第5部 第10話
「まさか」
私は思わず即答した。
だってそんなこと、昔の私が聖に言うはずがない。例え小さな子供だったとしても。
・・・そう、言うはずが・・・
「あ・・・」
「思い出したか?」
「・・・思い出したって言うか・・・」
私はようやく記憶の光の正体を掴んだ。だけどそれは20年前の物ではなく、もう少し最近の物だ。
あれは私が最初に「飛んだ」時、いや、飛ぶ直前。28歳の私は夢を見た。真っ暗な闇の中、子供の声だけが聞こえる不思議な夢だ。
その夢の中で子供の声は「大きくなったら、結婚しようね」と言っていた。そしてその声に別の笑い声が重なり、消えていった。
あれは・・・あれは、夢じゃなかった・・・?
あれは20年前、本当にあった出来事。
しかも「結婚しようね」と言った声は・・・私の声だ。
「私が・・・」
「そうだよ」
私はようやく我に返り、パパを見た。
「でも、あんなのただの子供の約束じゃない。どうしてそれが本当の許婚なんてことになっちゃったの?」
「それは・・・」
パパは口ごもった。聖と私の婚約には何か裏があるらしい。
私が促すように真剣にパパを見つめていると、パパは諦めたように小さく息を1つついて、こう言った。
「もう桜子も大人だから話していいか。実は聖君は所謂『愛人の子』なんだよ」
「え?愛人の子?それって・・・」
「聖君の父親が、他所で作った子だ。2人の兄とは母親が違う。聖君は伴野家で育てられたけど、幼い頃から自分の出生については知っていたらしい。それで父親にも母親にも懐かなかった」
そんなこと、初めて知った。しかも聖は子供の頃から知ってたなんて・・・
私は、聖の伴野家に対する態度や、伴野のおじ様の聖に対する態度に、不本意ながら納得するものを感じた。
「聖君の父親も母親も・・・本当の母親じゃない方の母親だ、2人も聖君のことを可愛がれなかった」
「・・・」
「うちには桜子しかいないし、もし聖君がうちの子ならもっと可愛がってあげられるのに、とママと良く話したものだよ」
「それで、私と聖を許婚にしたの?聖をうちの子にするつもりで?」
「うちの子にするつもりというか、将来聖君が桜子と結婚するという事が決まっていれば、我々も聖君の育児に携われると思ったんだ」
聖に愛情を注げない親に代わって、パパとママが聖に愛情を注ごうとした、という訳か。
パパは小児科のお医者さんだから、幼い聖を放ってはおけなかったのだろう。だからパパはいつでも聖を暖かく見守っていたんだ。
聖もパパにはどこか心を開いていた。
「桜子が子供なりに真剣に『聖君と結婚する!』と言った時、もしかしたら桜子もなんとなく聖君の置かれている状況が分かっているのかな、と思った。だから伴野家に許婚の提案をしたんだ。伴野家は誰も反対しなかったよ」
私は胸の奥が締め付けられるように苦しくなった。
聖は生まれた時から伴野家で厄介者扱いされていたんだ。
そして本当に「厄介者払い」されたんだ。
家に捨てられ、自らも家を捨てた聖は、こまわりに居場所を求めた。
ふと、高校時代にこまわりで見た聖の明るい笑顔を思い出した。
こまわりは聖にとって本当の「家」なのかもしれない。
聖がこまわりにこだわる理由が、やっと分かった気がする。
「さあ、食事にしましょう」
ママが明るくそう言ってバゲットが盛られたお皿をテーブルの中央に置き、夕食が始まった。
だけど私の心は既に別のところにあった。
早く帰ろう。
早く帰って、聖の夕ご飯を作らなきゃ。
急いでシチューをかき込み、舌を火傷しそうになったその時。
「あら、誰かしら」
チャイムの音にママが立ち上がり、私の後ろの壁に付いているモニターのところへ早足で駆け寄った。パパも座ったままそっちに目を向けたけど、私は振り向くことなくシチューに集中していた。
ところが。
「聖君だわ」
「え?」
私はモニターを見るより先に、向かいの壁の掛け時計を見た。
8時45分。こんな時間に聖がこまわり以外のところにいる訳ないじゃない。
しかも、私の実家に。
だけど振り向いて見たモニターに映っているのは、間違いなく聖の顔だった。
「お腹すいたから、来たんじゃない?」
私は驚きを隠すためにトンチンカンなことを言いつつ、急いで玄関に向かった。
どうして?
どうして聖がここにいるの?
急いで玄関まで来たくせに、なんだか悪戯を親に見つかった子供のような気分でおずおずと扉を開くと、高い位置にある聖の目に見つかった。
とたんに、聖の目が厳しくなる。
「やっぱりここか!実家に帰るならそう言ってから帰れよ!心配するだろ!」
私は更に小さくなった。
「・・・心配したんだ?」
「都築さんがな。・・・俺じゃなくて」
ムッとしながら取ってつけたようにそう言う聖に私は思わず笑った。
「そう。都築さんが心配してくれたんだ?」
「毎日毎日電車みたいに決まった時間に来る奴が来なかったら、何かあったんじゃないかって思うだろ、ふつー」
「うん。ふふふ」
「笑うな。家の電話も携帯も出ないし」
「え?嘘、携帯なんか鳴って・・・あ、サイレントになってる」
ポケットから携帯を取り出してみると、ディスプレイには仲良くサイレントマークと幾つもの着信マークが並んでいた。大学でのバイト中にサイレントにして、そのまま解除するのを忘れていたらしい。
「頼むぞ、全く・・・」
今度は聖が携帯を取り出し、どこかに電話をし始めた。相手はすぐ出たらしく、「はい、大丈夫です。何でもありませんでした」という内容から察するに、都築さんに私が見つかったことを報告しているのだろう。
都築さん、本当に心配してくれてたんだ。やっぱりいい人だなあ。
「おい。練習抜けて探しに来た俺は『いい人』じゃないのかよ」
聖が携帯を切り、恨めがましく私を見た。
「聖のどこが『いい人』なのよ。聖が『いい人』なら、世の中の人はみんな聖人ね」
「あのな」
「聖は『いい人』じゃなくて、私の旦那さんよ」
「は?」
私が聖の首に腕を回してキスをすると、聖はちょっと扉の中を気にしながら私の腰を抱いた。
「・・・昨日してないから、したくなる」
こーゆーシーンで、そーゆー言葉が出てくるのは、さすが聖ね。
でも今は、性欲の前に食欲と睡眠欲だ。
「うちでご飯食べて、一緒に帰って寝よう?」
「バカ、練習ちょっと抜けてきただけだから戻らないと。飯は帰ってから食うよ」
聖から身体を離して見ると、聖は練習用にしているジャージ姿だ。きっと都築さんから私が来ないことを聞いて、そのまま練習を抜け出してここまで急いで来てくれたんだろう。
私はもう一度聖に抱きついた。
「分かった。何食べたい?」
「桜子」
「はっ」
「・・・冷たい突き放し方だな。冗談だよ。んー、今日は暑いし素麺でも食うか。後、野菜となんか肉。肉じゃががいいかな」
「この時間からそれを用意しろって?贅沢ね」
「勝手に家出したのはそっちだろ」
ゴホン、と。後ろで咳払いが聞こえた。
聖が私の髪から顔を上げ、同時に私が振り向くと・・・
玄関口でニヤニヤしているパパとママと目が合った。