第3部 第15話
この夏、聖はずっと裏方だったらしく、私はあれ以来聖と会うことはなかった。オーディションの結果もまだ出ないようで、連絡もない。
時間的にも気持ち的にも長い長い夏休みが終わって気候が秋めいてきた頃には、私は毎日のように聖のことを考えるようになっていた。聖と、そしてあのお嬢様のことを。
あの2人は今も半同棲のようなことをしてるんだろうか。例え一緒にいれる時間が短くても。
一緒にいる時間が短いとか長いとかは、2人にとって重要じゃないんだと思う。2人にとって重要なのは、聖が演劇を続けていること。聖はそれを分かっている。だから、彼女が1人で家で待っていても気にせず劇団に行くし、プレゼントも「演劇」なんだ。
聖に主役を演じてほしい、純粋にそう思う。だけどそうなれば聖とお嬢様の絆はますます深まるだろう。それが嫌だ。堪らなく嫌だ。
なんて卑しい人間なんだろう、私。
久々のまともな外出にも関わらず、そして久々の再会にも関わらず、私はため息ばかりついていた。
「元気ないですね、桜子さん」
シズちゃんが向かいの席でパスタをフォークに巻きつける。
シズちゃんは今他県の大学に通っているけど、3連休を利用して東京の実家に帰省してきた。夏休みは海外に行っていて、実家に帰ってくるのはお正月以来らしい。その時も私はシズちゃんお気に入りのこのレストランで会った。らしい。
「ごめん、せっかく久しぶりに会ったのに」
「いいえ、原因は分かってますから」
「え?」
シズちゃんがニッと笑顔になる。相変わらずの薄化粧だけど、高校生の頃より遥かにメイクテクニックが上達していて、なんだか大人っぽい。
「許婚のことで悩んでるんでしょう?」
「ええ?どうして分かるの?」
「高校の時もそうでしたから」
「高校時代?」
聖のことで悩んだ記憶なんかないけどな。
・・・あ。もしかして。
シズちゃんは、パスタを一口食べ終えてから言葉を続けた。
「桜子さんが高3の退寮する日、私に言ったんです。『私、許婚のことが好きかもしれない。だからノエルと別れたのかも』って」
「・・・」
「でも桜子さん、自分でそれを認めたくないみたいでした」
「うん・・・日記にも直接はそう書いてなかった」
「月島君のことを好きなままでいたかったんでしょうね。今はどうなんですか?高3の秋から飛んできたってことは、自分が許婚を好きになった頃のことって認識ないです?」
「全くない。でも気持ちは受け継がれるみたいで、どうしてか分からないけど許婚のことが好きなの。凄く変な感じ」
そして凄く苦しい。
だけどシズちゃんはそんな私の苦悩を笑顔で吹き飛ばした。
「別にいいじゃないですか、好きなら好きで」
「え?」
「人を好きになるのに理由なんていりませんよ。こういうことがあったからこの人を好きになった!ってあんまりないと思うんですよね、それよりも、気付いたらなんか好きになってたっていう方が多い気がする」
シズちゃんは自分の過去を振り返るようにしてそう言った。
「だから今、桜子さんがその許婚のことを好きだと思えるなら、それでいいじゃないですか」
「・・・いい、のかな」
「多分いいんですよ。好きなんですよね、その人のこと」
「・・・うん」
「なら、やっぱりいいじゃないですか。人の気持ちは変わるものだから、今の気持ちを大切にした方がいいですよ。それで気持ちが変わらない人と出会えたら、その人と結婚したらいいんだと思います」
「・・・」
気持ちが変わらない人。
ノエルに対する気持ちは変わってしまった。高3の時はまだノエルのことを好きだったけど、今は思い出そうとしないと思い出せない。逆に聖のことは何度考えまいと思っても気づいたら考えている。何度飛んでも聖への想いがつきまとう。そしてこの気持ちはきっと一生つきまとってくる、そんな予感がする。
その想いを無理に閉じ込めようとする必要ってあるのかな。
前に28歳の自分の幻覚に「心変わりを認めろ」と言われた時は反発した。だけどシズちゃんの言葉は私の中に浸み込むように入ってきた。
深く考えず、今の自分の想いを受け止めるのが恋愛なのかもしれない。
ただ、それを何かの行動に移すかどうかは別問題だ。
「彼ね、彼女がいるの」
「彼女?」
「うん。本気で付き合ってるみたい」
「それがどうかしたんですか?」
「え、だって・・・」
「やり直すの前の人生でも、許婚の人はその彼女と付き合ってたんでしょ?そして別れて桜子さんと結婚したんだろうから、今許婚に彼女がいてもいいじゃないですか。ほっといたらそのうち別れますよ」
あ・・・!言われればその通りだ。聖はきっとやり直し前の人生でも、21歳の時にあのお嬢様と付き合っていたに違いない。だって2人は私とは関係ないところで付き合い始めたのだから、私が人生をやり直してもやり直さなくても、二人が付き合うという事実は変わらない。そして、いずれ別れるということも。
別れる?あの2人が?
