第3部 第8話
スケジュール帳のメモーページに書かれてある聖の住所を2重線で消し、新しい住所を書き足す。
「どうせ婚約解消になるんだから、俺の住所なんか知っててどうするんだよ」という聖の問いに、「また劇を見に行くかもしれないから」という答えになっていない答えを返して教えてもらった住所だ。
これでいい?
私は過去の私に訊ねた。
日記帳の中で私は毎回聖の劇を公演初日に見に行っていた。最初の数回は「飛んだ1年3ヶ月の間も見に行ってたみたいだから」と半分惰性で見に行っていたようだけど、次第にそれは積極性を帯びたものに変わっていった。そうと書かれている訳ではないけど、なんとなく分かる。だって書いているのは他の誰でもない私なのだから。
その積極性と反比例するかのように、劇の感想はシンプルになっていった。だけどそれは無関心故のシンプルさではなく、関心を隠すためのシンプルさだ。私も雌猫さんに負けないくらい素直じゃないらしい。
そしてもう1つ、劇の感想と同じく反比例してシンプルになっていっている物がある。「ノエル」だ。だけどこっちは明らかに単なる「シンプル」。何の含蓄もない。
スケジュール帳を閉じ、今度は日記帳を開いた。2冊目の終わりの方のまだ白いページに今日の日付を書き加え、そのままペンを走らせる。
昨日高3の秋から「飛んで」来たこと、三浦君と会い一緒に病院見学したこと、自分が小児科を目指しているのに驚いたこと。そして。
「聖に会った。いい男になったなと思う」
一度ペンを止めた。さっきの三浦君じゃないけど、自分の想いを上手く書き表せられない。
私は少し考えてから、何度も消しゴムを使いながら書き進めた。
「一昨日までの私は・・・きっと高校時代の私も、聖に惹かれていたのだと思う。だからノエルと別れ、日記の中からもノエルがいなくなっていった。多分。だけど今の私にはその気持ちが分からない。小児科を目指しているという気持ちも、聖に惹かれているという気持ちも。私はどうしたらいいんだろう?」
これが今の正直な気持ちだ。どうしたらいいのか分からない。
私はペンを投げ出し、机に肘をついて両手で頭を抱えた。
高校1年生の私はノエルと付き合いながらも段々と聖に惹かれていき、ノエルと別れることを決意した。だけどその想いは高3の夏に、高1の春から飛んできた私によって一度リセットされている。それにも関わらず私はまた聖に惹かれた。
今の私はまだ間違いなくノエルを好きだ。だけど怖い。今リセットしたところで、私はまた聖に惹かれるんじゃないだろうか?そしてまた過去から飛んできた私にリセットされる。
ずっとこんなことを繰り返すの?ノエルとの再会の約束はどうなるの?
私は誰と結婚するの?
だけど・・・
頭を抱えていた手を外し顔を上げると、目の前の窓のガラスに私の顔が映った。
・・・違う!私じゃない!
そこにいたのは21歳の私ではなく、28歳の私だった。
28歳の私が話かけてくる。
「桜子、あなたが本当に怖いのはそんなことじゃないでしょ?」
「・・・」
「さっき日記に書いた一言が全てよ」
「違う」
「違わない。あなたは聖に会って、いい男になったと思ったのよ」
「思ってない」
「だってそう書いたじゃない」
「見た目だけの話よ」
「聖の見た目なんて、今まで嫌って程見てきたでしょ。それでも改めて聖をいい男と思ったんだから、見た目じゃなくて、人間としてそう思ったのよ。だけどそれを認めるのが怖いんでしょ?」
「違う!私が好きなのはノエルよ!」
「どうして認めないの?自分の心変わりが許せない?ノエルと別れてもう4年近く経つのよ?ノエルだってあなたのことなんて覚えてないかもしれない」
「そんなことない!」
「もう一度しっかり日記を読んでみなさい」
「え?」
瞬きをすると、ガラスには私が映っていた。28歳の私ではなく、呆然と自分を見つめている21歳の私だ。
私はガラスから逃げるように目を逸らして、手元の日記帳を見た。
もう昨日散々読んだから内容は分かっているし、聖に惹かれていたのも分かっている。これ以上何を読めと言うんだろう。まだ読んでいない場所と言えば・・・
たった今書き加えたページの先をめくっていく。白い。当たり前だ、ここはこれから私が埋めていくべき場所なのだから。
ところが一箇所だけ、真っ白ではないページがあった。一番最後のページだ。日付はない。
そこには大きく強い文字でこう書かれていた。
「自分を信じて。過去の私も今の私も、私は私。未来を作るのも私。それを忘れないで」
「桜子、おはよう。ここ座っていいか?」
「あ、うん。おはよう、三浦君」
朝一番の授業が始まる前の教室で、三浦君が私の隣に座り話しかけてきた。
相変わらずのイケメンっぷりに周囲の女の子たちがひそひそと囁きあうのが聞こえてくる。
「昨日はありがとう。勉強になったよ」
「そう。よかった」
「内診室は凄かったなー」
そう言う三浦君がなんだか昨日よりもいきいきしているように見えるのは、私の目の錯覚じゃないだろう。
「もしかして三浦君、進路決めたの?」
「お、分かる?」
「うん、なんかさっぱりした顔してるもん」
「へへ、そうか」と照れ臭そうに笑うその笑顔は本当に眩しい。特に今の私には。
私は結局日記の最後に書かれていた言葉の意味を理解できなかった。だって過去の私と今の私は違う。過去の私が何を考え、感じていたのか私には分からない。そんな過去の自分と今の自分が同じ「私」だとは思えない。
そして、過去の自分が目指していた小児科を目指すべきなのか、28歳の私と同じ産婦人科を目指すべきなのかを考えているうちに、何がなんだか分からなくなってしまった。
そんな私には、自分の進むべき道を決めたばかりの三浦君が眩しくて仕様がない。
軽い嫉妬と焦燥感そして喪失感が私の心をジワジワと侵食していく。
三浦君は昨日のパパの話を聞いて、きっと外科を選んだ。私はまだ何も決めていないというのに・・・。それに、仮に決めたとしても、私が三浦君と一緒に働くことはない。なんだかそれがとても寂しい。せっかく手に入れた戦友を自ら手放してしまったような気分だ。
いいじゃない。本来、うちの病院には三浦君なんて医者はいないんだから。私がC大に進んだからたまたま三浦君と出会えただけの話よ。
だけど、と私は心の中で付け加えた。
それじゃあ、私が本来の私大ではなくC大に進んだ意味って何だろう、と。C大を選んだのは多分、密かにノエルと同じ大学に通いたいと思っていたからだ。だけどノエルがC大に来るという保証はないし、そもそも私たちは別れてしまって連絡も取っていない。だったら、私が一生懸命勉強してまでC大に進んだ意味が何もない。
それならせめて、三浦君が欲しい。これから一緒に戦う戦友として。
もっと早くこのことに気付くべきだった・・・三浦君が決意をする前に。
私はとてつもなく大切な物を失ってしまったのかもしれない。
それはある意味、ノエルよりも大切な物を。