第5部 第7話
その日、私が「愛妻弁当配達」を終えて帰宅したのは、いつも通り午後8時を回った頃だった。駐輪場に自転車を止め、マンションの正面玄関に向かう。
すると、正面玄関の扉の横についているナンバー式のインターホンの前に男が1人、立っていた。でっぷりと太った40代くらいの男だ。スーツを着ているところを見ると、保険か何かの勧誘なのかもしれないけど、それにしては歳がいっている気がするし、スーツも上等だ。
だけどまあ、私には関係ない。
私は構わずに正面玄関の鍵穴に鍵を差し込み、中に入ろうとした。ところが。
「すみません。501号室の伴野さんですか?」
突然、そのスーツ男が私に話しかけてきた。話しかけられたことにもビックリしたけど、私の名前を知っているのも驚きだ。
私は答える前に、ちょっと窺うようにして男を見た。一見、愛想が良さそうだけど、どこか「笑うセールスマン」的な雰囲気がある。余り相手にしたくないタイプだ。でも、さすがに「違います」と嘘をつくのも憚られる。
そこで私は久しぶりに「氷の女王」モードに入った。
「そうですけど。何か?」
ツンッとお高く留まった声を出す。
あ、いや、なんでもありません、失礼しました。
そう言ってさっさと帰ってよね。
しかし、どうもこの男の方が一枚上手らしい。
男は不気味な笑顔を絶やさず、「そうですか」と返してきた。引き下がる気はないらしい。
「お待ちしていた甲斐がありました」
「・・・」
「旦那様ももうすぐお戻りになりますか?」
「・・・」
何?聖に用がある訳?
この男、聖の知り合いなんだろうか。でもそれなら来る前に、一言くらい聖に連絡を入れそうなものだ。それとも聖が私にこの男が来ることを伝え忘れただけなのだろうか。
どちらにしろ、回答は少し考える必要がある。
「すぐ帰ります」と言ったら「では、お待ちしてもよろしいでしょうか?」とか言ってうちに上がってきかねない。こんな男と2人きりになるなんて危険すぎる。でも、正直に「まだまだ帰りません」と言えば、これから私が長い時間1人で家にいることがばれてしまい、それはそれで危険だ。
うーん。どうしたものか。
「・・・あの、お名前を伺ってよろしいですか?主人にすぐ帰るかどうか電話で聞いてみます」
おお。我ながらナイス切り替えし!怪しい男なら、これで退散するに違いない!
「では、お願いします。私、門野と申します」
・・・おや。正直に名乗っちゃった。もしかしてこの人、別に怪しい人じゃなくて、本当に聖に用があるんだろうか。
私は、警戒しまくっていた自分が急に恥ずかしくなってきた。
って、ちょっと待って。門野?聞いたことあるな。
「―――あ!もしかして、門野プロダクションの?」
「ご存知でしたか。はい、私、門野プロダクションの社長の門野です」
2週間くらい前に、慎司君が行ってた所のことじゃない!
だけど、聖、門野プロダクションの社長は腹黒くて有名だって言ってなかったっけ?
なんだ、やっぱり怪しい奴じゃん。
私は携帯を取り出すと、門野氏から目を離さないようにしてリダイヤルから聖の番号を選び、通話ボタンを押した。8回のコール後、留守電に切り替わる。でもこれくらいでめげちゃいけない。もう一度通話ボタンを押す。今度は5回で聖のちょっと真剣な声が聞こえてきた。
「どうしたんだ?」
いつも練習中はよほどのことがない限り聖に電話はしない。聖もそれを分かっているから、何か「よほどのこと」があったのだと悟っているのだろう。
「練習中ごめんね。聖にお客さんが来てるの。門野プロダクションの社長の門野さん」
「は?なんて?」
「門野プロダクションの社長の門野さん」
「なんで?」
「約束、してない?」
「してない。てゆーか、なんでそんなんが俺に会いにくるんだ?」
私が知ってるわけ、ないじゃない。
「どうする?帰ってもらう?」
私はわざと門野氏に聞こえるようにそう言ったけど、門野氏は相変わらずニコニコしている。さすが芸能界でもまれてるだけあって、ツワモノだ。
「んー。用件は?」
一度携帯を耳から外し、門野氏に若干修正した聖の言葉を伝える。
「何の御用でしょうか?」
「ここではちょっと。直接ご本人にお話します」
今度はそれを電話の向こうの聖に伝える。
「ふーん。でも、家に入れるのもなんだな。桜子と2人になるし」
「うん」
「家の近くのファミレスで待っとかせて。桜子は家にいていいよ。練習が終わったら、俺が直接ファミレスに行って会う」
「顔、分かる?」
「俺に用があるって言うんだから、向こうが分かるだろ」
「そうね」
通話を終え、門野氏に聖との会話の内容を伝えると、門野氏は愛想良く「分かりました」と頷いた。一応「遅くなると思いますが」と言ってみたものの、さすが業界人、「遅い時間」の感覚が一般人とは違うらしい。
「今からが私のビジネスタイムですからお気になさらずに。もし朝の9時を回るようでしたら、この番号に連絡を下さい」
と言って、私に名刺を差し出す。
「・・・絶対回りません」
こいつ、何がなんでも聖に会うまで帰らない気だな。
私は諦めて名刺を受け取ると、さっさと部屋に退散することにした。
聖から電話がかかってきたのは、それから3時間以上も経った、午後11時過ぎだった。
「門野さん連れて今から家に帰る。別になんも用意しなくていいから」って、そういう訳にもいかないでしょ!
私は慌ててパジャマからワンピースに着替え、コーヒーの準備を始めた。ケーキやクッキーなんて洒落た物はないけど、そこは許してもらおう。
あー、もう!「夜中に突然会社の上司を連れてくる」って妻が1番嫌がる夫の行動なんだから!
会社の上司じゃないけどっ!
髪を振り乱して、着替え・掃除・コーヒー準備を終えると同時に、玄関の扉が開く音が聞こえた。そしてリビングの扉が開くまでの14秒の間に乱れた髪を整え、再登場の「氷の女王」モードで門野氏を迎える。
「いらっしゃいませ」
「夜分に申し訳ありません。いや、綺麗なお宅ですな」
「恐れ入ります」
聖、ニヤニヤするんじゃないわよ。短時間でここまで部屋を片付けるのに、どれだけ苦労したと思ってるの。明日の朝食準備は聖がやってよね!
「外ではお話しにくい内容なので、お邪魔させて頂きました」
「ごゆっくりどうぞ」
ダメよ。10分で帰ってよ、10分で。眠いんだから。
「ありがとうございます」
10分よ、10分。
「できれば奥様もご一緒に聞いて頂けると助かります」
だーかーら!眠いんだって!!!
「はい」
あー!
私は、ソファの上で笑いを噛み殺す聖の横にちょこんと腰掛け、ローテーブルの下で思い切り聖の足を踏んだ。