第4部 第16話
「ついたー!」
私は広がる海の前で、数日前飛行機から降りた時のように思い切り背伸びをした。
途中、ノエルとマユミちゃんがどうしてもと言うので一度休憩を入れたけど、ほぼ予定通り2時間ちょっとで私の運転するスポーツカーはニューヨークに、正確にはニューヨーク港の前に到着することができた。
なんだ、私、結構まともに運転できるじゃない。
「そう思ってるのは桜子だけだ・・・」
ノエルがフラフラしながら後部座席から降りて来る。その腕の中には、ノエル以上にフラフラのマユミちゃん。
「どうしたの、2人とも」
「車酔いだ!」
「ヤワねえ」
「あの運転で酔わない奴はいない!」
「私、酔ってないわよ?」
ノエルが盛大にため息をつく。
意外だな、ノエルって乗り物酔いなんかするんだ。子供みたい。
「あのな・・・もういい」
ノエルはマユミちゃんの介抱を始めた。ノエルはマユミちゃんのことを本当に自分の妹みたいに思ってるみたいだ。優しく「大丈夫か?」とか「ここから船に乗るけど、乗れるか?」とか言っている。
だけど「船」という言葉を聞いて、マユミちゃんは更に青くなった。
「船!?む、無理!船でどこに行くの?」
そう言うマユミちゃんにノエルが「ほら、あそこだよ。見えるか?」と、海の向こうに浮かぶ島を指差した。その島では、本や雑誌でよく目にするあの像が威厳在る面持ちで右手を上げている。
「自由の女神?」
目的地を知らされていなかったマユミちゃんが驚く。
「自由の女神を見るためにここに来たの?」
ノエルが頷くと、マユミちゃんはポカンと遠くの自由の女神を眺めた。大方、私とノエルがナツミさんの目を盗んで浮気しようとしているとでも思っていたんだろう。
こんな観光で、なんだか逆に申し訳ない。
「ごめんなさいね、マユミちゃん。これはノエルとずっと昔に約束してたことなの」
「え?約束?」
「そう」
ノエルが続きを引き受ける。
「付き合ってた頃に約束したんだ。5年後の桜子の誕生日に、一緒にニューヨークの自由の女神を見ようって」
マユミちゃんはまだ要領を得ない様子で、私とノエルを交互に見比べた。
「付き合ってた時に一緒に見た映画があってね。その中で主人公の男女が、30歳になったら付き合ってても付き合ってなくても海外のある場所で会おう、って約束をするの。私がそれに憧れて、ノエルに『私達もああいう約束しようよ!』ってお願いしたの」
「・・・」
「場所はどこでもよかったんだけど、映画の帰りにお台場に寄った時、自由の女神を見て『一度本場のが見てみたいよね』ってことで、ニューヨークの自由の女神にしたの」
間違ってないよね?
