第5部 第13話
「俺は最初、マユミを騙していた」
私たちはガードレールに並んで腰を掛けていた。
自分の膝の上で組んだ手を見ながらポツリポツリと語られる聖の言葉。
私はそれを一言でも聞き漏らすまいと、その声に集中した。
「伴野建設のライバルである寺脇建設に何かダメージを与えて、親父に『俺でも役に立つんだぞ』ってことを見せつけたかった。その為にマユミに近づいたんだ。マユミはまんまと騙されて、俺は欲しい情報を手に入れることができた。俺の作戦は成功した」
成功した、と言うくせに、聖はちっとも嬉しそうじゃない。
そうよね。だってそれは聖が本当にしたかったことじゃない。聖は自分も伴野家の人間だという証が欲しかっただけなんだ。
聖の目的はマユミちゃんを騙すことじゃない。
「真相を知ったマユミは傷ついて俺を憎んだけど、俺はそんなことどうでもよかった。寺脇マユミなんて人間は俺にとってはただの駒だったからな。でも、何故だかマユミは俺を好きになった。どーゆー趣味してんだ、って思って呆れたよ」
聖は顔を上げ、自嘲気味に笑った。
「だけど俺もどうかしてた。最初は遊びのつもりだったのに、あいつがあんまり真剣に俺を慕ってくるもんだから、俺も思わず情にほだされた」
「・・・」
「気付いたら、本当に好きになってたよ」
うん、知ってる。それは知ってる。
それでも私は息が苦しくなった。
マユミちゃんはとことん酷い聖を好きになり、聖も全てを知った上で慕ってくれるマユミちゃんを好きになった。これ以上強い絆はない気がする。
「・・・どうして別れたの?」
「桜子も知ってるだろ、あのコンビニでの事故。あれは、俺がマユミを騙していた時の負の遺産みたいなもんだ。俺の馬鹿げた作戦のせいであの事故は起きた。俺はマユミと一緒にいてもマユミを不幸にするだけだと思ったんだよ。だからマユミとはもう会わないって決めたんだ」
好きだけどな、という言葉が続いたような気がして私は俯いた。
分かっていたことなのに・・・。
私、自分は昔より強くなったと思ってたけど、全然じゃない。
分かっていることを聞いただけでこんなに苦しくなるなんて、バカみたい。
「・・・マユミちゃんは、聖と戻りたがってるんじゃない?」
「ああ、それは分かってる」
じゃあ戻るんだ?
だってさっき聖、頷いたもんね。
「だけどマユミは俺ともう一度付き合いたいとは絶対に言わない」
「え?」
驚いて顔を上げると、聖の視線にぶつかった。
「こまわりに戻るって決めた時、マユミに会った。喜んでたよ。でも桜子も俺がこまわりに戻ることを応援してくれてるって言ったら、がっかりしてた。マユミは、俺がこまわりに戻るという事は、桜子とも別れることだと思ってたらしい」
「うん・・・」
「だけどマユミはもう、俺が桜子と別れるつもりがないと分かってる。だからやり直したいとは絶対に言わないと思う」
え?どういうこと?
聖の言っている意味が分からず、聖の目を見たまま少し眉を寄せると、聖は人差し指で私の眉間をグリグリと押した。
「皺寄ってるぞ、おばさん」
「う、うるさい!」
真面目な話をしてたと思ったらこれだ。
だけど聖の顔が赤く見えるのは気のせいだろうか。
聖はちょっと咳払いをすると、また真面目な顔に戻った。
「俺はマユミの心にも身体にも傷をつけた。だからマユミが俺とやり直したいって言うなら、俺にはそうする義務があると思う。でも、マユミがそう言い出さない限りはやり直さない」
「でも聖、マユミちゃんはやり直したいとは絶対に言わないって・・・」
「ああ」
やっぱり意味が分からない。
私はもう一度眉間に皺を作った。それを聖がまたグリグリする。
そして勢い良くガードレールから飛び降り、まだガードレールに座っている私に振り向いた。
「だから!マユミがやり直したいって言ったら俺はそうしないといけないけど、それは俺の意思じゃないってことだよ!それにマユミは俺の気持ちを分かってるから、やり直したいとも言わない!つまり俺とマユミが戻ることはない!」
「だけどさっき頷いたじゃない。聖は今もマユミちゃんのこと好きなんでしょ?」
「だーかーらー、それは!マユミが俺の気持ちを無視してまでやり直したいって言うならそうせざるを得ないって意味で頷いたんだよ!」
「俺の気持ち、俺の気持ちって、何?マユミちゃんのこと、好きじゃないの?」
「好きじゃない!」
え?