なんか・・・ピンとこない。
2人が一緒にいるところを見たことはないけど、さぞかし仲睦ましいことだろうから。
もちろん2人ともまだ若いし、特にお嬢様は高校生だし、聖はあんなんだし、これから何があるかは分からない。でも、何があってもあの2人は別れなさそうな感じがする。だからこんなに苦しい。
だけど実際に聖は演劇をやめ、実家に戻って私と結婚した。それからしばらくすると外に女を作ってはいたものの、のめり込んでいた様子はないし、少なくとも結婚当初は浮気はしていなかった。それは確実だ。だって結婚当初の聖ときたら、いつも以上に無気力で・・・
そう。大学4年の冬に久しぶりに再会した時の聖はひどかった。人生に絶望したような感じで、私は「こんな奴とこれから一生一緒に過ごさないといけないのか」と改めてがっかりした。そういう意味では私も人生に絶望していたから、お似合いのカップルと言えなくはないかもしれない。
あの時、聖に何があったんだろう。私は当時、実家と縁を切ってみたもののやっぱり自分一人の力じゃ生きていけないことに気付いて落ち込んでるんだろう、くらいにしか思ってなかったけど、実はもっと他に何かあったのかもしれない。私はそれに気付かなかったし、気付こうともしなかった。そのことに触れようともしなかった。
聖が私に心を開いてくれなかったのも当然だ。
食事を終え、シズちゃんが化粧室に立ったのを見て、私は携帯を開いた。
聖をあんな風に落ち込ませた何かを回避できるなら回避させてあげたい。もしその結果、本当に私と聖の結婚がなくなるとしても。でも、今の私にできることなんて何もない。できるとすれば、あのお嬢様だけだろう。だから、今の私に唯一できることは・・・
メールを立ち上げ、聖のアドレスを選択する。また携帯を止められてるかもしれない。でも、いつか見てくれるだろう。
いつもの半分くらいの速度で、誤字に気をつけながら一文字一文字打っていく。
「劇のオーディション、どうだった?主役になれたかな?主役でも主役じゃなくても見に行くから、劇の日程が決まったら連絡下さい」
ここで改行。そして心の中にも改行を入れる。
「彼女を大切にね」
最後の一行を消したくなる前に、思い切って送信する。
すると意外なことに返事がすぐに来た。それもメールではなく、電話で。
こんなに早く電話が来るってことは・・・きっと良い知らせだ。そうに決まってる。
私は自分にそう言い聞かせながら携帯片手に慌てて席を立ち、店の扉をくぐると同時に通話ボタンを押した。間髪入れず、聖の懐かしい声が耳に飛び込んでくる。
「受かったぞ!」
「え?」
・・・ほらね。驚くことないじゃない。予想通りじゃない。
それなのに聖の弾む声を聞いた瞬間、ポロポロと涙がこぼれた。それを聖に気付かれないよう、必死に冷静な声を絞り出す。
「主役に選ばれたの?」
「ああ。はぁー、やったー!初めての主役だ!」
「・・・おめでとう」
「うん、ありがとな」
落ち着きなさい。声を震わせちゃダメよ。
「本当におめでとう。見に行くね」
「ああ」
「彼女には言ったの?」
「いや、まだ。つーか、たった今、発表があったんだ。桜子、絶妙のタイミングでメール寄こしたな」
「虫の知らせがあったのよ。・・・元婚約者ですから」
「あはは、さすがだな」
私は聖の笑い声を感じながら、携帯をギュッと握り締めた。
偶然だけど私はこの朗報をお嬢様より先に聖の口から聞くことができた。それで充分じゃない。
「早く彼女にも知らせてあげて。きっと喜ぶよ」
「ああ、じゃあな。また連絡するよ」
「うん」
私は涙をぬぐって携帯を閉じた。
そう、充分だ。私と結婚して不幸になるより、お嬢様と一緒にいて幸せになる方が絶対いい。
負け惜しみではなく、心からそう思えた。
だから。
もしこの時、聖とお嬢様に訪れる悲劇を知っていたなら、私はそれを全力で阻止しただろう。