第5部 第8話
「伴野さん。私のことは覚えてますか?」
向かい合って座った開口一番、門野氏は聖にそう訊ねてきたけど、聖はポカンとしている。
「いえ。どこかでお会いしましたっけ?」
門野氏は苦笑いだ。
「普通はスカウトされたことなんて、一生覚えてるものだと思いますけどね」
「スカウト?」
聖と私の声がハモる。スカウトって、あの所謂「スカウト」ってやつだろうか?
「芸能人にならない?」みたいな。門野氏が言ったら怪しすぎるけど。
「聖、門野さんにスカウトなんかされたことあるの?」
「いや、ない。てゆーか、覚えてない」
「伴野さんが高校生の時だったと思いますよ。舞台のすぐ後に私が楽屋へ行って直接伴野さんにお話しました」
そこまで聞いて、ようやく聖の顔がパッとした。
「思い出した!」
「ほんとにそんなこと、あったの?」
「ああ。初めて舞台に立った時だよ。『こまわりを辞めて、うちで芸能人にならないか。演技もやれる』って誘われたけど、素人の俺の演技見てスカウトするなんて変なおっさんだなと思って断ったんだ」
「もったいなと思わなかったんですか?」
門野氏の問いに、聖は首を横に振る。
「あの時も言ったと思うけど、俺は別に金が欲しいとか芸能界に入りたいとかテレビドラマに出たいとか思ってるわけじゃないんです。舞台の上で演技がしたいだけです」
「でも今は、許婚と結婚しておきながら親の会社を辞めて勘当状態。金は必要でしょう」
「なんでそんなこと、知って、」
「門野さん!」
私は強引に聖を遮った。今は本題から逸れない方がいい。それに逸れるとまた別の大きな問題が起こりそうだ。
「門野さん。それで今日は何の御用なんですか?」
「単純なことですよ。もう一度伴野さんをスカウトにきました」
「まだ諦めてなかったんですか?」
聖が呆れるのも無理はない。聖が初めて舞台に立ったのは高校1年の頃だから、もう7年近く経つことになる。
「せっかく目の前に金の成る木が生えてるんです、諦めませんよ」
「金の成る木・・・」
「あの頃とは伴野さんも状況が違う。今の劇団で演劇を続けても金にはならない。将来もない。そんなことでこれからどうやって生活していくんです?奥さんはどうなります?」
「・・・」
「うちに来ていただければ、毎月安定した収入を得られます。それも、伴野さんならかなり高額の。伴野さんの嫌いな仕事もしないといけませんが、舞台もできます。現にうちには舞台をやっている役者もいます」
私は以前聖に内緒でこっそりとインターネットで調べた門野プロダクション所属の芸能人の名前を思い出してみた。アイドルみたいな人が多い中にも、確かに役者はいた。社長は腹黒いかもしれないけど、ちゃんとした株式会社だし、雇用制度もしっかりしている。
「契約金もお支払いしますよ」
「お支払い?こっちからはお金は払わなくていいんですか?」
思わず身を乗り出した私に、門野氏が頷いてみせる。
「もちろんです。これはスカウトですよ」
・・・いい話じゃない。お金が欲しいわけじゃないけど、門野氏の言う通りこのままずっとこまわりにいても将来はない。いつか引退して、適当な仕事に就くのが関の山だ。
それに比べて、きちんとした芸能プロダクションに所属すれば現役の間はお金に困ることはないし、貯金もできるから引退後もそう困らないだろう。
そう思わせるのがこの「笑うセールスマン」ならぬ「笑うスカウトマン」の思惑だと分かりつつも、私の心はグッと惹かれた。が。
「お断りします」
私と門野氏は同時に聖の顔を見た。聖の表情は話を始めた時から終始変わらないままだ。
「将来のことを考えるなら、俺は会社を辞めなかった。将来のことを考えないと決めたから、会社を辞めてこまわりに戻ったんです。桜子もそれで納得してくれたんだよな?」
聖が私の顔を見返す。「だから断っても文句はないよな」と言わんばかりに。
だけど。
「う、うん。でも、会社と芸能プロダクションは全然違うでしょ?舞台で演劇をしながらお金を貰えるのよ?今だってバイトしてるんだから、それが芸能プロダクションでの演劇以外の仕事に置き換わるだけじゃない。断る理由はないんじゃない?」
「奥様の言う通りですよ。それに演劇以外の仕事と言っても伴野さんの場合はドラマになるでしょう。演技には違いありません」
ところが門野氏はそれだけ言うと、ローテーブルの上に白い封筒を1つ置いて立ち上がった。
今はこれ以上聖を説得するつもりはないらしい。
「今日のところはお暇させて頂きます。お二人の一生に関わることですから、もう一度良く話し合ってみてください。またこちらからご連絡致します」
「笑うスカウトマン」は最後まで「笑うスカウトマン」だった。
その夜、聖と私は本当に寝ないで話し合った。次の日のことを考えると二人とも寝たほうが良いに決まっているし聖は眠りたがったけど、私はどうしても自分の意見を言いたいという衝動を抑えられなかった。
つまり・・・「話し合い」と言えば聞こえはいいけど、結局はただの喧嘩だ。
「何が不満なの!?今より大きな舞台で演劇ができて、しかもお金が貰えるのに!」
「だから、何回も言ってるだろ。演劇やって金を貰うのと、金を貰って演劇やるのは全然違うんだよ」
「言ってる意味が分かんない!」
聖は頑固だ。どうでもいい事には全くこだわらないくせに、譲れないところは絶対に譲らない。今更ながらに、以前マユミちゃんに怪我をさせた時聖が演劇を辞めたのは、よほどの覚悟だったのだと思い知らされる。
つまりそれほどに聖のショックは大きかった訳で。それほどにマユミちゃんのことが大切だった訳で。
そんなことを考えると、私はますます後ろには退けなくなった。
「このまま一生バイトして過ごすつもり!?」
「そんなの分からない。でも、桜子はそれでもいいと思ってくれたんだろ?」
「そうだけど、今はお金の話をしてるんじゃないの!せっかく大きなチャンスが目の前にあるのに、どうしてそれをみすみす逃すの!?やってみたらいいじゃない!」
「俺はこまわりがいいんだ。だから都築さんたちに無理言って戻らしてもらったんだ」
「じゃあもしこまわりが潰れたら、聖も演劇を辞めるの!?」
「もう辞めないよ」
聖はため息をついてベッドに横になったけど、私はますます納得が行かずに聖の身体を揺する。
「訳わかんない!その時になって門野さんとこ行ったって、もう雇ってもらえないかもしれないのよ!?」
「その時になってもプロダクションに所属したりはしない。それに俺1人でもいれば、こまわりが潰れることはないさ。桜子こそ、俺が復帰する時『こまわりじゃないと嫌だ』って言ったのには納得してくれたのに、なんで今回は分かってくれないんだよ?」
「プロダクションと他の劇団じゃ、全然違うじゃない!」
「こまわりじゃないって意味では同じだよ」
「違う!プロダクションだったら演技もできてお金も貰えるのよ!?プロダクションの何が不満なのよ!?」
そしてまた最初に戻る。もう何時間もずっとこんな感じだ。
プロダクションは嫌だと言い張る聖、その理由が全く理解できない私。
どこまで行ってもその平行線は交わることなく、結局そのまま夜明けを迎えたのだった。