第4部 第5部
聖と一緒にタクシーでアパートに戻った時には、空はうっすらと明るくなり始めていた。その朝日の中でも聖の顔色は悪いままだった。
ついて来いとも来るなとも言わずに無言で部屋に入っていく聖の背中を追いかける。
聖は部屋に入ると畳の上に座り、壁にもたれた。左足は伸ばし、立てた右膝の上に右腕を置いてそこに顔を乗せる。髪で顔が隠れ、表情が分からない。泣いているのか、眠っているのか・・・とにかく心身ともに疲れ切っているのは確かだ。痛々しくて見ていられない。
それに、私にはやらなきゃいけないことがある。
私は聖が動かないことを確認してそっと部屋を出ると、小走りでアパートの前の道路を渡った。朝晩問わず白い電灯の光が灯されてるそこは、こんな時間なのに何故か客で賑わっていた。夜遊びから帰ってきた学生、夜勤明けのサラリーマン。そんな感じの客がパッと見ただけでも5,6人はいる。
だけど私の目当ての人物は、レジのこちら側ではなくいつも通り向こう側にいた。
「こんにちは」
時間的には「おはよう」が正解だけど、私は別に挨拶したかった訳じゃない、ただ呼びかけたかっただけだ。それなら「ねえ」とか「ちょっと」より「こんにちは」の方が相手の警戒心が解けるかもしれない、そう思ったのだけど、思い通りにはいかなかったようだ。
私の声を聞いた「ひろこ」はビクッとして顔を上げた。
あれから6時間近く経っている。それも夜中から朝にかけての6時間だ。普通なら女の子がぶっ通しでバイトするような時間帯じゃないだろう。
「ひろこ」は聖が来るのをここで待っていたのかもしれない。待って、お嬢様の容態を聞きたかったのかもしれない。
ここで何があったのか詳しく知らない私は、できるだけ事務的な口調で「ひろこ」に伝えた。
「傷は最小限に留まりそうだけど、一生残るわ」
「・・・」
「今はあの子のご家族がついてる」
「・・・伴野さんは?」
「家にいるわ。あの子のご両親に追い出されたみたい」
「・・・」
「ひろこ」は俯くようにしてレジをじっと睨んだまま、両手を握り締めた。その右手首に赤い点々がいくつか付いているのが見える。聖の話では、お嬢様にザルをぶつけたのはこの子らしい。その時に自分も油で怪我をしたのだろう。
「あなたも病院に行った方がいいわよ。じゃあね」
私がそれだけ言ってコンビニから出ようとすると、「ひろこ」が「あ、あの」と言って追いかけてきた。見覚えのある紙袋が私に差し出される。
「これ・・・さっき置いたまま救急車に乗っていかれたから・・・」
・・・私が聖へのお祝いに買ったチーズケーキと紅茶だ。聖とお嬢様に一緒に食べてもらおうと思ってたのに・・・こんなことになるなんて。
もはやお祝いなんてできる状態ではないけど、そんなことを「ひろこ」に言っても仕方がない。
抑揚のない声でお礼を言って紙袋を受け取ると、その持ち手の部分は驚くほど冷たかった。
「冷蔵庫に入れておいてくれたの?」
「はい。中の箱に要冷蔵って書いてあったから・・・」
「・・・そう。ありがとう」
私がもう一度お礼を言うと、「ひろこ」は深々とお辞儀をしてコンビニの中へ駆け戻って行った。悪い子ではないのだろう。ただ、何かが一つ狂ってしまった。その小さな狂いが凶器になった。
聖もお嬢様も「ひろこ」も、みんな傷ついている。
私は身体の傷はある程度癒すことができる。でも心の傷は専門外だ。医者としても、人間としても。傷ついた人を見て、かわいそうだと少し胸を痛めることくらいしかできない。本当に情けない人間だ。
