第5部 第11話
結局私の家出は数時間で終わり、翌日から愛妻弁当配達も難なく再開された。
もっとも今日も寝不足ではあるけれど・・・まあ、それはいいとして。
「あ、桜子ちゃん、いらっしゃい」
「こんばんは、都築さん。・・・と、慎司君」
いつも通り8時頃にこまわりの事務所に入ると、なんとそこには都築さんだけではく慎司君もいた。都築さんは今度の劇には出演しないので今は事務所の当番らしいのだけど、慎司君がいるのは珍しい、というか、配達を始めて以来初めてだ。
でも慎司君は練習の合間にちょっと事務所に来ただけのようで、すぐに椅子から立ち上がった。
「じゃあ俺、練習に戻ります」
「ああ。頑張って」
慎司君がそそくさと私の脇をすり抜け、事務所を出て行こうとする。
が、そうは問屋が卸さない。
私は慎司君の腕をむんずと掴んだ。
「待った」
「・・・なんだよ」
「ちょっとお姉さんに付き合いなさい」
「・・・嫌だよ、俺今練習中だし」
「付き合いなさい」
私の強い口調に都築さんは目を丸くし、慎司君は身体を強張らせた。
「都築さん、慎司君を少し借りてもいいですか?」
「え、あ、いいけど・・・」
「聖には言わないで下さい」
「分かったよ」
私は都築さんにお礼を言うと、慎司君の腕を掴んだまま事務所を後にした。
外に出ると、熱を帯びた湿っぽい空気が身体を包んだ。いつの間にか季節は春から夏に衣替えを始めているようだ。
そんな纏わりつくような暑さの中、私は慎司君と向かい合った。
「どういうつもり?」
「・・・何が?」
「分かってるでしょう」
「・・・」
「どうして喪黒福造に聖の情報を売ったの?いくら貰ったの?」
慎司君が「喪黒福造?」と本気で首を傾げる。最近の若い子は「笑うセールスマン」も知らないようだ。
「門野プロダクションの社長の門野さんよ」
「・・・ああ・・・」
「ああ、じゃないわよ。知ってるくせに」
慎司君が黙り込む。どうやら私の推測は当たっていたようだ。
おそらくその動機も私の想像通りだろう。
「聖が門野プロに移れば、聖は完全にこまわりと切れる、って思ったんでしょ?」
「・・・」
「もしかしたら、こまわりとだけじゃなくてマユミちゃんとも、って」
慎司君は黙ったままだけど、心なしか沈黙の重みが増した気がする。
だけど言わなくちゃ。
「正直、聖とマユミちゃんが今も繋がっているのかどうか私には分からない。そんなことないって思いたいけど、聖がこまわりに戻ったきっかけはマユミちゃんだから、もしかしたらもしかするかもしれない」
「・・・」
「でも、もう聖がこまわりを辞めることはないわ。それは自信を持って言える。どんな美味しいスカウトの話が来てもね」
「なんで?」
慎司君が顔を上げ、ようやく言葉を発した。でもそれは心底不満げなものだった。
「確かに俺は聖さんのことを門野さんに話した。聖さんが辞めてる間に、門野さんがこまわりに聖さんを訪ねてきたんだ。辞めたって言ったら随分とがっかりしてた。だから戻ってきたことを教えただけだ。売ってなんかないよ、金も貰ってない」
「結婚してることや、うちの住所も教えたでしょう?」
「それは・・・悪かったけどさ。誤解のないように言っとくけど、俺は聖さんが嫌いな訳じゃない。今更こまわりに戻ってくることやマユミのことには納得できないけど、聖さんは本当に演技が上手いし、こまわりにいればこまわり自体の人気も上がる。尊敬してるよ。でもだからこそ、聖さんはこまわりにいるべきじゃないと思う。もっと大きなとこで大きな仕事をするべきだ」
慎司君は一気に捲くし立てるようにそう言うと、肩で息をした。
