第3部 第11話
聖はまだ帰ってなかった。まさか本当にもう引っ越したのだろうか。記憶では、聖が実家に戻ってきたのは私が大学4年の冬だったと思うんだけど・・・。
私は聖の部屋のまん前で待っているのも気がひけて、さっきのコンビニへ向かった。堂々と雨宿りをするのは申し訳ないけど、外の屋根が出っ張ってる部分の下に立つくらいは許してもらおう。それにここからはちょうど聖の部屋の入り口が見えるから、聖が帰ってきたらすぐに分かる。
ちらっとコンビニの中を覗くと、レジのところにさっきの「ひろこ」という子がいるのは見えた。でもお嬢様の姿はない。もうシフトを終えて帰ったのだろうか。
お嬢様の仕事振りを見るの、ちょっと楽しみにしてたんだけどな。
私は鞄からハンカチを出し、サンドイッチが入った紙袋をかばっていたせいで濡れてしまった肩を拭いた。いつの間にかもう9時を回り、夏とは言え寒くなってきた。夕ご飯も食べてないからお腹もすいた。
私、何をしてるんだろう。何をこんなに頑張って聖を待ってるんだろう・・・。
いい加減虚しくなり始めたその時、聖のアパートの廊下を人が歩いているのが見えた。思わず身を乗り出して見てみたけど、違う。聖じゃない。質の良さそうな制服を着た女子高生だ。
なんだ・・・。
私は心底がっかりして、コンビニの窓ガラスにもたれた。が、すぐに再び身を乗り出した。その女子高生が立ち止まったのが聖の部屋の前だったからだ。
女子高生が鞄の中を探り、財布を出す。そしてその中から鍵を取り出し、ドアノブにあてがった。
鍵はすんなりと鍵穴に入り、滑らかに回転する。
私は息を飲んだ。
あの子、まさか・・・。いや、やっぱりあそこにはもう聖は住んでなくて、今はあの子が住んでいるんだ。そうに決まってる。
私は何故か自分に一生懸命言い訳した。でもそうじゃないことくらい頭では分かっている。どこだか知らないけど、きっとお金持ちの私立高校のであろう制服を着ている女子高生があんなところに住んでいるわけがない。あんな、お嬢様・・・
そこまで考えて、私の思考回路が再び止まった。
あの子!さっきコンビニのレジにいた「お嬢様」だ!
そう。ちょうど今、鍵を財布にしまってドアノブを握っているのは、間違いなくあのお嬢様だったのだ。
胸に鋭い痛みを感じた。今までに感じたことのない傷みだ。息苦しくさえある。
お嬢様がドアの内側に軽やかに消えていくのを呆然と見つめた後、私はふらふらとその部屋の前へと移動した。中から掃除機をかける音が聞こえてくる。
・・・なんだ。そうだったんだ。
聖ってば、あんなお嬢様と付き合ってるんだ。
コンビニで目をつけてナンしたに違いない。
それにしてもあの聖が彼女に合鍵を渡すなんて、ちょっと意外だ。聖ってそういうの面倒くさがりそうだから。
気づくといつの間にか掃除機の音は鳴り止み、代わりに換気扇からいい匂いが漂ってきた。お味噌汁の匂いだ。お嬢様が聖のために作っているのだろう。
・・・なによ、夫婦みたいじゃない。それとも同棲してるのかな。
じっと換気扇を見上げていると、中からドアノブを回す気配がしたので、私は慌ててアパートの裏側に走って逃げた。傘をさす余裕なんてないから、びしょびしょだ。だけどそんなことは気にもならず、私は部屋から出てきた女の子を陰から見つめた。やっぱり間違いない、あのお嬢様だ。
お嬢様は心配そうに空を見上げながら携帯で話していた。
「え?風邪?大丈夫?・・・うん、うん・・・雨、まだ降ってるね。傘は?・・・そっか、分かった。じゃあ今日はもう帰ってくるんだ?・・・分かった、待ってるね。気をつけて」