自分にがっかりしながらアパートへ戻ると、カーテンから差し込む朝日がさっきより明るくなっていた。その中で聖は同じ姿勢のまま俯いている。寝ているのなら起こさない方がいい。今は眠れるだけ眠らせておいた方がいい。
ただ聖が起きた時、私はどうしたらいいだろう。傍にいれば聖は少しは癒されるのだろうか。それとも一人きりの方が、思う存分落ち込めていいのだろうか。
私は悩んだ挙句、後者を選ぶことにした。今の私じゃ聖を癒せない。それなら邪魔なだけだ、いない方がいい。せっかく「ひろこ」がコンビニの冷蔵庫に入れて置いてくれたけど、チーズケーキも持って帰ろう。
いつかまた、こうやって聖とお嬢様にケーキを買って来れる日が訪れればいいのに。心からそう思う。
聖の傷を癒せるのはお嬢様だけだ。
物音を立てないよう足を滑らせるように部屋の廊下を歩く。と、チーズケーキの入った紙袋の中から「カチャカチャ」という音が聞こえてきた。何だろうと思い紙袋を床に置いて覗いてみると、その音はチーズケーキの箱の上にある、白いビニール製の包みで包装された丸っこい物体から聞こえてきているのが分かった。
・・・しまった。
包みのテープを注意深く外すと、中から茶色い陶器の欠片が現れた。ティーポットだ。コンビニでお嬢様の応急手当をしている時に、割ってしまったようだ。
仕方ない、家で処分しよう。
欠片に注意しながら包みを閉じ、もう一度テープで止める。ところが「これでよし」と思った瞬間。
「イタッ」
しまい忘れた欠片が右手の人差し指をかすめた。指の腹に1センチほど切れ目が入り、次の瞬間、そこからぷっくりと赤い血が流れ出す。
痛い。でもお嬢様の負った傷を考えると、こんなの傷のうちにも入らない。
それでも血は止めておかないと、あちこちについてしまう。絆創膏、持ってたっけ。
肩に掛けている鞄の中に左手を入れようとした時、急に辺りが暗くなった。正確には、向こうの部屋の窓から差し込んできている朝日が、影で遮られた。
見上げると、いつの間にか聖がすぐ横に立って、私を見下ろしていた。
「俺もそこで怪我したことがある」
「・・・え?」
「ここに越してきた日、あいつ、包丁を変なところに片付けやがって、俺がそれに気付かず包丁の刃を触ったんだ」
「・・・」
「申し訳なさそうにしてたけど、あいつもここで料理してる時、何度も指切ってた。ここはよく血が流れる場所だな」
不意に聖が膝を付き、私の右手を引っ張った。そして何の躊躇いもなく、血が流れるままの人差し指をペロリと舐める。
その感覚と、聖の肩越しに差し込んでくる朝日の眩しさに眩暈がした。
聖はそのまま私の指を口に含んだ。私はなされるがままだ。
「あいつも俺がこうすると、すぐ赤くなった」
「・・・」
「一見お嬢様だけど気が強くって跳ねっ返りで・・・『赤くなんてなってないもん!』とか意地張ってた。真っ赤だっつーの」
「・・・」
きっと私もお嬢様に負けず劣らず真っ赤になってることだろう。男の人に指を舐められたのなんて、生まれて初めてだ。
私はキュッと目を閉じた。世界がグルンと反転するような感覚。その中で、自分の指が解放されるのを感じ、私は安堵すると同時に少し寂しく思った。
目を開くと、さっきと同じ場所に聖の顔があった。だけど何かおかしい。さっきまで聖の肩越しに見えていた朝日が見えない。代わりに見えるのは・・・天井?
背中にゾクリと何かが走った。床の冷たさじゃない。熱い・・・私の身体の中の、熱い何かだ。
また眩暈を感じ、もう一度目を閉じた。
背中はまだ熱い。
そしてそれよりも熱い吐息を首筋に感じた。