第2部 第10話
一目で奏君の虜になった、とまではいかないものの、普通の子供と違ってしずかーに黙々と一つのおもちゃに集中して遊ぶ奏君は、私の目には好感度高く映った。
この子は間違いなく柵木君の子供だけど、なんだか将来ノエルみたいな大人になりそうな気がするからかもしれない。
「それにしてもほんと、凄い量のおもちゃですね」
「ね?おもちゃ屋さんが開けそう。月島君もさすがに手じゃ持ってこれないから、おうちの人に頼んで車で持ってきてくれたの」
「へー」
ノエルのお父さんがおもちゃメーカーで働いてるなんて知らなかった。
ううん、知っていたのかもしれないけど、今の私は知らない。
・・・この1年3ヶ月、きっとすごく楽しかったんだろうな。
どうして神様はそんな一番楽しい時期を私から取り上げたんだろう・・・。
亜希子さんが、かろうじてスペースが確保されているソファに座ったまま足元に転がる新品のゲーム機を取り上げた。
「まだ1歳半だからかもしれないけど、こういうおもちゃには見向きもしないの。ずっと同じパズルとか絵本とかばっかりで遊んでる」
「子供って気に入ったおもちゃがあれば、ずっとそれで遊びますもんね」
「よく知ってるね、桜子ちゃん」
「うち、小児科もありますから。子供なら見慣れてます」
「あ・・・ふふふ、そうよね」
亜希子さんは笑いながら、亜希子さんのお母さんが入れてくれたコーヒーを飲んだ。
だけど確かに、奏君の集中力は大したものだ。既に30分以上黙々と同じ絵本を繰り返し見ている。
時々「うー」とか「あー」とか言うのが、まるで大人が難しい本を読みながら「うーん」と唸っているみたいに見えて、なんだかおかしい。
私は深く考えずに、思ったことをそのまま口にした。
すると、とたんに亜希子さんの表情が凍りついた。
「・・・やっぱりそう思う?」
「え?そうって?」
「奏、極端に口数が少ないの。これくらいの月齢になると普通は『わんわん』くらいは言えるのに、奏は『うー、あー』ばっかり。それもかなり少ないし」
「・・・」
「こないだ1歳半検診に行ってきたんだけどお医者さん曰く、話そうという意志が全く感じられないんだって。普通は話したくて話したくて仕方がない時期だから、いろんな言葉や音が出てくるものなのに、って」
「それって、耳が・・・」
「ううん。耳は聞こえてる。奏!」
亜希子さんが奏君に呼びかけると、奏君は絵本から顔を上げて亜希子さんを見、一丁前に口の端でニッと笑った。どうやら聞こえてはいるらしい。
「もしかしたら、声帯に問題があるのかもしれない。もしくは・・・精神的なものか」
「失語症みたいなのですか?」
「うん。奏には父親がいないから、それが私の思っている以上に奏にはストレスになってるのかもしれない」
失語症。耳は聞こえるし声帯にも問題がないけど、精神的ストレスから声を出せなくなる病気だ。
あんまり知られていないけど、結構子供にも多い。
でも、まだロクに話せない赤ちゃんにも発症するものなのだろうか。
「うちのパパに・・・」
「うん。一度見てもらおうと思ってる。でももしかしたら精神科とかに行った方がいいのかもね」
「・・・あっ」
「なに?」
「い、いえ」
私は亜希子さんから表情を隠すために、慌ててコーヒーを飲んだ。
思い出した。
私、柵木君から「先輩と子供の様子を調べてくれ」と言われたことがある。
昨日ではなく、10年前に。
あの「お願い」は、この戻ってきた世界だけのことじゃなかったんだ。
28歳の私から見て10年前、私はアメリカの柵木君からの「お願い」にその場で応えた。
「だって先輩、うちの病院で受付やってるもの」
「ええ!?そうなのか?」
「うん。私はまともに話したことないけど、元気そうだよ」
「・・・子供は?」
「見たことないなあ。あ、だけどこの前看護士たちが噂してるのは聞いた」
「なんて?」
「なんだったかなあ。確か何かの病気かもしれない、みたいなこと言ってたけどよくわかんない。
