第5部 第6話
しまったな。
私は赤信号の少し手前で足をついた。
こまわりへの愛妻弁当配達は自転車で行っている(毎日のことだから電車賃がもったいない)。だからこまわりを出た後、慎司君に追いつかないようにとのんびり自転車を漕いでいたんだけど、駅へ向かう道から逸れた脇道に入ったので「慎司君は駅に向かってるはずだから、もう大丈夫」と安心してスピードを出したのが間違いだった。
慎司君がなんでこんな脇道にいるんだろう。駅に向かってたんじゃないの?
うちへはこの脇道が近道だけど、普通は「こんなとこ」通らないと思うけどな。
私がそう思うのも当然だ。ここはビル群の裏の通りで、このまま真っ直ぐ行けば飲み屋街---と言えば聞こえはいいけど、要は歓楽街だ---がある。うちはそこを更に突っ切って、自転車で20分くらい行ったところだけど・・・慎司君もその辺に住んでるんだろうか?
信号が青に変わると私は自転車から降り、手で押しながら慎司君の後ろを歩いた。慎司君は私に全然気づいていない。こんなことならいっそ、前みたいにこまわりの前で声をかければよかった。今更そんなことしたら、まるでずっとつけてたみたいじゃない。
それとも「今更」と言わずに気軽に「あれ、慎司君の家もこっちなの?」と話しかけたらいいのかな?
迷っているうちに、私はいつの間にか家へ向かう道から逸れて、本当に慎司君の後をつけていた。だって慎司君、本当に歓楽街のど真ん中に向かって歩いてる。
慎司君って未成年よね?こんなとこに来ちゃいけないわよ。もし、本当に変なお店に入るようなら、止めなくっちゃ。
ところが慎司君は歓楽街の中心には目もくれず、黙々とそこを通過した。私はホッとしたけど、返ってますます慎司君の行き先が分からなくなってきた。この先はオフィス街だ。こんな時間にそんなところに何をしにいくんだろう。
ようやく慎司君が歩調を緩め入って行ったのは、オフィス街のビルの中では小さいビルの裏口だった。どこかの会社のビルではなく、いくつかの会社が共同で使っているビルだ。
さすがに中まではついていけないので、私は表に回ってビルを見上げた。3階の1室だけ明かりがついている。
正面玄関の前に立てられているフロア案内の看板を見てみると、3階は・・・「門野プロダクション」?
聞いたことない会社だ。でも「プロダクション」というくらいだから芸能関係の会社なのかな。それとも全然違う「プロダクション」かな。
他の部屋に明かりが灯る様子はないので、十中八九、慎司君は3階のあの部屋にいる。
もしかしたら慎司君、聖が戻ってくるのが嫌で、これを機にこまわりを辞めて「門野プロダクション」というところに入るつもりなのかもしれない。それならそれで仕方がないけど、こんな夜中にこそこそ裏口から「転職先」を訪れるのも変だ。
聖や都築さんは知ってるんだろうか。
それから15分ほどビルの周りをウロウロしていたけど、結局慎司君は出て来ず、私はそれ以上の収穫がないまま家路についた。
「門野プロダクション?」
こまわりから帰ってきてシャワーを終えた聖が、バスタオルで頭を拭きながら首を傾げた。
「ああ・・・なんか聞いたことあるな。小さな芸能プロだよ」
「やっぱり」
「そこがどうかしたのか?」
「えーと」
どうしても気になって聖に門野プロダクションのことを聞いてはみたものの、聖は慎司君がそこに行ったことを知らないらしい。そうなると、どうして私が門野プロダクションのことを知っているのか説明しなくてはいけない。
「て、テレビで見たの」
「ふーん?ま、何人かは有名な芸能人も所属してるからな。でもあそこの社長は腹黒いって有名だぞ」
「え!?そうなの!?」
私の食いつきの良さに、聖が退く。
「な、なんだよ」
「門野プロダクションの社長って腹黒いの?」
「?ああ、金の亡者だって評判だよ」
金の亡者・・・。慎司君が今日社長と会ってたとは限らないけど、そんな社長がいる会社と関係があるだなんて。
「・・・放っておけないわ」
「は?」
「ううん。なんでもないの。慎司君ってなんか放っておけない感じの子よね」
「はあ?」
慎司君を救えるのはお姉様(私のことだ)しかいない!