お嬢様が携帯を切って急いで部屋の中に引っ込むと、私はまたドアの前に戻った。「風邪」という言葉も気になったけど、何より「もう帰ってくるんだ?」というのが気になる。
それはつまり・・・もうすぐ聖が来るということなんだろうか。
私は少し身震いをした。
散々待っていたはずなのに、いざ聖の姿が見えると私はがっかりした。もしかしたらあの部屋でお嬢様が待っているのは聖じゃない誰かかもしれないという期待をしていたからだろう。
って、いいじゃない、別に。夫婦の時だって、聖に女がいてもなんとも思わなかったんだから。
聖は傘を肩に乗せ、のんびりとした足取りでやってくると私を見て目を見開いた。
「桜子?何やってんだ、こんなとこで。びしょびしょじゃん」
「・・・聖にちょっと用事が・・・」
「ふーん?」
よく見ると聖の顔は少し赤かった。風邪をひいているというのは本当らしい。
聖は傘をたたんで私の前を通り過ぎ、部屋の前でポケットから鍵を取り出した。
「え、ちょっと待って」
「なんで?雨降ってるから中に入ろうぜ」
「だって中に・・・彼女でしょ?」
あ、と言って聖はドアを見た。だけどそれは「しまった、忘れてた」という意味ではなく・・・
「そうだけど?」
「ちょっ・・・待ってって!」
放っておくと本当に鍵を開けてしまいそうな聖を私は必死に止めた。
彼女が待っている部屋に平気で婚約者を入れるの?それってどうなの?聖は嫌じゃないの?彼女にはなんて言うの?
なんて・・・
そうか、聖はきっとこう言うんだ。「こいつ、俺の元婚約者なんだ」と。
そして彼女はやきもちを妬くでもなく「え?そうなの?さっきコンビニで会ったのよ。先ほどは失礼しました」なんて私に笑顔を向ける。
きっと2人はそういう関係なんだ。
その時、私はふと以前聖が言っていたことを思い出した。
「もしかして、彼女って雌猫さん?」
「雌猫?」
「聖に『親に頼るな』みたいな啖呵を切ったっていう・・・」
それを聞くと、聖は照れくさそうに鼻の頭をかいた。
「よく覚えてるな。そうだよ、あの時の雌猫。なんか住み着きやがった」
「・・・一緒に暮らしてるの?」
「半分な。学校とバイトが終わったら毎日うちに来て、俺が帰ってくるの待ってる。夜には自分んちに帰るけど」
夜にはと言うけど、もう9時を回ってる。充分夜だ。親への言い訳にかろうじて寝に帰っている程度だろう。
私は無意識に拳を握り締めた。
「ここじゃダメ?」
「俺は別にいいけど。何の用?」
「・・・」
用なんて何もない。いや、あったかもしれないけど、もう必要ない。終わった。
以前、高1から高3に飛んだ時、私は高1の時より自分がノエルを好きになっていることに気がついた。それだけに、自分から別れを切り出した理由が全く分からなかった。記憶は継続されないけど、気持ちは継続されるらしい。
今回も同じだ。
私はどうして自分が聖に惹かれたのかは分からないけど、その気持ちは間違いなく今の私にも受け継がれている。
だから苦しい。悔しい。
そして理不尽過ぎる。
聖のどこに惹かれたか分からないのに、なんでこんなに苦しい思いをしないといけないの?
「どうしたんだよ、桜子?気分悪そうだぞ?」
聖が心配そうに覗き込んでくる。
やめてよ。誰のせいだと思ってるの?
ずっと仮面夫婦で暮らしてきたのに、どうして今更こんなことで苦しまなきゃいけないのよ。
「さくら、」
「もういい!」
「え?」
私は聖の胸に乱暴に紙袋を押し付けた。
「近くまで来たから寄っただけ!これ、彼女と食べて!」
驚いた聖が紙袋を受け止め切れず、紙袋はぐしゃっと音を立てて地面に落下した。
だけど私はそんなことは気にもとめず、踵を返して走り出した。
雨はいつの間にか本降りになっていた。