第4部 第10話
区役所でのごく簡単な手続きを終え、私は晴れて「伴野桜子」になった。
「呆気ないもんだな」
「そりゃそうよ。婚姻届を出しただけなんだから」
だけど今日は1月1日ということで、区役所自体は閉まっているというのに、私たちみたいに婚姻届を提出する人がたくさんいて臨時の窓口は大混雑だった。ただの紙切れ一枚出すだけで、随分と並ばされてしまい、寒さで身体が凍りそうだ。
寒空を見上げて聖が白い息を吐いた。下から見る顎から喉にかけてのラインがとても綺麗で男らしく、思わず見惚れてしまう。
「・・・とにかく無事に入籍できたんだからいいじゃない」
「そうだな。桜子、本当に結婚式挙げなくていいのか?」
「うん」
結婚式なんかやっても、まだ学生の私の招待客は限られているし、そもそも私はそういう派手なことが好きじゃない。でも。
私はまだピカピカのゴールドリングが付いている聖の左手を握った。
「聖がやりたいなら、やってもいいよ」
「パス」
「でも、劇団でお世話になった人とかにお礼がてら・・・どうしたの?」
聖が急に空から地面に視線を落とし、つまらなさそうな顔をした。
しまった。演劇の話なんか、しない方が良かったかな。だけどそう言えば、聖、劇団はどうしたんだろう。おじ様には辞めるように言われたし、来週からは会社も始まるのに・・・。
「もう辞めたよ」
「え?いつ?」
「不動産屋で部屋の契約した帰りに、劇団へ行って辞めるって言って来た」
「・・・」
そう言えばあの日、聖は「ちょっと用事がある」と憂鬱そうに言っていた。あの用事というのは、退団の話をしに行くことだったんだ。
私は右手に少し力を込めた。
「劇団の人達、なんて?」
「みんなカンカンだった。団長だけは俺をかばってくれたけど、腹立てて当然だよな。劇の公演までもう少ししかないのに、いきなり主役が辞めるって言い出したんだから」
聖が自嘲気味に笑う。
「・・・その劇、どうなるの?」
「代役がいる。でも成功しないだろうな。みんな、やる気なくしてたし」
「そんな・・・だったらせめて、その劇が終わってから辞めれば良かったのに」
「いいんだ」
「おじ様との約束があるから?」
「違う。主役なんて一度演ってしまったら、演劇に未練が残る。そしたら・・・」
あいつを忘れられなくなる。
言葉には出さなかったけど、聖の気持ちは聞こえた。
だから私はそれ以上演劇の話をするのをやめ、聖の左手を握りなおした。
「ねえ。初詣、行こう」
「初詣?1月1日に?」
「1月1日だから、でしょ」
「絶対混んでるぞ。面倒臭い」
素直というか正直というか、ただのモノグサというか。
聖を無視して道路に向かって左手を上げると、待ってましたとばかりにタクシーが私たちの前に停車した。
「もったいない」
「最初の日くらい贅沢しようよ。最初をケチると、この後の人生ずっとケチになっちゃう」
「最初の日だから質素にするんだろ。そしたら後の人生、何があっても贅沢に感じられていい」
・・・一理ある。
私はタクシーの運転手に何度も頭を下げ、妥協案として「歩いて」「混んでない近くの小さな神社へ」初詣に行くことにした。
道すがら、既に初詣を終えてきたらしい人達と何人もすれ違う。聖と私は手を繋いだままヒソヒソ声で人間観察を行った。
「あれは高校生カップルだな。男の方、あの顔は『あわよくばこの後ホテルに』とか考えてるぞ」
「でも女の子の方はそんなつもり無さそうね」
「ありゃ、男が強引に迫って破局するパターンだ」
今度は40代くらいのおじさんと若いOLという組合せ。
「不倫カップル。決定」
「そう?よく見て。顔が似てる。親子よ。決定」
「バーカ。お前こそよく見ろ。お揃いの指輪つけてる親子がどこにいるんだ」
「あ、本当だ。じゃあ、夫婦なんじゃない?」
「だから。不倫・略奪の末の夫婦だ」
「どうしてそう不倫にしたがるの」
なんてくだらない。
でも、こんなくだらない会話が無性に楽しくて愛おしい。