ただの風邪とかかもしれないし」
そんな会話をした気がする。
そうだ。私は亜希子さんの子供が病気かもしれないというのを知っていたんだ。どうして今まで忘れてたんだろう・・・それに、どうして奏君の様態を全く気に留めなかったんだろう。
その後柵木君が帰国して亜希子さんと結婚し、日本にいたのは1年くらいだけど、その間に1回くらいは私も柵木君と会ったと思う。
だけど柵木君から子供の話は出なかったし、私も聞こうとしなかった。
柵木君は家庭が上手くいってなかったから家族の話をしたくなかったのかもしれないけど、私はただ単に「子供」という存在に興味がなかったし、病気の噂も忘れていた。
だから・・・奏君が話せるのか話せないのか、28歳の私は知らない。
亜希子さんはうちで10年以上も働いてるのに・・・なんて無関心なんだろう、私。
つくづく自分に呆れてしまう。
「ごめんね、亜希子さん」
教えてあげられなくて。
「え?何が?」
「ううん、何でもないです。・・・もしかして、このことを柵木君に伝えて欲しくて、私を家につれてきたんですか?」
亜希子さんは立ち上がり、絵本を読みふけっている奏君の隣にいって頭をなでた。
「逆よ。黙っていて欲しいの。桜子ちゃんにはちゃんと事実を伝えた上で黙っててってお願いした方がいいと思って」
「え?話しちゃいけないんですか?どうして?」
「だってこんなこと知ったら、湊君、飛んで帰ってきそうだもの」
「・・・」
「湊君ね、アメリカに行く前私に『死ぬほど頑張ってくる』って言ってたの。だから中途半端に帰ってきて欲しくない。自分がやりたいことをとことんやって欲しいの」
確かに柵木君は帰ってきた。
だけどもしかしてそれは、私が軽い考えで奏君の病気のことを話したからなのだろうか。
もしかして私が余計なことを言わなければ、柵木君は高校卒業後もアメリカにいたのだろうか。
でも、もしそうだとしたら、亜希子さんと奏君はずっと柵木君とは会えないことになる。
「柵木君に会いたくないんですか?」
思い切って訊ねてみると、亜希子さんはまるで自分に言い聞かせるかのようにこう言った。
「どうかな・・・会いたくないと言えば嘘になる。でも湊君に自分の意志を曲げてまで会いにきて欲しいとは思わない。自分のやりたいことを我慢している湊君なんて湊君らしくないもの。それならいっそ会えなくても『湊君はやりたいことを思い切りやってるんだ』って思ってる方が私は幸せ。奏の言葉のことも、私がもっとしっかりした母親になればなんとかなると思うの」
・・・本当は亜希子さんは柵木君に会いたいんだ。でも、今はそうしない方が柵木君のためになると思ってる。そして柵木君のためになることこそが、亜希子さんの望みなんだ。
ノエルはそれを分かっているから、柵木君に亜希子さんのことを話してない。
きっと亜希子さんにも柵木君のことを話してない。
その代わりに自分が2人のことを心配して見ている。
昔の私は知らず知らのうちに、そんなノエルの想いを台無しにしたんだ。
「分かりました」
私もソファから立ち上がり、奏君の傍に行った。
奏君は母親の心配など露知らずといった感じで相変わらず絵本に集中している。
これは医者として思うのだけど、奏君はストレスを抱えているようには見えない。ストレス下にある人間は、子供に限らず集中力を発揮できないものだ。
奏君は亜希子さんと亜希子さんのご両親から、充分な愛情を受けているのだろう。もし本当に話せないのなら、それは精神的な問題ではなく肉体的な問題に違いない。
それを亜希子さんに伝えてあげられない代わりに、私は言った。
「柵木君には奏君の言葉のことは言わずに、2人とも元気だとだけ伝えておきます。・・・奏君、何ともないといいですね」
「うん、ありがとう。ついでに『パパなんていなくても全然平気みたい』って言っといて。
シングルマザー友達もいて、結構楽しいのよ、ほんとに」
悪戯っ子っぽくそう言って笑う亜希子さんは、とても逞しく、そして優しかった。