第3部 第2話
180センチさんは、構内の中でも他とは雰囲気の違う一角へと入っていった。
そこはまるで、そこだけ時間の流れが止まっているかのように穏やかな空間で、樹木や芝の手入れも行き届いており、寝そべって本を読んでいる生徒もいる。
その芝の端に立てられている矢印型の白い看板を見ると「文学部」とあった。
なるほど。文学部ってちょっと独特の雰囲気があるもんね(医学部も人のことは言えないけど)。
だけど医学部の180センチさんが文学部に一体なんの用だろう。
重厚感漂うレンガ造りの建物の入り口の前で輪になっている女の子数人が、180センチさんを見つけて「あ、来た」という感じで笑顔になる。中には明らかにうっとりしている子もいる。
私は「文学部」の看板の所で足を止め、その様子を伺った。
女の子の一人が、別の小さな女の子の腕をつつく。
つつかれた女の子は、ポッと頬を染めてはにかんだような笑顔になり、他の女の子たちに小さく手を振って輪から出た。
そして180センチさんの方へ向かう。
すると180センチさんは・・・なんだかムスッとした表情になって足を止め、女の子が近づいてくるとクルッと踵を返し、元来た方向へと戻り始めた。だけどさっきより明らかに歩幅が小さくなっている。
女の子は小さな歩幅でチョコチョコと一生懸命180センチさんを追いかけ、やがて二人の歩幅はぴったりと重なった。
私はそれを見て、デジャブにとらわれた。
似てる。私とノエルに。
私たちもああやって同じ歩幅で並んで歩いたことがある。
また少し胸苦しさが戻ってきた。
180センチさんは相変わらず少し不機嫌そうな表情で、それとは対照的に女の子の方はニコニコしている。しかも言っちゃ悪いけど、女の子は小さくてぽちゃっとしていて、愛嬌はあるけどお世辞にも美人だとは言えない。
普通に考えれば180センチさんの隣にいるようなタイプの女の子じゃない。
それなのになんなのだろう、このお似合いな雰囲気は。
二人が恋人同士なのは一目瞭然だ。
いや、恋人同士なんて表現じゃ二人の雰囲気は言い表せない。
お互い相手のことを分かりつくしていて、無駄なラブラブ感や甘い言葉は必要なく、相手が本当に欲しい言葉・物を「欲しい」と言われる前にさっと差し出すことができる・・・そんな関係。
まるで夫婦のように。
・・・ああ、そうか。
さっき私が180センチさんに見た「諦め」はこれだったんだ。
自分にはこの人しかいない、
この人以外は有り得ない、
いずれこの人と結婚するんだ、
そんな幸せな「諦め」。
私もずっと諦めていた。
だけどそれは決して幸せなものではなく、親の後を継いで医者になり、親の言う通り聖と結婚しなくてはいけないという単なる「諦め」だった。
でも時間を遡りノエルと出会って、諦めたくなくなった。
別の人生を歩めるかもしれない、私だって幸せになれるかもしれない、そう思えた。
だから諦めたくない。
私もいつか、あの180センチさん達のようになりたい。
私は無性にノエルに会いたくなり、ノエルがいるはずもないのに何故か夢中で辺りを見回した。
そしてこの時ようやく、自分が肩に青いトートバックをかけていることに気が付いた。
・・・そうだ、携帯!
もはや180センチさんが彼女と一緒に大学を出ようとしていることなど目にも入らず、その場で鞄を漁る。
あった!
高校の頃から考えると進化しているけど、28歳の私からすると随分古めかしい携帯を開き、「月島」とか「ノエル」で検索してみる。だけどノエルと思われるアドレスは見つからない。
もしかしたらまだ携帯を持ってないのかな。
それとも・・・全く連絡を取り合っていないのだろうか。
そうだとしても、おかしくはないけど・・・。
がっかりして携帯を鞄に戻すと、今度はそこに手帳が入ってることに気が付いた。
B5サイズくらいの黒い皮の手帳だ。スケジュール帳だろうか。
そう思って何気なくパラパラめくってみると、案の定それは何の変哲もないスケジュール帳ではあったけど、最後の方のメモページに面白いものを見つけた。
住所録・・・というか、人物紹介だ。
最初は「本竜桜子」。
実家の住所、電話番号、携帯の番号。備考欄には「現在C大医学部4年生。実家で暮らしてる」とある。どうやら今日の寝床は確保できたらしい。ありがとう、私。
次は「小島静江」、括弧して(シズちゃん)とある。
さっきと同じく住所と携帯。備考によると県外にある大学に進学しているらしい。
2番目にシズちゃんの名前が登場するということは、今も親交が続いているのかなと思い、ちょっと嬉しくなった。後で連絡してみよう。
3番目には見慣れない名前が書いてあった。
「三浦翔」。
大学でできた友達だろうか。だけど男の子なんて・・・あ。
慌てて備考欄を見る。
「180センチさん。呼び方は『三浦君』。C大医学部の同級生で、入学式の時に再会した。一見爽やかなタイプだけど、よくよく付き合ってみると私と一緒で猫を被っていることが発覚。本性は天邪鬼な『俺様』。気が合うので大学では一番の友達。文学部に高校時代から付き合っている彼女がいるけど、恥ずかしいのか紹介はしてくれず、面識なし」
ぷぷぷ。「私と一緒で猫を被っている」って。
なるほど、なるほど。それで初対面の時とイメージが違ってた訳ね。
私は1人でニヤニヤしながらメモページを読み進めていった。
残念ながらそこにノエルの名前はなかった。やっぱり連絡を取っていないようだ。
でも、あまり寂しくはない。
だってそこにはたくさんの名前が載っている。大学でできた友達なのか私の知らない名前もあれば、海光の同級生の名前もある。以前は話したこともないような生徒ばかりだ。しかもそのほとんどの人と今でも連絡を取り合っているらしい。
私、友達が増えたなあ。
前は友達と呼べる友達なんて、柵木君くらいしかいなかったのに。
その柵木君の名前は、一番下に一行空けて書いてあった。備考は何もないけれど、住所を見れば柵木君がまだアメリカにいることが分かる。
良かった。
だけど、亜希子さんとはどうなったんだろう。
それに・・・
あ!そうだ!アレだ!
アレがあるはずだ!
私は「あの女、さっきまでニヤニヤしてたのに急に血相変えて走り出したぞ」という周囲の目を気にもせずに、大学の門を目指して全力疾走した。
そしてその途中、180センチさんこと三浦君カップルを追い越した時に目を丸くされるというおまけがついてきた。