第5部 第3話
聖の携帯が鳴ったのは、聖が会社を辞めて数日経ったある日の夜だった。
聖がテレビを消し、少し緊張した面持ちで携帯に出る。
「はい。・・・はい、分かりました」
そしてそれだけ言うと携帯を閉じた・・・かと思ったら、寝室からコートを取ってきて玄関に向かった。
私は慌ててリビングから出て、靴を履く聖の背中に訊ねた。
「出掛けるの?」
「都築さんが、こまわりに来いって」
「待って!私も行く!」
「え?」
驚いて振り向く聖には応えずに、私も寝室に飛び込み急いで着替え始めた。春とは言え夜はまだ寒いので、少し厚手の上着を準備する。
「なんで桜子が来るんだよ」
靴を履くのを中断したのか、聖が寝室の扉にもたれて聞いてきた。
だって、もしも悪い結果だった時に聖の傍にいたいじゃない。前みたいに電話越しで沈黙するなんて嫌だ。傍で聖の手を握っていてあげたい。
「行きたいの。いいでしょ?」
私は下着姿のまま小さなウォークインクローゼットの中に入り、ワンピースがかかったハンガーをバーから外した。
「別にいいけど、桜子が文句言ったところで聞いてもらえないぞ?」
「分かってるわよ、そんなこと。文句なんか言わないし。一緒に行きたいだけ」
ワンピースをハンガーから外したところで私は動けなくなった。聖が私を後ろから抱き締めてきたのだ。下着姿でこの状況はちょっとヤバイ。
「・・・聖、今から出掛けるんでしょ」
「分かってる」
本当に分かっているのかどうか、聖は私の身体をクルッと反転させると今度はキスをしてきた。その手が私の腰に回る。
でも、さすがに今はそれ以上するつもりはないらしい。聖と私はしばらくキスをしてから離れた。
「よし、行くか」
「うん」
私たちは大きく頷き合って、家を出た。
劇団こまわりは、以前と変わらずあの小さな雑居ビルの中にあった。2階が事務所、3階が練習場になっているらしい。
聖はまず2階の事務所の前に立った。その扉には木製の「劇団こまわり」の可愛らしいかんばん。懐かしい。これを初めて見たのは・・・そうだ、高校生の時にノエルとのデート中に聖を見つけてここまで追いかけてきた時だ。あの時は、聖がここに入って行ったことに滅茶苦茶驚いたんだっけ。
聖が看板の少し上辺りをノックすると、それを待っていたかのようにすぐに扉が開かれた。
中から若い男の子が顔を出す。
「よう、慎司」
「・・・聖さん、その人誰?」
慎司と呼ばれた男の子は私を値踏みするように見た。なかなか可愛らしい子だけど、その表情から察するに余り聖に好意的な感情は持っていないらしい。
「俺の奥さん」
聖がそう答えると慎司君の表情が更に険しくなった。
「奥さん?聖さん、結婚したの?」
「ああ」
「マユミは?」
「別れた」
淡々と返す聖。しかし慎司君の方は「そう」とは納得できないらしい。
慎司君は睨むように聖を見ると、声を荒げた。
「別れたんじゃないだろ!?聖さんが一方的にマユミを捨てたんだ!マユミがどんな思いしたか分かってんのかよ!」
慎司君がどういう反応をするか分かっていたのか、聖の表情は変わらない。私は「聖だって苦しんだのよ」と言い返したいのを堪えるのに必死だった。
マユミちゃんの怪我に責任を感じて聖が身を引いたとは言え、周囲の人には「聖がマユミちゃんを捨てた」としか見えないだろう。もしかしたらマユミちゃん自身もそう思っているのかもしれない。
慎司君は聖を睨んだ後、私たちの間をすり抜け、荒々しい足取りで階段を上っていった。
聖が私を見て肩をすくめる。
「あの慎司君って子、マユミちゃんのこと好きなの?」
