第4部 第4話
処置室の外の廊下にいる時間は途方もなく長かった。後から思えばそれは1時間くらいのことだったのだけど、聖と私にとっては永遠のような時間で、早く終わりが来て欲しいのかどうかも分からなかった。私でさえそう感じているのだから、聖は・・・
「俺のせいなんだ」
聖が独り言のようにポツリと呟いた。目は開いているけど何も見ていない。
「俺のせいでこんなことに・・・」
「聖が怪我をさせたわけじゃないでしょ」
こんな月並みな言葉しか言えない自分が情けない。何かもっとこう、聖の不安を取り除けるような言葉を言えればいいのに。
だけどそんな言葉はないのだと、次の聖の一言で思い知った。
「俺が怪我させたんだ」
「え、でも・・・わざとやったんじゃ、」
「わざとやったんだ」
聖の言い方は、わざと自分の罪を増幅させるような、それを自分に自覚させるような言い方だった。
聖が彼女をわざと怪我させるなんて、あるはずないのに。
「直接怪我をさせたのは、コンビニにいた店員の女だ。だけどあの女にそんなことをさせてしまったのは俺だ。俺は・・・俺がいなかったら、こんなことにはならなかった」
「聖・・・」
聖は何があったのかは詳しく話さなかった。隠したいというより、話す気力がないようだ。だけど大方の想像はつく。あの「ひろこ」という子とお嬢様と聖で三角関係になって揉めた挙句、あんなことになってしまったのだろう。もしかしたら聖の悪い癖で、「ひろこ」にも手を出していたのかもしれない。それなら聖の言葉の意味も分かる。
不意に処置室の扉が開いた。私は緊張が緩んで正直少しホッとしたけど、聖は更に緊張が増したのか声も出ないようで、中から出てきた中年の医者をただじっと見ているだけだ。
医者の方から聖に話しかける。
「君はご家族かな?」
「・・・いえ」
「ご家族は?」
「電話したから・・・今、向かってると思います」
「そうですか」
ショックの余り混乱しているのか、一番大事なことを聞き忘れている聖に代わり私が医者に訊ねる。
「あの女の子は大丈夫ですか?傷は?」
聖が私の質問でハッとしたように我に返った。そしてそのとたんに医者に掴みかかる。
「そうだ、あいつは!?」
「聖!落ち着いて」
「あいつ、大丈夫なのかよ!?」
なんとか聖を医者から離そうとしたけど、聖はさっきまでとは別人のように感情を露にして医者から離れようとしない。まるでそうすれば彼女も離れていくとでもいうように。
こうやって医者に感情をぶつける人間は少なくない。特にベッドの上にいるのが自分の大切な人であればあるほど、普段冷静な人間でも医者に八つ当たりをする。
私は、激昂する聖と当惑する医者の間の温度差をなくす一番手っ取り早い方法を取ることにした。
パンッ!
乾いた音が廊下に響いた。
聖が左頬を押さえ、言葉を飲む。
「聖。ああいう怪我が命に関わることはないわ。応急処置もしたし、救急車もすぐに来てくれた。これ以上ない程スムーズに治療できてるはずよ。落ち着いてお医者さんの話を聞きましょう」
「・・・」
「すみません。お願いします」
医者に向き直り頭を下げると、医者は何事もなかったかのように無表情に襟元を正した。この手のタイプの医者を「鼻持ちならない」と嫌がる人も多いけど、私は嫌いじゃない。完全なる第3者になるというのも医者の一つの有り方だ。でも、小児科では通用しないだろう。
「ご家族でないのなら詳しくお話はできませんが、そちらのお嬢さんがおっしゃる通り、最善の状態です」
その言葉を聞き、聖が「なんだ、よかった」と胸をなでおろす。
聖、違うよ。ここはホッとするところじゃない。
「最善の状態」というのは「なんともない」という意味じゃない。
「あの怪我から想像しうる状態の中では一番いい状態」という意味だ。
あの怪我が跡形もなく完治するとは思えない。
少し落ち着きを取り戻した聖が「会えますか?」と訊ねると、医者は「会えますが、まだ意識がありません。今から個室に移しますので、そちらでどうぞ」と答えた。
処置室からストレッチャーに乗せられて出てきたお嬢様は顔のほとんどを包帯で覆われていて、さすがに痛々しかった。コンビニでのあのおっちょこちょい振りを思い出すと、胸が痛む。この子はあの時のようにまた元気にバイトができるようになるのだろうか。
用意された個室に聖とお嬢様が入っていくのを見届けて、私は廊下の椅子に座った。今はお嬢様の意識がなくても二人きりにしておいた方がいい気がする。
もう真夜中で全ての病室の電気は消えているけど、お嬢様の病室だけからは光が漏れていて、そこに「早く目が覚めてほしい」という聖の想いが込められているように感じた。
「あなたが応急処置をしたんですか?」
見上げると、さっきの中年の医者が私の傍に立っていた。
「はい」
「処置の仕方やハンカチの巻き方が素人離れしてますね」
「医学部に通っているので」
「なるほど。何年生ですか?」
「4年生です」
「4年生ですか。それじゃやっぱり素人離れしてますね」
医学部の4年生など素人と変わりないということか。そして私が医学部の4年生以上の技量を持っていることもきちんと見抜いている。この医者がお嬢様の手当てをしたということは、本当に「最善の状態」なのかもしれない。
「患者との関係は?」
「ありません。男性の方とは知り合いですが、たまたま居合わせただけです」
「それならお話してもいいでしょう。患者のご家族が到着したようなので今から話しに行きますが、傷は残ります。一生」
「・・・」
「ただ、あなたの処置が非常に良かった。あなたがいなければ、傷は広範囲に残ることになったでしょう」
医者はそう言うと、エレベーターの方へ向かって歩いて行った。
・・・よかった、のだろうか。
確かに「最悪の状態」ではない。医者としてはまさに最善を尽くしたというところだ。
だけどお嬢様にとって「一生傷が残る」という事実は変わらない。それを「本当はもっと酷いはずだったんだよ。これぐらいで済んでよかったんだよ」と言われたところで何の慰めになるというのだろう。
廊下にある窓から空を見上げると、細い三日月が見えた。
静かだ。どの病室からも何の音も聞こえてこない。目の前の病室からも。
この静寂は夜のせいだと思いたい。
それでも耳を澄ませると、色んな音がかすかに聞こえてくる。
エレベーターの動く音、医療機器のデジタル音、ストレッチャーやワゴンを転がす音。
そんな音に混じって、足音が聞こえた。次第にこっちに近づいてくる。
私は窓の外から廊下の奥へ視線を移した。
看護士の後を追いかけるようにして、3つの人影がやってくるのが見える。
廊下の光は薄暗くて顔ははっきり見えないけど、中年の男女と若い女の人だ。
看護士とその3人は、バタバタと唯一電気がついている病室へと駆け込んでいった。
---静寂、怒号、そして何かが落ちて壊れる音。
予想はしていたことだ。それでも私は耳を塞ぎたくなった。
だけどそんなことをしたら、聖が出てきた時にどんな顔をしたらいいか分からない。
私はぎゅっと目を閉じることに意識をひたすら集中させた。
聖はそれから5分と経たないうちに病室から出てきた。
さっき私が打った左頬が、更に赤く膨れている。
そしてその顔色は、さっきとは比べ物にならないほど青くなっていた。