ノエルを盗み見ると、別段変わった様子はない。どうやら間違ってはいないようだ。
私はホッと胸をなでおろした。
「そういう訳だよ」
ノエルがそう言うと、マユミちゃんはようやく納得したように頷き、ノエルに訊ねた。
「その約束、ずっと覚えてたの?」
「ああ、覚えてた。だけど、さすがに別れて何年かした頃には、もう実現することはないだろうって思ってた」
私も頷く。
「私も。でも、旦那のアメリカ出張が約束の日に重なってたから、ついて来たの。まさか本当にノエルと再会するとは夢にも思わなかったけど」
「ほんとだよな。それに、お互い結婚してるとはもっと思わなかった」
「ふふふ、そうよね。5年って長いわねー」
私は時間を飛んでいるから、ノエルと別れてから5年も経ったという感覚はない。それでも長く感じられるのだから、ノエルにとっては本当に長い時間だったのだろう。気持ちが変わり、他の人に惹かれるのも至極当たり前のことなのかもしれない。
人は忘れる動物だから、なんて虚しいことは言いたくない。でも、人は過去を思い出に変えることのできる動物だとは思う。辛い思い出、楽しい思い出、色々あるけど、人は過去を思い出として記憶に留めたまま未来に進むことができる。
ノエルも私も、お互いを思い出に変えて、今を生きている。
「マユミちゃんも来ればよかったのに」
私は自由の女神を下から眺めながら言った。大きい。「実際に見ると思ってたより小さい」なんて言う人もいるけど、私はそうは思わない。それに大きさそのものよりも、「自由の女神」然としているこの雰囲気の大きさに飲み込まれてしまう。
「お台場の自由の女神とは訳が違うわね・・・」
「当たり前だろ。マユミも車酔いしてなきゃ、来れたのにな。せっかくニューヨークまで来たんだから見せてやりたかった」
「車酔いのせいじゃないでしょ。私たちに気を使ったのよ、きっと」
「そうか?だってあいつ、俺と桜子のこと疑ってたじゃん」
「疑ってたけど、許してくれたみたいじゃない。私たちが浮気なんかしないって分かったのね」
「当たり前だろ・・・なんで今更浮気なんか」
「今更だから、するんじゃない?」
ノエルににじり寄ってみると、ノエルはサラッと私を交わした。
「だめだめ、桜子は演技が下手すぎる」
「ふふ、バレた?」
馬鹿ね、ノエル。今のはわざと下手な演技をしたのよ。
もし、私が本気だってノエルが勘違いしちゃったら、ノエルが困るでしょ。
海風が吹く。自由の女神のバックと言えば当然海なんだけど、こうして実際に海に浮かぶ小さな島に自由の女神が立っているのはなんだか変な感じだ。
それに潮を含む海風は自由の女神にとっては天敵のようだ。下から見ても、その身体が海風で錆びているのがよく分かる。特に顔の腐食は進んでいるらしい・・・
「あ!」
「どうした?」
「顔!マユミちゃんて、顔に怪我したんじゃないの!?」
怪我どころじゃない。コンビニで煮えたぎった油のついたザルを顔にぶつけられたんだから!
言ってから、どうして私がそんなことを知っているのかとノエルに不審がられるかも知れない、と思ったけど、言ってしまったものは仕方ない。
でもノエルは頷いただけだった。
「見えたんだな」
「え?」
ノエルが自分の額の右の部分を指差す。
「ここに傷があるのが」
「う、うん」
本当は見えてないけど・・・そうか、傷を隠すために前髪を分厚くしてるんだ。
「結構深くて大きな傷だろ?一生残るんだってさ」
「そう・・・」
やっぱり残るんだ・・・。
「かわいそうね、女の子なのに」
そんな当たり前の慰めの言葉しか出てこない。ところがノエルは首を横に振った。
「いや、本人は全く気にしてない」
「え?」
「詳しくは知らないけど、あの怪我、男ともめてつけられた傷らしいんだ。マユミの父親は男に対して怒ってたみたいだけど、マユミは多分今もそいつのことが好きなんだろうな、傷が顔に残るよりも、男を失ったことの方にショックを受けてる」
「・・・」
そして今、こうしてその「男」の妻と会った。マユミちゃんは今、海岸の向こうで何を思っているんだろう。マユミちゃんは・・・これからどうやって生きていくんだろう。
「こうやって2人で一緒にいるのって、なんか懐かしいな」
私が俯いて黙っていると、ノエルは私を覗き込んだ後、自由の女神を見上げて明るくそう言った。
「え?あ、うん。・・・なつかしいね」
私も顔を上げ、ノエルと一緒に自由の女神を見上げた。
きっとノエルと付き合っていた1年3ヶ月、私たちはこうやって並んで同じ景色を沢山見てきたのだろう。
それに嫉妬した日もあった。
だけど今、私はそれを味わうことができている。
中途半端に終わっていた私とノエルの恋愛の最後の1ページがようやく書き加えられた気がする。
私は今日のことを思い出にして、また新しい日々を綴っていくんだ。
そこに聖はずっといるんだろうか?
私は大きく息を吸い込んだ。
胸の奥の小さな不安を押し潰すように。