第4部 第8話
親に結婚の報告をした翌日、私たちは早速賃貸マンションの契約を行った。契約を急いだのは、あの部屋に住みたいというこだわりがあった私ではなく、聖の方だった。
聖が私の突然の求婚に応える気になったのは、お嬢様のことで自暴自棄になっているからなのか、とにかく彼女のことを忘れてしまいたいからなのか。どちらにしろ、聖はこのまま私と結婚してもいいと思っているようだ。
多分、その方が聖にとって楽だから。
これから一人で貧乏生活と演劇を続けるのは、聖には辛すぎる。しかも「彼女を傷つけた」という重荷を背負っているから尚更だ。
それならいっそ誰かと新しい生活を始めて、過去を流してしまう方が楽、そう思ってるんだと思う。それでも私に不満はない。というより、元々聖の傷を少しでも癒す為の結婚だ。不満なんてあるはずがない。
「『職業』は・・・会社員?『勤め先』は伴野建設、と。まだ勤めてないけどいいかな?」
不動産屋の机で聖が契約書をちょっと右肩上がりの文字で埋めていく。前は私一人で来たっけ。
「いいんじゃない」
「『同居人』は本竜桜子。『同居人との関係』?入籍してないけど妻か?」
妻。
私は6年間の結婚生活の中で、自分が聖の妻だと思ったことがない。思いたくなかった。だけど今は・・・なんだかくすぐったい。
私、聖と結婚するんだ。
不動産屋の人に「婚約者で結構です」と言われ、聖は「なるほど」と言って契約書を書き進める。
「ちょうど昨日、部屋のクリーニングが終わったところなんですよ。よく空き部屋だとご存知でしたね」
「はあ、まあ」
「中をご覧になりますか?」
聖と顔を見合わせる。
「俺は別に見なくていいけど」
「私も。寸法の書いた間取り図だけ下さい」
「あ、はい。かしこまりました」
不動産屋の人がちょっと肩透かしを食らったような顔で、間取り図を取り出す。普通、結婚を控えたカップルは、いや、普通の人なら、自分がこれから住む部屋を一目でも見たがるものだ。でも聖にとってこの引っ越しは彼女と過ごした部屋を出るためだけのものだし、私は目を瞑っていても歩けるくらい部屋の中を良く知っている。改めて見る必要はない。
間取り図を手に聖と私は不動産屋を出た。まだ11月だというのに、街にはクリスマスのイルミネーションが溢れている。あんな事故がなければ、聖はお嬢様とクリスマスを楽しく過ごしていただろうに・・・
「あ」
「どうした?」
お店のクリスマスディスプレイをぼんやりと眺めていた聖が私に振り返る。
「う、ううん。ねえ、これからどうする?」
「桜子、大学は?」
「今日は自主休講」
「そんなんで医者になれるのかよ」
苦笑い。だけど笑顔に変わりはない。
私もつられて笑顔になる。
「今から買い物に行くわ。家具とか家電とか。伴野のおじ様にお金貰ったし」
私は鞄をポンポンと叩いた。正確にはお金ではなくカードだ、200万くらいは使っていいと言われている。以前はこのカードが足枷のように重かったけど、今日は新生活の為にありがたく使わせてもらおう。
「一緒に行く?」
「ああ。・・・あ、やっぱりダメだ。ちょっと用事がある」
「そう」
「アパートの荷物もまとめないといけないからな。引っ越し、明後日だろ?」
「うん」
お嬢様のお見舞いに行くのかな、なんて考えが浮かぶ。いや、それはないだろう。聖は敢えて自分をお嬢様から遠ざけようとしているのだから。
心なしか重い足取りで雑踏の中に消えていく聖の後姿を見送った後、私はまず家具屋でも電気屋でもなく、デパートに向かった。
すっかり忘れてた。12月25日のクリスマスは聖の誕生日だ。まだ1ヶ月くらいあるけど一緒に暮らし始めたらこっそりプレゼントを準備するなんてできないかもしれない。「かもしれない」というのは、聖に誕生日プレゼントを用意するなんて初めてのことだから、できるのかできないのかも分からないのだ。
聖へ初めての誕生日プレゼントを贈る。その考えが浮かんだ時から、何を贈るかは自然と決まっていた。
前の私たちにはなかった物。愛情、笑顔、幸せ・・・たくさんある。このプレゼントもその一つだ。だから物そのものよりも、私が聖に贈るという行為自体に意味がある。
ある程度決めていたとは言え、どれにするか散々悩んだ挙句、2時間ほどして支払いを済ませ、デパートを出た。今度こそ家具・家電だ。でもこちらは悩むまでもない。住むところと同じで、以前の結婚生活で使っていた物と同じ物を揃えるつもりだ。
面倒臭くて全て大型ショッピングモールで揃えたのが幸いして、6年前と全く同じ物を迷うことなくピックアップし(実際には商品カードを取って行っただけだけど)、レジへ。
「お支払いは」
「カード。一括で」
「一括、ですか?」
レジのお兄ちゃんが目を丸くする。
「カードには支払い限度額がございまして・・・」
知ってますとも。
シルバーでもゴールドでもない、黒々としたカードを差し出すと、お兄ちゃんは口を噤んでカードを受け取った。さすが伴野建設の社長だな。
伴野建設の社長・・・そうだ。おじ様は伴野建設の社長だ。
その時私は、初めて、本当に初めて、「聖は伴野建設の御曹司なんだった」と唐突に認識した。
聖にはお兄さんが2人いる。2人とも聖とは違って一流大学出で、しかも一級建築士の資格まで持っているという超エリートだ。おじ様の跡を継ぐのは長男か次男のどちらかだろう。それでも聖も伴野一族に違いはない。伴野建設に勤め続ければ将来は副社長か専務か・・・そういう上の人間になるのだろう。
あの聖が会社重役?
「こちらにサインを・・・どうされましたか?」
一人でニヤニヤしている私をお兄ちゃんが訝しげに覗き込む。
「いえ、なんでも・・・はい、これでいいですか」
「ありがとございました。お買い上げの商品は明後日の11時にご指定の住所にお届けいたします」
「お願いします」
私は早足で店を出た後、ついに堪えきれなくなり道行く人の目も気にせずゲラゲラと笑った。
仕事もせず、家でゴロゴロしている聖は嫌いだった。
じゃあ私は聖にどうなって欲しかったというのだろう。
会社の重役?違う。私は「偉い人」が嫌いという訳じゃないけど、聖は「偉い人」なんて器じゃない。器とか以前に、そこは聖のフィールドではない。
ゴロゴロしてて欲しくない。でも会社勤めして欲しいわけでもない。
つまり、私は聖に何も求めていなかった。
愛情の反対は憎悪ではない、無関心だ。そう言ったの誰だったか。
私は聖を愛していなかった。
聖と過ごした6年間は、本当に無意味なものだった。
それに気が付いて、笑わずにはいられなくなった。6年間、約2100日、私は何をしていたんだろう。
今、はっきりと分かった。
神の怒りか憐れみか、私はあの無意味な6年間をやり直すために過去へ戻ってきたんだ。
神様。
これから聖は本来の自分のフィールドではない所へ歩みだそうとしています、そして私はそんな聖を支え続ける決めました。私たちの結婚生活には意味があります。
だからどうか、私からこれ以上時間を取り上げないで下さい。
私はこれから聖との一瞬一瞬を、この目で見ながら聖と一緒に生きて行きたい。
だからお願い。もう私を未来へ飛ばさないで。