私は妙な使命感に駆られ、決然として立ち上がった。
「ベッドの上に立つな。なんか知らないけど、また厄介なことに首突っ込むなよ」
「またって何よ、またって」
「桜子って大人しそうに見えて、昔からよくトラブル起こしてたよな。何回目だったか俺が出てる劇を見に来た時にトイレで非常ボタン押したりさ」
・・・そんなことがあったのね。
「大学受験当日に電車乗り間違えて、降りた駅が俺の家の近くだったのをいいことに『免許持ってるでしょ!?迎えに来て!』って呼び出したり」
・・・知らないし。
「昔の彼氏に会いに、ニューヨークまで行ったりするし」
「それは聖も許してくれてたでしょ!」
「そうだけどさー。とにかく厄介事に巻き込まれないでくれよ。俺も劇に集中できなくなる」
何よ、厄介事って。・・・ん?劇?・・・そうだ!
私はベッドの脇に腰掛けている聖に四つんばいで近寄った。
「都築さんに聞いたわよ!主役、やらせてもらえるんだって?」
「ああ」
別に話をすり替えるつもりじゃなかったんだけど、聖もやっぱりこの話題は嬉しいらしく、顔を綻ばせた。
「俺を試す為とは言え、主役をやらせてもらえるなんて思ってなかったよ」
「N劇場でやるんだってね。頑張ってね」
「プレッシャーかけてくれるな」
「どんな劇なの?」
私がそう訊ねると、聖は少し悩んでからこう言った。
「舞台は中世ヨーロッパ、みたいなとこ」
「みたいなとこ?」
「半分ファンタジーだから。命を持った草木やいろんな物たちが、冷血漢の王を変えていくって話」
「聖はその冷血漢の王?」
「なんで分かる」
「だって」
都築さんてば。この劇だから聖を主役に選んだのか、聖を主役にするためにこの劇を選んだのか。ピッタリ過ぎる。
「あはははは」
四つんばいの体勢からそのままダンゴ虫のように丸まって笑っていると、聖にころんと転がされ、哀れ、ダンゴ虫は手足をバタバタと・・・は、さすがにしなかったけど、代わりに両手首を押さえられて動けなくなった。
聖の身体が重なってくる。
「あー、疲れた」
「じゃあ、寝ようよ」
「もう少し疲れてからな」
「なにそれ」
「それ」という言葉を言い終わる前にはもう、私のパジャマは半分脱がされていた。白いブラが見える。下のショーツもお揃いの白いものだ。
結婚してから下着に気を使うようになるなんて、我ながらおかしい。
「・・・ねえ。もし劇で慎司君が聖と絡むシーンが多い役だったら嫌?」
聖が私の首元でくぐもった声を出す。
「なんで?」
「だって慎司君、聖のこと避けてるじゃない」
「慎司が俺を避けてることが、俺が慎司を避ける理由になんないだろ」
「じゃあ、いいの?」
「全然」
普通は、避けられてたら自分も避けてしまうものなのに。聖らしい。さすが、ゴーイングマイウェイ男。
「ただ、周りの足を引っ張る演技はして欲しくないな」
「慎司君は演技が上手くないってこと?」
「上手くないっていうか、似たようなキャラクターしか演じられない。演技の幅がまだ狭い。今の慎司は、明るくておっちょこちょいなドジ役専門だ」
「あー・・・分かる、気がする」
「そう言えば前、信号機役やってたな。どうやったら上手く演じれるかとか色々俺に聞いてきたよ」
「は?どーゆー劇よ、それ」
私が訊ねると聖は、慎司君が信号機役で出ていたという劇の話を聞かせてくれた。ついでに慎司君のNG話や、2人で遅くまで残って練習してた話も。
やっぱり聖と慎司君は、昔は仲が良かったんだ。今はちょっとこじれちゃってるけど、聖は今でも慎司君とまた劇をやりたいと思ってる。
いつか2人の間にわだかまりがなくなって、また一緒に演じられる日がくるといいな。