直感だけど慎司君の言葉に嘘はないと思う。もちろん多少は聖を疎ましく思う気持ちもあるだろうけど、慎司君は純粋に、聖はこまわりよりプロの世界でやっていった方がいいと思って、門野さんに聖のことを教えたのだろう。
私も慎司君と同じことを思った。だから聖にスカウトの話を受けるよう勧めたし、喧嘩もした。
でも、聖の想いは全然別のところにあったんだ。
「慎司君。もし慎司君がマユミちゃんに振られたらどうする?」
「え?」
「諦めきれずに片思いでも一生マユミちゃんのこと、思い続ける?」
「・・・」
「そんなことないわよね。その時は辛いだろうけど、きっといつか別の誰かに恋をする。だけど家族はどう?もし親がいなくなったら、別の家族を探す?」
「そんなこと、できる訳ないだろ」
「そうよね。聖も同じよ。聖にとってこまわりは家族であり家なの。どんなに貧乏でも条件が悪くても、代わりはないのよ」
今なら私にも、聖の言っていた「演劇をやって金を貰うのと、金を貰って演劇をやるのは全然違う」という言葉の意味が分かる。
聖が演技をするのは自分の為だけではなく、家族であるこまわりの為でもあるんだ。自分が演じることでこまわりにお金が入り、それがこまわりの為になる。だからこまわり以外のところで演劇をやっても意味がない。こまわり以外のところで演じることは、聖にとってはただのアルバイトと同じなんだ。それこそ生涯続けるようなことではない。
「家族であり家だって・・・じゃあ聖さんの本当の家族や家はどうしてるんだよ?」
「え、っと、それは・・・」
慎司君が一番答えにくい部分に直球を投げ込んでくる。
私ですら昨日知ったばかりの事実を慎司君にべペラペラ話してしまっていいものなんだろうか。
それに、それを聞いたところで慎司君も反応に困ってしまうだろう。
私が返答に悩んでいたその時、突然後ろから声がした。
「そんなの見りゃ分かるだろ」
驚いて振り向くと、少し離れたところに聖が腰に手を当て、立っていた。
慎司君も今気付いたのか、バツの悪そうな顔をする。
「聖・・・なんでいるの?」
「なんでって、お前らが2人で話してるのが窓から見えたから降りてきただけだよ。慎司に用があってさ」
「用?」
「ああ」
「・・・」
いつからいたんだろう。どこから話を聞いていたんだろう。
怒ってる風でもないけど、今降りてきたばっかりという感じでもない。
聖は歩きだし、私の横で再び足を止めた。
「その前にさっきの質問の答えだ。俺の家族がどうしてるのかって、そんなの見りゃわかるじゃん?今ここでお前と俺と話してるんだから」
「え?」
「俺の家族は桜子だ。夫婦なんだから当たり前だろ」
聖はいつもの調子で飄々とそう言い、「なあ?」と私に同意を求めてきた。
私の肩から力が抜ける。
・・・そうよね。聖と私は結婚してるんだから、夫婦だ。家族だ。
当たり前じゃない。
私は大きく頷いた。
「こまわりより、年月の浅い家族だけどね」
「それはずっとそうだろ。こまわりも桜子も一生俺の家族だから、先に家族になったこまわりの方が常に古いのは仕方ない」
私の手が聖の腕に絡まる。それは、そうしようと思ってそうしたのではなく、まるで呼吸をするように自然な行為だった。
私が手を伸ばすタイミングも、聖が腕と胴の間に少し空間を作るタイミングも、計算されたようにピッタリで、それでいてとても自然で。
ああ、これだ。
昔ノエルと同じ歩調で並んで歩いた時に感じたあの感覚。
それを今、私は聖と感じられている。
聖と私は夫婦なんだ。
私は聖の腕を握る手に力を込めた。
聖がそれに気付き、私を見てちょっと微笑む。
私もちょっと微笑み返す。
慎司君は、そんな私たちを何も言わずにじっと見つめていた。