第4部 第13話
「あー、溜まる」
空港の最後の自動ドアをくぐった瞬間、うーんっと背伸びをしながらそう言う聖に私は頷いた。
「ほんと、長時間の飛行機ってストレス溜まるよね。エコノミーだったし」
私も背伸びをした。背骨が変になりそうだ。
伴野建設は大きな会社だから、それなりに「上」の社員が出張する時はビジネスクラスを用意する。でも聖は今は平社員。例え将来の重役候補である息子でも、おじ様は特別扱いしないのだ。もちろん、私の旅費は自腹である(ちょっとパパに援助してもらってるけど)。
聖が「は?」という感じで首を振った。
「俺が言ってるのはストレスじゃないくて、性欲のこと。エコノミーじゃできないからなー」
ファーストクラスでもできないと思いますが。
こりゃ今夜は大変だな・・・たった1日しなかっただけなのに。以前の結婚生活が嘘のようだ。
「せっかく2人とも初めての海外なんだから、観光しようよ」
「そんなのはホテルにチェックインしてからだ。一回やらないことには落ち着かない」
「・・・聖。アメリカに何しに来たのよ。ていうか、今からする気?」
「もちろん。仕事は明日からだし、今日はのんびりしようぜ」
「しようぜ」は「のんびり」にかかる動詞なのか、それだけで意味をなす動詞なのか。聖と会話してると思考回路が変になってくる。
だけど、思考回路が変になったついでだ。私はアメリカに来たという感慨は取り敢えず置いておいて、聖に逆らうことなくホテルへと向かった。
私が取り敢えず置いておいた感慨にふけることができるのようになったのはたっぷり3時間後のことだった。聖はと言えば、時差ぼけなのか体力の限界なのか、ベッドの中でぐっすり眠っている。私だって眠いけど、さすがにせっかくのアメリカ旅行を無駄に終わらせたくはない。それにやらなきゃいけないこともある。
私はなけなしの英会話の知識を駆使して丸っこいオンボロタクシー―――イエローキャブを拾い、身振り手振りを交えて目的地を伝えた。
「I want to go to a car shop」
「A car shop? which shop?」
「あーうー。レンタカー」
「RENTACAR?What's that?」
「えーっと、えーっと。レンタ・カー・ショップ」
「RENTA CAR SHOP?Oh!You wanna rent a car?」
「Yes!Yes!」
そっか。レンタカーは「レント・ア・カー(車を借りる)」の和製英語だ。
アメリカ人のくせに運ちゃんは「ガッテン承知!」とばかりにイエローキャブを発射させた。それはもう、発進ではなく正に発射。日本も地域によってはタクシーの運転マナーが悪いというけど、そんなものこのイエローキャブに比べれば深窓のお嬢様みたいなもんだ。
とは言う私も、完全なペーパードライバー。しかも免許を取ったのは大学1年生の時で、今から4年前・・・が、残念ながら私はこのやり直しの人生ではその時代を飛ばしてきた。だから実際私が教習所に通っていたのは、28歳の私からすれば10年も前になる。アメリカに来る前に国際免許証は取ってきたものの、あんなもの書類にサインするだけで誰でも取れる。
それでも私がレンタカーを借りようとしているのには理由がある。聖と来たこの街から自由の女神があるニューヨークまでは、移動手段が車しかないのだ。それも片道4時間はかかる。でもこのイエローキャブみたいに飛ばせば、2時間くらいで着かないかな。
怒涛の車線変更で20分ほどで郊外のレンタカー店にたどり着き、そこでも私は「あーうー」言いながらなんとか車を借りることができた。だけどどこでどう英語を間違えたのか、出てきたのは4人乗りの真っ赤なスポーツカー。・・・ま、なんでもいいけどね。
そして今度はさっきイエローキャブで来た道を赤いスポーツカーを運転して戻る。すると不思議な事に、ものの8分ほどでホテルに到着。さすがスポーツカー。イエローキャブとはエンジンが違うわ。
ベルボーイに車を預けて・・・さて、どうしよう。
せっかくだから観光したいけど、初めての海外で1人じゃ右も左も分からない。ならば真っ直ぐ行こうホトトギス、とメインストリートをひたすら真っ直ぐ歩いていく。だけど、道行く人もお店も空気も全て日本と違って、それだけでも十分面白い。観光できるのは今日と明日だけだから、しっかり堪能しておこう。
というのも、今日は日本では3月17日、アメリカでは3月16日。ノエルとの約束は私の誕生日である3月19日だけど、日本の3月19日なのかアメリカの3月19日なのかが分からない。もっと言うと何時に会う約束なのかも不明だ。そこまで決めていなかったのかもしれないし、決めていたとしても今の私には分からない。だから、日本の3月19日とアメリカの3月19日の両日、つまり明後日と明々後日、朝からニューヨークへ行こうと思う。二日とも往復するのは面倒だから本当はニューヨークに泊まりたいんだけど・・・それは聖が許してくれない。でも、ノエルとの約束を実現させるために私をこうしてアメリカまで連れてきてくれたのだから、贅沢は言うまい。
私は「本当に日本とサイズが違うのかな」とマックに入ったり(ハンバーガーのサイズはほとんど一緒だったけど、飲み物の大きさが半端ない!しかもオレンジジュースの甘いこと、甘いこと・・・)、早速パパたちへのお土産を物色したりした。
そしてあっという間に時間は過ぎ、聖から「どこ行ってるんだよ?腹減ったから飯食おうぜ」と携帯に電話が来た時には既に夜の7時を回っていた。日が長いから全然気づかなかった。
お土産が入った袋を手に、メインストリートを駆け足で戻る。見ると、私みたいに時間感覚がおかしくなっているらしい日本人観光客があちこちのお店から急いで出てきている。予約しているディナーの時間が迫っているのだろう。私はパックツアーじゃないから予約はしてないけど、聖がお腹をすかせて待っていると思うと、自然と早足になる。
その時、30メートルほど先にいる日本人のカップルが目についた。若い。二人とも高校生くらいだろう。だけど私が2人に気づいたのはその若さのせいではなく、2人がメインストリートの人波に逆行していて、しかも随分とのんびり歩いていたからだ。
多分、2人のうちのどちらかが、もしくは2人とも、アメリカに住んでいてこの辺には慣れているんだろう。
凄いなあ。英語、ペラペラなんだろうな。
思わず羨望の眼差しを2人に送る。
最初に私の視線に気づいたのは女の子の方だった。クルンとしたボブに茶色がかった瞳が印象的な子犬系の女の子。ボーっと自分たちを見つめる日本人観光客を訝しげに思っているようだ。そしてその表情を見ているうちに私は「この子、どこかで会ったことがある」と直感的に感じた。でも女の子の方は、私に見覚えがあるという様子ではない。
私も女の子が誰か思い出せないままに、やがて女の子が自分を見ていない事に気づいた男の子が女の子に何かを話しかけ、男の子も女の子の視線を追う。
そして私と男の子の視線がぶつかった。
その瞬間、身体に雷が落ちたような衝撃が走る。
・・・嘘。こんなことって・・・
「桜子?」
懐かしい声が私の名前を呼んだ。




