第2部 第11話
「じゃあ、2人とも元気なんだな」
電話の向こうでほっとした声がする。
「うん」
「無理言って悪かったな。ありがと。直接話した?」
「ううん、先輩は私のことなんて知らないから、遠くから様子を見ただけ」
嘘ついてごめんね、柵木君。でも、亜希子さんがうちの病院で働いてるなんて知ったら、柵木君はきっともっと色々聞きたくなるだろうから。
「父親なんていなくても全然平気、って感じだった」
「・・・そっか」
「そうだよ。だから柵木君は2人のことなんて気にせず、自分のやりたいことすればいいのよ。やりたいことを我慢している柵木君なんて柵木君らしくない」
「・・・」
柵木君は何も言わない。でもその沈黙から、少しの落胆と大きな期待が感じ取れる。
少ししてから柵木君がボソッと言った。
「・・・本当に・・・俺がいなくても大丈夫かな」
「うん、きっと大丈夫」
「実はさ、俺、アメリカの企業からうちに来ないかって言われてるんだ」
柵木君が控えめな声で言う。
「正直やってみたいけど、そうなるといつ先輩と子供と一緒にすごせるようになるか分からない。
だからそれよりも、早く日本に戻る方がいいかどうか悩んでた」
「そうなんだ」
「でも・・・そうだな。中途半端に日本に戻ったら、何のために先輩と別れてアメリカに来たか分かんないもんな」
「そうだよ。死ぬほど頑張るんでしょ?」
「え?」
あ。
「そ、それくらいの覚悟でアメリカに行ったんでしょ?」
「ああ」
「だったら!とことんやりなよ!今日本に帰ってきても、我慢が募るだけでいいことないよ!」
結局離婚することになっちゃうんだから!
「うん・・・あのさ、先輩って誰かと結婚したりしないよな?」
「ええ?それはないよ!」
「なんで分かるんだよ?」
「それは・・・」
分かるよ。亜希子さんは今も柵木君のことを好きで応援している。
だから柵木君に会えなくても、奏君と2人で頑張ってる。
柵木君にもそれを伝えたい。伝えられないのがもどかしい。
「お、女の勘ってやつよ!大丈夫、絶対先輩は他の人と結婚したりしないから。ずっと柵木君を待ってくれてるよ。だから、柵木君はアメリカで頑張って」
「・・・分かった。なんでか今日の本竜には説得力があるから、本竜を信じてアメリカでやれるだけやってみるよ」
「私じゃなくて先輩を信じて」
「はは、それもそうだな」
ようやく柵木君の声にいつもの明るさと元気良さが戻ってきた。
一方で私はそんな柵木君の声を聞いているうちに不思議な気分になった。
さっき私が柵木君に言った「やりたいことを我慢している柵木君なんて柵木君らしくない」という言葉は亜希子さんが言っていた言葉そのままだ。
だけどそれは亜希子さんの想いであり、私の想いでもある。
ただしその対象は柵木君ではなく・・・
夏休みに入ってすぐ聖の劇を見に行った時、私は同じことを聖に対して思った。
聖に頑張ってほしいと、応援したいと、思った。
亜希子さんから柵木君への想い、
私から聖への想い、
どちらも同じだ。
同じだけど決定的に違うのは、そこに愛情があるかどうかだ。
私は聖のことを好きじゃない。
ただ応援しているだけ。
ただ聖に演劇を続けて欲しいだけ。
ただ聖にやりたいことをやっていて欲しいだけ。
その方が私にも都合がいいから。
・・・まあ、仮面夫婦とは言え6年も連れ添ってきたのだから、愛情ではないけど少しの情くらいはある。聖には不幸になるより幸せになって欲しい。それだけだ。
私が黙っていると、悩みを吹っ切れたからか柵木君がわざと上から目線で言う。
「本竜も受験、頑張れよ」
「うん」
「んで、22歳の誕生日にニューヨークに来いよ。月島との涙の再会をこっそり見ててやる」
「悪趣味ね。って、ノエル、そんなことまで柵木君に言ったんだ?」
「おー。あいつ、サラッとのろけてくれるんだよな。こっちは1人で頑張ってるってのに。
本竜と別れることになったのも天罰だっつーの。・・・そーいや、本竜はどうして月島を振ったんだよ?月島に聞いても『人の傷口をえぐるなんて、湊さんって人でなしですよね』とか言ってはぐらかすし。人のこと言えんのかって感じだけど」
「それは・・・内緒」
だって私にも分からないんだもの。
ノエルは「1年以上も付き合ってきて、今更そんなこと言うんだな」と言った。
私はどんな「今更」なことを言ったんだろう。
シズちゃんに聞いてみたけど心当たりがないと言うし、ノエルに直接聞くなんてことはさすがにできない。
ほんのちょっと「柵木君が知ってたりして」なんて淡い期待もしてたけど、どうやらそう上手くはいかないようだ。
それからしばらく柵木君と世間話をしていると、タイミング良くアルバイトからシズちゃんが帰ってきた。楽しそうに電話している私を見て「もしかして月島君ですか?」と聞いてくるので「柵木君だよ」と答えると・・・
「柵木君?ああ、彼女を妊娠させたくせに1人で勝手に海外行っちゃった人ですよね」
「こ、声が大きいよ、シズちゃん!柵木君に聞こえちゃう!」
私は慌てて電話口を手で押さえた。
が、シズちゃんはわざとかわざとじゃないのか、「あれー?そうですかあ?」とか言ってすっとぼけてるし。
電話越しからは「おい、今しゃべってたの誰だ」とか言う柵木君の怒った声が聞こえてくるし。
私はなんだか良く分からないけど携帯を耳にあてたままお腹を抱えて笑った。
今の受験勉強は10年前の受験勉強より過酷だ。
ノエルとも理不尽な別れ方をした。
それなのにどうして私はこんなに笑っているんだろう。
こんなこと、10年前には一度もなかったのに。
桜子。あなた、もったいない人生を歩んできたのね。
だけど今私がたくさん笑って、少しだけそれを取り返してあげるから。
私は柵木君とシズちゃんが呆れるほど、笑い続けた。