第2部 第8話
柵木君から電話をもらった次の日曜、私は朝早く実家に帰った。
ちょうどパパが家を出る時間を狙ってだ。
「パパ、おはよう」
「桜子?」
パパは玄関の前に立っている私を見て、ちょっと嬉しそうに驚いた。
「どうしたんだ。普通の日曜に帰って来るなんて珍しいな」
「ちょっとね。パパ、今から病院でしょ?私も一緒に行っていい?」
「もちろんいいが・・・どういう風の吹き回しだ?今までそんなことしたことないだろ」
「将来の私の職場だもん。たまには見学しとかないとね」
パパは更に顔を綻ばせて歩き始めた。
「病院」というのは、うちから徒歩5分ほどのところにある「マミーホスピタル」という産婦人科と小児科がある病院のことで、パパはそこの院長であり小児科の代表者でもある。
以前は産婦人科しかない「本竜産婦人科」だったのだけど、よそから産婦人科の先生を招いて、
私が中学1年の時に「マミーホスピタル」に建て替えた。
個人の病院で小児科と産婦人科の両方があるところは珍しいらしく、なかなかの人気だ。
そして私は24歳で産婦人科の医者になる。
ゆくゆくは産婦人科の代表者、そして院長になるだろう。
私とパパは並んで開院前の病院の裏口から院内に入った。
中では既に看護士や受付の人が忙しそうに動き回っていたけど、
パパを見るとみんな一瞬動きを止めてパパに大きな声で「おはようございます」と言い、
また動き始めた。
病院スタッフの動きは、医者の姿見だと思う。
マミーホスピタルのメンバーの機敏さを見れば、パパがどういう医者か一目瞭然だ。
私は院長室へ行くパパと別れて、受付に向かった。
開院前の受付は戦場だ。昨日の申し送りの確認や今日の診察予約・分娩予定、時には帝王切開のスケジュールを組んだりと、人が何人いても足りない。それをうちは2人でこなしている。
これもパパの指導の賜物ではあるけれど、本人たちの能力によるところも大きい。
特に。
「おはようございます」
私は黒い髪を後ろでくくった落ち着いた感じの女の人に声をかけた。
落ち着いているといっても私の2つ上だからまだ20歳くらいだけど、その仕事ぶりと頭の良さは、うちの病院でもトップだ。
その人はファイルから目を上げ、にっこりと微笑んだ。
「あら、珍しい。おはよう、桜子ちゃん」
桜子・・・ちゃん?
私は思わず「へ?」と口を開いた。
確かに中・高の先輩・後輩ではあるけれど「桜子ちゃん」なんて呼ばれたのは初めてだ。
「本竜さん」か、私が医者になってからは「先生」だったのに。
もしかして、ここにも私がノエルと付き合っていたことが影響してるんだろうか。
でも、どこでどう影響しているのか想像もつかない。
とにかく、私が思っているよりも、私はこの人と仲が良いらしい。
じゃあ、いつもみたいに苗字で呼ぶより名前で呼んだ方がいいよね?
確かこの人の名前は・・・
「えっと、亜希子、さん?」
「何?」
「ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「うん、ちょっと待ってね」
「亜希子さん」は全く不審がる様子もなくファイルを閉じて受付から出てきてくれた。
よかった。どうやら正解のようだ。
「どうかした?」
「いえ、たいしたことじゃないんです。お忙しいのにすみません」
「ううん、いいよ。院長先生の娘さんの呼び出しなんだから最優先よ」
なんだ・・・もっとお堅い人かと思ってたのに、案外気さくじゃない。
私はホッとして、早速本題に入ることにした。
「亜希子さん。お子さん元気ですか?」
「え?あ、うん、」
「亜希子さんは?」
「元気、だけど?」
亜希子さんが、それがどうかしたの?という表情になる。
「何か変わったこととか、困ってることってありませんか?」
「特に・・・ないけど」
・・・うーん。なんだろう。なんかちょっとぎこちない。
確かに唐突な質問ではあるけど、何か隠している感じがする。
ここは直球勝負の方がいいかもしれない。
亜希子さんは取り繕うように笑顔で訊ねてきた。
「どうしてそんなこと急に聞くの?」
「柵木君から、亜希子さんと子供の様子を教えてくれって電話があったからです」
「え・・・柵木君って・・・」
「柵木湊君です」
亜希子さんが固まる。久しぶりの、そして予想外の名前に戸惑っているみたいだ。
「柵木君、私と一緒で来年高校卒業だから、日本に帰ってくるみたいなんです。
だからきっとその前に、亜希子さんと子供の状況を知りたいんだと思います」
「・・・そう・・・。桜子ちゃん、子供の父親が湊君だって気付いてたんだ」
「もちろんです」
亜希子さんは「そっか」と言って曖昧に頷いた。
本当に偶然なのだけど、亜希子さんはうちの病院で出産し、その後子育てをしながらうちの受付で働いてくれている。そこでバッタリ会った時はお互い驚いたものだ。
だけどそれだけだった。
中・高時代、同じ寮で生活してはいたもののほとんど話した事のない私たちは、院長の娘と受付という関係になっても、先生と受付という関係になっても、特に親しくはならなかった。
それでも柵木君という存在を介して、私は亜希子さんのことを少しは知っていた。
柵木君は高校卒業後に帰国して、すぐに亜希子さんと結婚し3人で暮らし始めた。
でも2人の結婚生活は長くは続かなかった。
柵木君は本当はアメリカの大学に進んでアメリカで働きたかったのだ。それを我慢して亜希子さんと子供の為に帰国し、日本の大学に通った。一方亜希子さんも、生活の為にうちで働き続けた。
離婚はお互いの無理や我慢の末の当然の結果だったのかもしれない。
私は2人を見ていて思ったものだ。
どんなに好き合っていても、ちょっとのすれ違いでダメになる。
結婚に恋愛感情なんて必要ない。そんなものがあると返って厄介だ。
だったら私と聖はある意味「良い夫婦」になるかもしれない。
その後、柵木君はアメリカに戻り、
亜希子さんは子供と実家に帰って私が28歳になるまでずっとうちの受付にいる。
そんな結末を知っているだけに、柵木君からの「お願い」には気が進まない。
亜希子さんが唐突に話を変えた。
「桜子ちゃんて、今受験生よね?」
「はい」
「じゃあ忙しいとは思うんだけど・・・ちょっとうちに遊びに来ない?」
「え?」
正直、そんな時間はない。特に今の私には。
だけどいつになく真剣な亜希子さんに、私は頷くしかなかった。