第3部 第14話
聖がベンチに腰を下ろす。今日のこのベンチは大盛況だ。
「何しにきたのよ」
「助けてもらっといてその言い草はないだろ」
「頼んでないし」
何、この安っぽいやり取り。言ってて恥ずかしくなる。そしてこんな事しか言えない自分が情けない。素直に一言「ありがとう」って言えば済む話なのに。
自己嫌悪に陥って口を噤んでいると、私の目の前に見覚えのある傘が差し出された。
「これ・・・私の?」
「そーだよ。前俺んちに来た時、忘れてったろ。つーか、急に走って帰ったから落としていったって感じだけど」
「・・・」
「わざとああいうことする女、たまにいるけどな。俺が後で届けにきてくれるとでも思ってんだろうけど、お生憎様、俺はそんなに優しくないって」
「・・・じゃあ、どうして持ってきたのよ」
またもやお礼も言わず、私はひったくるようにして聖から傘を奪い返した。せめて「持ってきてくれたのよ」って言えば良かったな、と後悔しつつ。
「桜子は本当に忘れていっただけだろ。俺、下心のない女には優しいから」
「誰に対しても優しくないと思うけど」
「わざわざ傘を持ってきてやったのに、そーゆーこと言うか、普通?」
言わないわよね、普通。分かってる。だけど私の憎まれ口は止まらない。
「電話くれれば取りに行ったのに」
「先月から携帯止められてるんだよ。代金払ってなくてさ」
「嘘」
聖がチラリと睨むように私を見た。携帯の代金も払えないくらい貧乏なことに私が驚いていると思ってるんだろう。だけど違う。私が「嘘」と言ったのは・・・
「この前、彼女と電話してたじゃない」
「え?」
「私が聖の家に行った時。彼女が携帯で聖と電話してるの、見たわよ・・・偶然」
正確には偶然ではないけれど。
確か聖が風邪を引いたとかで、彼女が心配してた。私はそれを見て密かに電話の相手が聖じゃないことを願ってたのに、あの部屋に帰ってきたのはやっぱり聖だった。
・・・ああ、もう。過去の気持ちなんか受け継がれなきゃいいのに。どうして聖なんかのこと、好きになったのよ、私。
聖が私の理不尽な胸の痛みに追い討ちをかける。
「ああ、なんだ、そのことか。彼女の番号くらいは覚えてるからさ、友達に携帯借りてかけた」
「・・・そう」
やっぱり聖らしくない。何をそんなにあのお嬢様にはまってるんだろう。そして私は何をこんなにひがんでいるんだろう。本当に嫌になる。
私は堪えられず、話題を変えた。
「風邪はもういいの?」
「とっくに治った。桜子こそ、ずっと学校来てなかったろ?どうしたんだよ」
「・・・私も風邪ひいてた」
「あー、あんな雨ん中、傘無しで帰ったら風邪ひくよなあ」
私が学校休んでたこと、知ってるんだ・・・婚約破棄してうちには来づらいから、毎日大学に傘を届けにきて、私を探してくれてたのかな?医学部はまじめな生徒が多いから、聖のいでたちじゃ目立ったろうな。
「・・・ありがとう」
「ん?何が?」
「傘。ありがとう」
「ああ、なんだ傘のことか。どーいたしまして」
遅ればせながら言えたお礼に私自身がホッとする。が。
「こっちこそ、サンドイッチとかケーキとかありがとな。彼女が喜んでたよ」
でた。なんてデリカシーのない奴だ。聖にはそんなもの端から期待してないけど、それでもやっぱりまた気分が落ちる。
私は抑揚のない声で、どういたしまして、とだけ言った。
聖が構内にあるシンボル的な大きな時計台を見上げ、ベンチから立ち上がった。
「やべ、バイト遅れるから行くわ」
「バイトしてるの?」
「当たり前だろ。早く携帯くらいは復活させなきゃな」
「携帯くらいは、って・・・他にも止められてるものがあるの?」
