第4部 第7話
「家に戻ってくる?」
伴野のおじ様は平坦な声でそう言った。だけど喜んでいるのは一目瞭然だ。ただそれが、息子との諍いが解消されたからなのか、息子が自分の手中に戻ってきたからなのかは分からない。
聖も聖で、「勘当を解消してください」と頭を下げた訳じゃない。「家に戻る」と言っただけだ。
この親子はどこまで行ってもこんな感じなのだろう。聖の愛情表現下手も頷ける。
私は綺麗に敷かれた琉球畳の上で正座し、隣の聖を見上げた。聖は無表情に淡々と続ける。
「家に戻るって言っても、親父と息子って関係に戻るだけだ。実家には帰らない」
「またマンションで一人暮らしか?大学も勝手に辞めおって、これからどうする気だ?親の金で豪遊生活か」
そんなことは許さん、と言わんばかりにおじ様の口調が強まる。が、聖の次の言葉でその相好が崩れた。
「一人暮らしじゃない。桜子と結婚して一緒に暮らす。金が必要だから親父の会社で働くよ」
「本気か?」
「ああ。演劇も辞める」
・・・言っちゃった。私は畳の目に視線を落とし、心の中でため息をついた。
聖の家に向かう電車の中、聖は突然「演劇を辞める」と言い出した。もちろん私は止めた。私は聖と一緒にいたいだけだ。そんなことは望んでいない。でも。
「ケジメなんだ」
聖はきっぱりと言い放った。
「ケジメ?私と結婚するための?」
「ていうか、あいつを忘れるための。あいつと付き合ってたのはこの半年くらいだけど、俺の中でいつの間にかあいつイコール演劇になってた。だからあいつを忘れるには、演劇を辞めなきゃ無理なんだ」
親と勘当してまで選んだ演劇という道。それは聖自身の為だったけど、今はもう自分の為だけじゃないんだ。聖にとってお嬢様はそれほどに大きな存在。私はそんなお嬢様の代わりになれるのだろうか。
・・・なれる、かもしれない。聖が演劇をやめるのならば。
聖が、お嬢様とイコールだという演劇を捨てるのならば。
「もう演劇はしないの?」
私は何も考えないようにしながら訊ねた。だって考え出すと頭が変になる。
聖に演劇はやって欲しい。でもお嬢様のことは思い出して欲しくない。
私と一緒にいて欲しい。でも聖が本当に一緒にいたいのはお嬢様だ。
ああ、もうぐちゃぐちゃだ。
そんなぐちゃぐちゃの私に、聖が単純明快な答えを示す。
「俺がもう一度演劇をするとしたら、あいつと寄りを戻した時か、完全にあいつに未練がなくなった時だ。だからもう演劇をすることはない」
「・・・そっか」
これがこれから親に結婚の報告に向かう男女のする会話だろうか、とは思う。だけど望むところだ。聖にとって「お嬢様イコール演劇」なら「私イコール演劇以外の物」になればいい。私は演劇をしていない聖を支えるんだ。そしていつか、演劇をしている聖も支えれるようになりたい。例え何年先でも。
「無理しなくていいからね」
「え?」
「演劇をしたいならすればいい、我慢するならすればいい。だけど無理はしないでね」
「演劇をするってことは、俺が浮気するってことだぞ。それに収入もなくなる」
「演劇をしても浮気はされないように、私が頑張る。それに大学を卒業したら私も働くから、お金の心配はいらないよ」
「太っ腹な女だな」
聖は呆れたように笑った。
でもね、聖。聖がそうしたんだよ。これくらい太っ腹じゃないと、聖は窮屈に思ってしまうだろうから。
それに今、私はとても幸せだ。聖が結婚を承諾してくれたからじゃない。
一度目に結婚した時、聖は死人のように生気がなかった。今思えば、あの時聖はお嬢様の怪我と演劇を辞めたことで落ち込んでいたのだろう。そして私はそれに気付こうとしなかった。
だけど今回は違う。私は聖が落ち込んでいる理由を知っているし、慰めにはなってないだろうけどこうやって聖も少しは笑ってくれている。
今ここに私がいる。聖と一緒にいる。
そのことに意味がある。
それがとても幸せだ。
私はこの小さくて大きな幸せと出会うために時間を遡ってきたのかもしれない。
伴野のおじ様は、聖の気が変わらないうちに、とばかりに私たちに早く入籍するように言った。更に「約束どおり必ず劇団を辞めること。一週間以内に一緒に暮らし始めること」を聖の伴野建設入社の条件にした。やり直し前の人生ではここに、より聖を縛り付けるために「本竜桜子と予定通り結婚すること」も条件に入っていたのだろう。
それから私たちは伴野家を出たその足で私の実家へ行った。突然の外泊に、男との朝帰り。しかも相手は元婚約者。さすがに私の両親も呆れ気味だったけど、結婚する旨を伝えると2人とも喜んでくれた。
そして驚いたことに、今まで誰に対しても謝罪の言葉を口にしなかった聖が、初めて私のパパに対して頭を下げた。
「わがままを言って申し訳ありません」
私は慌てて割り込んだ。
「パパ、違うの。私から言い出したことなのよ」
「ああ、知ってるよ」
「え?」
パパの言葉に私は面食らった。
知ってる?何を?
聖も少し驚いていたけど、すぐにパパの言葉の意味を理解したらしい。
「そうか、そうですね。本竜さんもあの場にいましたもんね」
「懐かしいな。この日が来るのを楽しみにしてたよ。聖君、桜子を頼むよ」
「はい。でも頼まれなきゃいけないのは僕の方だと思います」
2人のにこやかな会話についていけず、私は助けを求めて聖を見たけど、話はこれからの事や伴野建設に入る事の方へ移ってしまい、私の視線は宙に浮いた。
「じゃあすぐに引っ越すんだね」
「はい、父の命令で・・・突然すみません」
「それは構わないが、どこに住むんだい?そんなすぐに手頃なアパートやマンションなんてないぞ。取り合えずどちらかの実家に住むとか、」
「住む所なら決めてるわ」
今度は置いてけぼりを食らわないように、頑張ってついていく。
「病院を挟んでうちとは反対側にある薄い茶色のマンション。そこの501号室が空いてるはずよ。ここから10分くらいだし、駅も近いから聖も会社に行くのに便利だわ。いいでしょ、聖?」
私の情報網に、聖もパパもママも驚いたというより、完全に呆れている。
「桜子、お前、根回しいいな」
「た、たまたま知ってるだけよ!」
たまたまも何も、聖と私は実際に6年間、そこに住んでいた。前は本当に「たまたま」そこが空いてたから「どこでもいいや」とばかりにその部屋に決めたのだけど、今はどうしてもそこがいい。聖との6年間を同じ場所でもう一度やり直したい。そして6年先も続けて行きたい。
聖は以前と同じように「どこでもいいよ」と言った。だけどそこには笑顔のオマケ付きだ。
子供のお菓子と一緒だな、と思った。
どの箱を選んでもお菓子自体は同じだけどオマケの種類は様々で、子供にとってはお菓子そのものよりもオマケの方が楽しみだったりする。
聖と私の人生も根本的には前と変わらない。だけどそこにどんなオマケが付くかによって、人生自体の輝きが変わってくる。
前の人生には何のオマケもなかった。
これからの人生にはたくさんのオマケを付けよう。
笑顔だけじゃないだろう。時には涙や怒りもあるだろう。
でも、後から人生を振り返った時に笑顔というオマケが一番多ければそれでいい。