第2部 第7話
時間はゆっくりと流れた。
いっそまた「飛んで」5年後にならないかと何度願ったか知らない。
だけどそう都合よくはいかない。私はとにかく勉強に明け暮れた。
寮が閉鎖される夏休みは実家で机にかじりついた。
2学期が始まるとみんなと争うかのように勉強した。
1度目の高3よりも頑張れた。
勉強だけに集中できるというのは学生の特権だ。大人になってから勉強しようと思うと、勉強以外のことにも時間を取られて、結局あまり勉強できない。仕事とか家事とか育児とか。
だから勉強はできるうちにしておいた方がいい。それが28歳まで生きてきた私が学んだことの一つだ。
だから頑張れる。
自分のために。ノエルのために。
そんな勉強漬けのある秋の夜、携帯が震えた。電話だ。
私に電話してくるなんて、ノエル?・・・な訳ないか。
高3である私は1学期いっぱいで生徒会を「卒業」したからノエルとは全く会っていない。
寂しくはない。そんなことを感じる時間があれば勉強してきた。
じゃあ誰だろう?パパかママ?それともまさか聖とか?
私はシャーペンを置くと、ベッドの中のシズちゃんがぐっすり眠っているのを確認してディスプレイを見た。そこには「通知不能」という文字。
非通知じゃなくて通知不能?な、なんなんだろう、それ。
出ようかどうか迷ったけど、もしかしたら携帯会社からの連絡とかかもしれない。
(それなら尚のこと「通知不能」じゃない気もするけど)
私はおそるおそる通話ボタンを押して携帯を耳にあてた。
ガーとかピーとか小さな雑音がする。そしてそのずっと奥の方から「もしもし?」という小さな声が聞こえた。
「・・・もしもし?」
「聞こえてる?」
「はい」
「良かったー」
段々声がはっきり聞こえてくる。男の人の・・・いや、男の子の声だ。
それも聞き覚えがある。
「よお、久しぶり、本竜」
「・・・柵木君?」
「せいかーい」
「柵木君!」
思わず顔が綻んだ。
高1の春休みに交換留学制度でアメリカに行った柵木君だ!
唯一と言っていい私の男友達だ!
「久しぶり!懐かしいなあ」
「あはは、懐かしいってほどじゃないだろ」
そうね。でも28歳の私からすれば本当に懐かしい。何年ぶりだろう。
「まだアメリカだよね?」
「うん」
「そっか。国際電話だから携帯に『通知不能』って表示されたのね」
「へー。そんな風に表示されるんだ」
柵木君の笑い声は心地よい。今は電話だから見えないけど笑顔も人懐っこくて、みんなの人気者だ。
明るい茶髪にピアスという海光では異色のいでたちも、柵木君だとなんだか違和感がない。
「どうしたの、急に?あれ、今そっち何時?」
「7時。朝の」
「ふーん?」
そんな朝早くに、どうして私に電話なんてしようと思ったんだろう。
確かに柵木君は私の友達だ。堂々と「友達だ」と言える。
だけどそれは定期的に連絡を取っているような「友達」ではなく、久しぶりに会ってもすぐに昔に戻ったみたいに仲良く話せるような「友達」で・・・
つまり、用もないのに朝早く海外から電話してくるなんてことはない、と思う。
だけど柵木君は本題に入るのを躊躇うかのように、「大学、どこ受けんの?」と訊ねてきた。
「C大」
「医学部志望だっけ?」
「うん」
「そっかー。頑張れよ」
聖はC大医学部と聞くと「頭いいな」と言っていたけど、柵木君だと「頑張れよ」になる。
柵木君にとってはC大医学部は大したレベルじゃない。それこそが柵木君が交換留学生に選ばれた理由だ。それでいてそんなことは全く鼻にかけないから、柵木君を妬む人もいない。人徳というやつだろう。
「柵木君は?日本の大学に進むんでしょ?」
「うん・・・どうしようか悩んでる」
私は知ってるよ。柵木君は帰ってくる。そしてT大の帰国子女枠であっさりと合格するんだから。
そう教えてあげたいけど、それは反則な気がするから黙っておこう。
柵木君がちょっと沈黙した。
こういう時、私はいつも相手が話し出すまでぼんやりと待っているタイプだけど、今はなんだか手を差し伸べてあげたくなった。年下の彼氏がいた者のお節介だろうか。
「何かあったの?」
「いや・・・別に」
「でも、何かあったから私に電話してきたんでしょ?」
「・・・」
「言ってよ。電話代、もったいないよ?」
「っふ。そうだな」
柵木君は緊張が解けたのか少し笑った。
「本竜、月島と別れたんだって?」
「うん・・・。ノエルから聞いたの?」
「ちょっと前に月島からパソコンにメールが来たんだ。珍しくへこんでたぞ、あいつ」
「うん」
「いい気味だぜ」
そう言えば、柵木君とノエルは仲のいい先輩・後輩だった。
いつもはノエルが柵木君のことを「世話の焼ける先輩」扱いしてたけど、結局は頼りにしているらしい。
柵木君も「いい気味」とか言ってるけど、本音じゃないだろう。
「でも、月島と本竜が別れるなんてちょっと意外だな」
柵木君がわざと茶化す。
柵木君もね、と返したいところだけど、私はその言葉を飲み込んだ。
柵木君の声のトーンが少し落ちる。
「・・・でさ。本竜も落ち込んでるだろうところ悪いんだけど、ちょっと頼みがあって」
「うん。何?」
どうやらこれが本題らしい。
私は携帯を耳にあてる力を強めた。
「様子を見てきて欲しいんだ」
「様子?」
「うん・・・先輩の。それと、」
「子供の?」
「・・・」
今度の沈黙は重かった。手の差し伸べようがないくらいに。
柵木君の言っている「先輩」というのは、柵木君が留学前に付き合っていた恋人のことだ。
海光の2つ上の先輩で、物凄く頭のいい人だった。
ある日、その先輩は妊娠した。
そして産む決意をした。
先輩は、相手は柵木君じゃないと言い張っていたけど、そんなのは柵木君をかばうための嘘だろう。
柵木君と先輩の間でどういうやりとりが行われたのかは分からないけど、柵木君は先輩と別れてアメリカへ留学し、先輩はなんとか恩情で高校は卒業できたものの大学進学は諦め、シングルマザーになった。
だけど柵木君はずっと先輩と子供のことを心配していたんだ。
「・・・いいよ。様子、見てきてあげる」
「本当に?ありがとう。悪いな、勉強で忙しいのに」
「ううん」
そうは言ったものの、正直気は進まなかった。
私は、柵木君がおそらく空で読み上げている住所をメモっている振りをしながら、指でペンをクルクルと回した。住所なんてものは必要ない。
「じゃあ、頼むな」
「うん」
「それと・・・俺のことは二人には言わないでくれな」
「分かった」
柵木君は何度もお礼を言って電話を切った。
いよいよ高校卒業が近づいてきて、帰国を考える時期になったから先輩と子供のことがいつも以上に気になったのかもしれない。
だけど・・・
私はため息をついてシャーペンを取り上げた。