「水道がそろそろヤバイなー。あ、あいつにも風呂とか使うなって言っとかないと」
「・・・」
風呂、ね。ここまで気を使われないと、いい加減笑えてくる。
「どうせ別のところで、無駄遣いしてるんでしょ」
また皮肉っぽい言葉が口をつく。だけど聖はそれをまたサラッと流した。
「馬鹿、無駄遣いするような金ねーよ。劇団に入れる会費だけでいっぱいいっぱいだ」
「会費?」
「うちの劇団はチケット代と劇団員の会費でなんとかもってるようなもんだからさ、会費だけはケチれねーんだよ」
「・・・ふうん」
「お陰で携帯も水道も危機的状況。電気は死守したいな」
「彼女とデートしたりしないの?プレゼントをあげたりとか」
「無理無理。そんな金も時間もない」
「・・・」
じゃあ、あのお嬢様はただ毎日聖の部屋で聖の帰りを待ってるだけ?掃除や料理をして?そして聖と少しだけ一緒に過ごして、自分の家に帰るの?随分と献身的な彼女ね。それとも、単に世間知らずなだけなんだろうか。
私は、かつて聖と結婚生活を送っていた頃の自分を思い出してみた。
毎朝7時に1人で起きて、1人で朝ごはんを食べて家を出る。仕事を終えて家に帰ってくるのは夜の9時頃。夕食はスーパーの惣菜かコンビニ。聖は一日中ゴロゴロしていて、夕食は適当に外で済ましている。私がベッドに入る時には、聖はもう眠っているかまだ外出しているかだ。会話なんて当然ほとんどない。
私がやる唯一の家事は、夜にお米を研ぐこと。これが翌日の朝ごはんになるのだけど、本当は私はパン派だ。でも炊飯器にお米が入っていると、聖が朝昼兼用でそれを食べるので少しは家計も助かるから、いつの頃からか私もご飯を食べるようになった。
そしてもちろん、聖は家事なんて何もしなかった。
そんな私たちに比べて、今の聖とお嬢様はどうだろう。2人ともバイトをし、聖は一生懸命演劇をやっている。お嬢様は家事をしながら聖の帰りを待っている。私たちなんかより遥かに夫婦だ。
どうして私たちはそうなれなかったんだろう。スタートが悪すぎたんだろうか。そして、私は今こうして人生をやり直しているというのに、今度はそのスタートラインにすら立てなくなってしまっている。
私は一体なんの為に人生をやり直しているんだろう・・・。
ノエルと付き合っていた頃は、ノエルと一緒にいることこそがその理由だと思っていけど、今はもうノエルはいないし、聖も「いない」。
「だけどな、」
聖の声で私は我に返った。聖がちょっとはにかんだような笑顔で立っている。
「ほら、最近俺、劇に出てないじゃん?」
「・・・そう言えばそうね」
日記によると、私が最後に聖の劇を見たのは飛んでくる2ヶ月前。そして飛んでからの2ヶ月間、つまり合計4ヶ月間、私は聖の劇を見ていないことになる。というか、私が聖の劇を実際に見たのは、高3の時の1回だけだ。
「前は端役ばっかだったから裏方やりつつ劇にも出るって感じだったんだけど、最近は大きな役を貰えるようになったからさ、今回の劇は役者、次回の劇は裏方、って風に完全に役割が分かれるようになったんだ。今は裏方やってる」
「そうなんだ」
「で、今度、次回作の役を決める劇団内のオーディションを受けるんだ。多分、主役を貰えると思う」
「主役?」
私の記憶が正しければ、聖はまだ主役をやったことがない。もし聖の言葉が実現すれば、初めての主役ということになる。さすがに私もそれは凄いことだと心の底から思い、感心した。
今度こそ素直にその気持ちを・・・
「まだ、多分だけどな。彼女、俺の演劇をすげー応援してくれてるから、それが少しはプレゼント代わりになるかなと思って」
そう笑顔で言った聖は、私が今まで見たどの聖よりも輝いていた。