私たちが平静を装いながら不倫(?)カップルをやり過ごすと、次は向こうから若い男女と幼稚園くらいの女の子が歩いてきた。女の人のお腹は「お見事」と言いたくなるほど立派にせり出している。臨月なのだろう。
「うーん、面白くない。あれはただの家族だな」
「ね」
「いや、待て。ほら、あの男、サラリーマンじゃなくて自由業って感じだろ?実は旦那が出張中っていう若妻が、子供と一緒にチャラい不倫相手と初詣に行ってたんだ」
どうしても不倫にしたいらしい。あんなお腹でどうやって不倫するというのか。
「だからだな、あれは不倫相手の子を身ごもってて、旦那はそれを知らずに自分の子だと・・・」
「違うって。普通の親子よ」
「そんなの、わかんねーぞ。もしかしたら女の子も不倫相手の子供かも」
あの親子からしたらいい迷惑だ。ゴメンナサイ。他愛ない会話だと思って許して下さい。
すると、両手をパパ・ママに繋がれていた女の子が、突然その手を離して走り出した。そして私たちの横をすり抜け、信号が赤の横断歩道へ向かって突進する。私も聖も一瞬ヒヤッとしたけど、その女の子はきちんと横断歩道の前で立ち止まって、向い側の信号をソワソワといった感じで見つめた。
「綾音!ダメよ、走ったら危ないでしょ。ちゃんとママとおてて、繋ごうね」
ママが小走りで女の子に駆け寄る。すると女の子は、急に真剣な顔になってママの方に振り返った。
「ママも走っちゃダメ!お腹の中で赤ちゃんがひっくり返っちゃうよ!」
いや、ひっくり返らないけどね。確かに走るのはよくないですよ、お母さん。
「もし産気づいたら、桜子が診てやれよ」
「あのね・・・」
ところが、冗談というのは恐ろしいもので。
女の人は私たちとすれ違ったところでピタッと足を止め、次の瞬間、地面に崩れ落ちた。
・・・え?何?
横断歩道の方から女の子が、そして反対方向から男の人が駆け寄ってくる。聖と私はその光景をスローモーションの映画でも見ているかのように、呆然と眺めていた。
「美貴!!!」
男の人の叫び声でスローモーションが解かれ、普通の再生へと切り替わる。そしてそれと同時に私の身体の金縛りも解かれた。
私は急いで聖を見上げた。だけど聖はまだ放心状態だ。
男の人が女の人の肩を抱きかかえ、女の子がその首にすがりついた。
聖がよろける。
コンビニでの出来事を、お嬢様のことを思い出しているんだ。
私は両手を伸ばして聖の顔を挟んだ。血の気がなく、冷たい。
それでも私は聖の目を見て必死に話しかけた。
「聖。ねえ、聖」
「・・・」
「聖。あれは彼女じゃない。彼女は今ここにはいない。ここにいるのは・・・私よ、聖」
「・・・うん」
「私はここにいる。これからもずっと聖と一緒にいるわ。だから、私を見て」
次第に聖の焦点が合ってくる。そしてその黒い瞳の中にはっきりと私が映し出されていく。
「・・・桜子」
「・・・うん」
「桜子」
「うん」
聖も手を伸ばし、私の顔に触れる。
「なんで泣いてるんだ?」
「うん・・・」
聖はそのまま私の頭を抱え込むように、私を抱き締めた。鼓動が早い。聖の鼓動も、私の鼓動も。
そしてそれが少しずつゆっくりになり、やがて完全に一致した。心臓の以外の全ての音が消える。
全ては一瞬の出来事。だけどこの瞬間は永遠だ。
耳のすぐ後ろで聖の声がする。
「・・・ん」
「え?」
「赤ちゃん。助けてやらないと」
「うん」
聖と私は身体を離し、数メートル先でうずくまる3人を見た。だけどもう、聖にも私にも動揺はない。
「救急車だな?」
「ここからだと、タクシーでうちの病院に運んだ方が早いわ」
「分かった」
「それとパパに電話して、オペ室の準備をしてもらって」
そう言ってから3人に向かって走り出そうとする私の腕を、聖がくいっと引っ張った。
「桜子。待って」
掠めるようなキスが唇に落ちてくる。
「しっかりな」
「・・・うん!」
そして私と聖は、別々の方向に走り出した。