だ。
「何してるの?」
「何だと思う?」
「・・・朝ごはんの準備」
「正解。ラジオ体操やってるようには見えないだろ」
当たり前だ。
「座れよ」
「・・・うん」
桜子は夫の見慣れぬ行動を訝しく思いながらも、言われた通りダイニングテーブルについた。
聖が桜子の前にミルクボールを置き、自分は食パンの置かれた場所に座る。
どうやら本当に朝食の準備をしていたようだ。しかも桜子の分まで。
まだ夢を見ているのだろうか?
「ほら、早く食わないシリアルがふやけるぞ」
「あ、うん。・・・いただきます」
「いただきます」
余り食欲は感じなかったが、桜子は聖が用意してくれたシリアルを口に運んだ。
聖は白い食パンをそのままかじっている。
「焼かないの?それに聖はお米の方が好きでしょう?」
驚きすぎて忘れていたが、聖はご飯派だ。パンを食べているところなど見たことがない。
すると聖は顔をしかめてこう言った。
「米の炊ける匂いが嫌だって言ったのはどこの誰だよ。パンの焼ける匂いもダメだっていうから、仕方なくこんなの食ってんだろ」
聖の言い方からして「どこの誰」は桜子のことのようだ。そんなことを言った記憶はないが、桜子は取り敢えず謝っておくことにした。
「そうね、ごめんなさい」
「お前もいくらつわりが酷いからって、シリアル以外も頑張って食えよ。栄養不足になるぞ」
「うん。・・・え?つわり」
桜子は椅子に座ったままゆっくりと自分を見下ろした。胸の下に大きな膨らみがある。更にその下に申し訳なさ程度に見えているのは膝の先だ。
この胸の下の膨らみは・・・
「あ、やべ、仕事に遅れる」
聖は口の中に無理矢理パンを押し込むと立ち上がった。
「仕事?聖、何か仕事始めたの?」
「どーゆー冗談だよ」
聖が皿を片付けながら愉快そうに笑う。
その笑顔は桜子に夢の中の聖を思い出させた。
「桜子もあんまりのんびりしてたら遅れるぞ。11時に成田だろ?」
「へ?成田?」
「おいおい、大丈夫かよ。間違って国内線の到着口に行くなよ。国際線だぞ」
「え、あ、うん、」
「じゃあ、いってきます。―――ママをあんまり蹴るんじゃないぞ」
聖は桜子のお腹に手を当てて優しくそう言うと、呆然としている桜子を残して家を出て行った。
わけが分からずしばらくぼんやりとしていた桜子が我に返ったのは、寝室から携帯の着信音が聞こえてきた時だった。
慌てて寝室に入り、携帯を手に取る。6年前の夢ではまだ一般的ではなかったテレビ付きの携帯だ。
ディスプレイに表示されているのは「マミーホスピタル」の文字。
しまった!
桜子は一気に現実に引き戻された。もう8時30分を回っている。
開院の9時まで時間がない。
「も、もしもし!」
パジャマのボタンを外しながら、携帯に出る。
しかし出っ張ったお腹が邪魔で上手くいかない。
「おはようございます、先生。どうしたんですか?みんな待ってますよ?」
良く知る看護婦の声に懐かしさを覚えたが、今はそれどころではない。
桜子は「すぐに行くから!」と言って携帯を切り、クローゼットから洋服を取り出したが・・・お腹が入らない。
いつの間にこんなお腹になったのだろう。
取り敢えずその疑問は置いておいて、桜子は着れそうな服を着ると化粧もそこそこに仕事用のバックを掴んで家を飛び出した。
8時50分。病院は産婦人科の方も小児科の方も慌しかった。開院前のいつもの光景だ。
間に合った、と胸を撫で下ろしながら桜子は更衣室に向かった。だが、こんなお腹で自分は何を着て診察をしているのだろう?妊婦の医者用の白衣などあるのだろうか。それとも普通のマタニティで診察しているんだろうか。
それに・・・
桜子は廊下の分岐点で立ち止まった。
右は小児科、左は産婦人科だ。
今までずっと桜子は左に進んでいた。しかし夢の中では桜子は小児科を目指していた。
「これ」はもう夢ではないと何故か確信はしているのだが、どうも桜子が知っている「現実」とは少し違うようだ。
いや、少しどころではない。
この膨らみはどうだ。
桜子がおそるおそるお腹に手を当てた時、突然後ろから「先生!」と声をかけらた。
振り向くと、先ほど家に電話をしてきた看護婦だ。
「始まっちゃいますよ!」
「え?」
「もー、何やってるんですか!ほら、早く!」
この人、こんなに気軽に私に口をきいてたっけ?
桜子はもと来た方向に腕を引っ張られながら、首を傾げた。