私の驚いた顔を見て、聖も驚いた。
まるで自分の言ったことが信じられないとでも言うように。
「・・・聖、もうマユミちゃんを好きじゃないの?」
「・・・いや・・・別にマユミに対する気持ちは前から変わってないんだけど・・・」
「じゃあ好きってことじゃない」
「・・・違う。そうじゃないんだ」
聖はしばらく私の顔を見つめた後、不意に私の手を引いた。
ストン、と身体が地面に落ちる。それでもまだ聖は私の手を離さない。
私たちは歩道で手を繋いだまま向き合う格好になった。
「俺は子供の頃から、自分は桜子と結婚すると思ってきた」
「うん。それは私も一緒」
「いや、違う。確かに結婚しようと言い出したのは桜子だけど、桜子はずっとそう思い続けてたわけじゃないだろ?小学生くらいからは、俺と結婚したくないって思ってたはずだ」
「・・・うん」
「だけど俺は違う」
聖の手に少し力がこもり、私もいつの間にか聖の手を握り返していた。
「俺は桜子と結婚したかった。お前は友達が少なくていつも1人で肩肘張って生きてたから、俺が守ってやらなきゃって子供なりに思ってたんだ」
「聖・・・」
「なかなか会えなかったし会いたいとも言えなかったけど、せめて桜子の誕生日くらいはと思って、毎年3月19日は何かと理由をつけて親父と桜子の家に会いにいってた」
「・・・あ」
思い出した。高校1年の春休み、聖が突然うちに来たから私はノエルとデートできなくなったんだ。
ノエルは、その日が私の誕生日だと知っていて聖が来たんじゃないかと言ってたけど、私は「まさか」と言って否定した。
でもノエルは正しかったんだ。
そしてそれは・・・そうだ、やり直す前の人生でもそうだった。
聖は毎年私の誕生日にうちに来ていた。私は「なんでよりによって私の誕生日に来るわけ?」と聖の訪問をうっとうしがっていたし、それが毎年私の誕生日であることを不思議にも思っていなかったけど、聖は私の誕生日を知っていて、私に会うためにうちに来てたんだ。
それなのに私は・・・
「マユミのことは本当に好きだった。今でも好きだと思う。でも、それは桜子に対する気持ちとはちょっと違うんだ。マユミといるとその時は楽しいけど、将来までは考えられなかった。なんて言うか、綱渡りみたいな関係で・・・安心してずっと続けられるものじゃなかったんだ。逆に桜子とは、楽しく付き合うっていう関係は想像できなかったけど、一緒に結婚生活を送ってるところをいつも想像してた。年を取った時に俺の横にいるのは桜子なんだろうな、って」
聖と私の手の上にポタポタと温かい物が落ちてきた。
涙だ。
私の涙が繋がれた手の上に落ちている。
「何泣いてるんだよ・・・桜子は俺と結婚したかったわけじゃないだろ」
私は大きく首を左右に振った。
それにつられて涙の粒も揺れる。
「子供の時も大人になってからも、私の方が結婚しようって言い出したんじゃない」
「そうだけど、本当に結婚したいと思ってたのは小さいうちだけだろ。今俺と結婚してるのは、同情だ」
「違う!」
私はずっと聖を好きだった。
やり直す前の人生でも、きっとずっと好きだったんだ。
どうして私はそれを認めようとしなかったんだろう。
どうして私はそれを冷めた夫婦関係の中に隠していたんだろう。
そんなことに何の意味があったんだろう。
時間を遡り、更に何年も人生をやり直してやっと、私は本当の意味で自分の気持ちに気が付いた。
私はずっと聖を好きだった。
「好き」
涙で顔を上げることができず俯いたままだったけど、私はそう言った。
言わなきゃいけない気がした。
28年間、ずっと自分の気持ちを偽っていた自分の為に。
「私、ずっと聖を好きだった。これからもずっと、」
好き。そう言い終わる前に、私は聖の胸の中にいた。
鼓動が息苦しいほど早く激しくなる。
夫婦なのに。もう何回も抱き合ってるのに。何を今更。
変なの。
変なの。
変なの。
だけど必死の言い訳も聖の言葉で全部吹き飛ばされた。
「俺も好きだよ」
足の力が抜けた私を聖が支える。
私はすがりつくように聖の背中を抱き締めた。
聖の囁くような声が耳に響いた。
「ずっと一緒にいような」
私は聖の胸の中で何度も頷いた。