「マユミちゃん」と気安く言ってから、聖からマユミちゃんの名前を聞いたことがないのを思い出し、慌てて付け加える。
「マ、マユミちゃんって、あのコンビニの子のことよね?」
「ああ。慎司の奴、桜子の言う通りマユミのこと好きらしい」
「聖の復帰には反対してるの?」
「あいつだけじゃないけどな」
マユミちゃんは聖に復帰して欲しいと思ってるのに、マユミちゃんを好きな慎司君はそれに反対している。聖が復帰すれば2人の仲も復活する、とでも思っているんだろうか。
そんなこと、ある訳ないのに。
・・・。
「聖」
私は、慎司君に続いて階段を上り始めた聖のコートの裾を掴んだ。
「何だよ、危ないだろ」
聖が驚いて振り向く。そして多分、私の表情を見てもっと驚いたと思う。
「なんだよ」
「ねえ・・・もし劇団に復帰できたら、どうする?」
「どうするって、何が?」
「だから・・・マユミちゃんのこと」
「マユミのこと?」
「聖、言ってたよね、マユミちゃんは劇をしてる聖を好きだって。もし聖が復帰したら、マユミちゃんは聖と寄りを戻したがるんじゃないかな」
聖だって別れたくてマユミちゃんと別れた訳じゃない。聖が劇団に復帰してマユミちゃんが聖と寄りを戻したがれば、聖は・・・。
信じたい。でも。
「そうかもな」
聖はそれだけ言うと、クルッと前を向いて階段を上っていった。
3階の部屋に入ると、そこは間仕切りが全くない広い板張りの部屋だった。このビル自体がとても小さいので「広い」と言ってもしれてるけど、以前からダンスか何かの練習場だったのか、それともこまわりが改装したのか、壁の一面が全て鏡になっているきちんとした練習場だ。
でも今はそんな「いかにも」な劇の練習場に感激する余裕もない。
だって私たちの目の前には、色んな表情で聖を見る劇団の人達がずらっと何十人もいるのだから。
3割が歓迎、2割が戸惑い、そして5割が反対、そんなところか。
慎司君は最後のグループだ。
男の人が1人、私たちに近づいてきた。
見覚えがある。団長の都築さんだ。
都築さんは私を認めると、優しく微笑んだ。
「やあ、昔一度会ったよね?」
「はい、ご無沙汰しています。・・・桜子です」
なんと名乗っていいのも一瞬悩み、私は名前だけ言った。もちろん、慎司君に気を使ってのことだ。それにもしかしたら、慎司君みたいにマユミちゃん派の人が他にもいるかもしれない。
聖はここによくマユミちゃんを連れてきていたのだろうか。
さっきの聖の態度に対する不安が更に大きくなり、横に立つ聖を見上げると、聖は私の気遣いを知ってか知らずか堂々と私を紹介した。
「都築さん。昼間言わなかったけど、俺結婚したんです、こいつと」
「え?」
慎司君以外の全員の表情が微妙に変化する。中には驚きを隠そうとしない人もいる。
だけど1番驚いているのは目の前の都築さんだ。都築さんもマユミちゃんのことは知ってるに違いない。
でも都築さんの驚きは、聖がマユミちゃんと別れて私と結婚したことのせいではないようだ。
「聖、お前会社辞めて劇団に復帰したいって言ってなかったか?」
「はい」
「でも結婚したんだろ?どうやって食べていくんだ?嫌と言うほど分かってると思うけど、劇団じゃ稼げないぞ?むしろマイナスだ」
「分かってます」
都築さんはなんとも言えない表情で、今度は私を見た。
「奥さんは・・・桜子ちゃんは、それでいいの?」
「はい」
「大変だよ?」
「はい」
「・・・」
都築さんが後ろを振り返り、劇団員達を見回した。
今は全員が困惑の表情を浮かべている。
聖の復帰を歓迎する人も「結婚したのに大丈夫なのか」と心配しているのかもしれない。
だけどみんなの雰囲気がさっきより和らいでいる。
そんな気がした。