第5部 第2話
聖と私の睡眠時間を返して欲しいくらい、パパの反応は薄かった。
「そうか」
それだけ?
「ところで2人とも、昼ご飯は食べたかな?」
まだですけど。
「今日の午後は休診だから、みんなで何か食べに行くか」
そうね。
ところで聖が会社を辞めて演劇の世界に戻る、っていう話はどう思ったの?
「聖君の門出を祝して寿司にするか」
ニコニコとそう言うパパに、聖と私はようやく胸を撫で下ろすことができた。
でも考えてみれば、パパの反応は不思議ではない。パパにとっては、子供の頃から見てきた聖は息子も同然。その息子が夢を追い続ける決意をし、娘であり息子の妻である私がそれを応援すると決めたのだから、パパが反対する理由なんてあるはずもなく。
それでもこう言わずにはいられない。
「パパ、ありがとう」
「ご馳走様です」
・・・違うでしょ、聖。
私が聖のわき腹にエルボーをお見舞いすると、聖は身悶え、それを見たパパは楽しげに笑った。
それから3時間後。お寿司でお腹一杯になった私は、大学の図書館に向かっていた。
大学時代の勉強量や手術の練習量が医者としての質を多少なりとも左右することを、私は経験上よく知っている。もう一度大学で勉強できるこのチャンスを無駄にはしたくない。
まあ実は、聖に触発されて「私も頑張らなきゃ」と思ったに過ぎないんだけど。
その聖は、会社を辞めて再び演劇をするという決意を告げに伴野のおじ様の家に行っているところだ。
私は少し重い足取りで構内を進んだ。
伴野のおじ様の反応は目に見えている。
私のパパは聖を自由にさせてくれるのに、どうして本当の父親である伴野のおじ様は聖を縛りたがるのだろうか。本当の父親だからこそ?でも、聖ももう子供じゃない。流されるような形ではあったけど、私と結婚して家庭を持っているのだから、いくら父親だからと言ってもおじ様が聖の決断にとやかくいう必要はない気がする。
それともこういう考え方自体、子供を持っていない若造の思いあがりなんだろうか。
でも、それでもいい。聖は悩んで遠回りして、自分が歩むべき道を選んだんだ。
誰にも聖を止める権利なんてない。
いや、妻である私にはある。だけど私は止めない。
だから聖は進めるんだ。
それを誇らしくさえ思いながら図書館に足を踏み入れたところで携帯が振るえ出し、私は慌てて回れ右をした。
聖?にしては早すぎる気もする。
でも聖だ。
私は首を傾げながら携帯に出た。
「聖?どうしたの?電車賃、足りなかった?」
「子供じゃあるまいし」
声は笑ってはいるけど、元気がない。伴野家に行く途中に何かあったんだろうか。
私は不安になって携帯を握り直した。
「今、どこ?」
「H駅の近く」
「H駅?」
伴野家とはまるで反対方向の、以前聖が住んでたボロアパートのある駅だ。今更そんなところに何の用があるのだろう。
「そこで何してるの?おじ様はどうだった?」
「別にどうもこうもないよ。今度こそ勘当だって追い出されただけ」
だけって・・・
じゃあ、どうしてそんなに元気がないの?
「その後、こまわりに行って来た」
え?こまわりって・・・聖が所属してた劇団?
私の中に予期せぬ不安が広がり出した。
まさか。
「・・・もしかして、復帰を認めてもらえなかったの」
「ああ」
「・・・」
沈黙が流れる。
電話越しの沈黙がこんなにも救いがたいものだなんて、初めて知った。寄り添うことも手を握ることもできない。
ただ一緒に黙っているしかできない。
「・・・どうして?」
私が直接聖の劇を見たのは高校の時の一度だけだ。でも聖は上手かったと思う。
劇団の人達がどうして聖の復帰に反対するのか分からず、しばらくの沈黙の後、私はその疑問をそのまま口に出した。
聖が自嘲気味に答える。
「ま、なんとなく覚悟はしてたけどな。前に俺、初めての主役を貰えたって言っただろ?俺はあの劇の公開直前に急に劇団を辞めたんだ。劇は代役でやったけど、結局上手くいかなかったらしい。で、今度はいきなり戻りたいなんて言ったら、そりゃみんな反対するさ」
「そんな・・・じゃあどうするの?他の劇団にする?」
「俺はこまわりで劇がやりたいんだ」
突然真面目な声でそう言い切る聖に私はため息をついた。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ・・・こまわりでもどこでも、入れるところに入ってやり直さなきゃ」
「勝手なのは百も承知。でもどうせならとことん勝手になってやる。桜子に迷惑かけることに変わりはないんだしな」
今度はため息の代わりに苦笑いが漏れる。確かに聖の言う通りだ。今更少しくらい周囲に気を使ったところで何にもならない。
「それにどちらにしろ、俺のことや俺がどうやってこまわりを辞めたかは他の劇団の奴らも知ってるだろうから、どこも俺を入れたがらないよ」
「そう・・・じゃあどうするの?」
「団長の都築さんが考えて電話くれることになってる」
都築さん・・・。私はふと、1人の男の人の顔を思い出した。
劇団の建物の外で聖を待っていた私を気遣い、聖を呼び出してくれた都築さん。
あの優しい都築さんも、聖の復帰に反対したのだろうか。
「都築さんはなんて言ってるの?」
「都築さんは喜んでくれて、なんとかみんなを説得しようとしてくれてる」
「そっか」
私は少し安心して肩の力を抜いた。一人でも聖の味方がいるなら、しかもそれが団長の都築さんだなんて、心強い。
「でも劇はチームプレイだから、無理矢理気に食わない奴とやってても面白くないし、いい演技はできない。輪を乱すようなら、俺は戻らない方がいい」
「うん・・・そうなったらどうするの?」
「そうなったら、今度こそ演劇はスッパリ諦める。さすがにもう親父に甘えたくないから、何か別の定職を探すさ。そうだ、桜子の病院で雇ってくれよ。掃除くらいならできる」
「思いっきり甘えてるじゃない、それ」
「あはは、それもそうだな」
ようやく聖の声に明るさが戻る。
贅沢を言えば、いつでも聖の声は明るい方がいい。だけど長い人生の中では、さっきみたいにそうじゃないこともあるだろう。
そんな時、私にできるのは・・・
「困ったことになったら、その時一緒に考えようよ」
一緒に困って一緒に考える。
いい考えが浮かばなかったら、また一緒に困る。
そんなことしかできないけど、それでいいよね?
また聖が笑う。
「楽観的だなー」
「聖ほどじゃないけどね」
「ま、そう言うなよ。そうだ、会社も辞めたことだし今から暇になったからブラブラしようぜ」
ほんと、楽観的なんだから。
だけどそれが聖のいいところでもある。
「ダーメ。私は勉強があるの。夕ご飯の準備、よろしくね」
私はわざと返事を聞かずに携帯を閉じて、1人で笑った。