第2部 第6話
声をかけられたのは、劇場になっている建物の地下から地上1階へ上ったところでだった。
嫌というほど聞きなれた声に身体が強張る。
「今日も黙ってこそこそ帰る気かよ」
「聖・・・っぷ」
「・・・」
カーテンコールが終わってよほど慌てて出て来たのか、聖はまだ学ランのままだ。
舞台は映画やドラマと違って年齢に関係なく色んな役を演じれる場だということは私も知っているけど、ただでさえ大人っぽい聖の学ラン姿はなんだか笑える。
「笑うな」
劇が終わった興奮を隠すかのように、聖はいつも以上に仏頂面になった。
「だって・・・あはは、似合わない」
「あのな・・・」
「あははは。・・・私がいるの、気づいてたんだ?」
「新しい劇の初日の度に同じ席に座ってりゃ気づく。いっつも黙って帰りやがって」
なんだ。私は気づかれてないつもりだったらしいけど、聖はずっと前からお見通しだったのね。
恥ずかしいけど、学ラン姿の聖も相当恥ずかしいだろうから、お相子ということにしておこう。
それに。
「劇、凄く面白かったよ。それに聖の演技も良かった」
「・・・とってつけたみたいに褒めるな」
「本当よ」
本当に本当だ。
聖は端役だったけど、本当に良い演技をしていたと思う。
登場場面も台詞も少ないのに、何故か目を惹く。
いつもの聖からは想像もできないくらい声も大きく伸びやかで、聖が舞台で動けば、自然とそっちに目がいく。
それは単に、私が聖を個人的に知っているからだけではないだろう。
きっとこういうのを「花がある」というんだ。
「聖が主役を演じれる日を楽しみにしてる」
私がそう言うと、とたんに聖の顔から不機嫌な表情が消えた。
その代わりに現れたのは、いかにも自信がなくて頼りなさそうな表情だった。
「俺なんかが主役をできる日なんて、来るのかな」
聖らしくない。でも、きっとこれが今の聖の本音なんだ。
私は、28歳の聖が演劇をやめているのを知っているだけに、なんとも言いようがなかった。
「・・・」
「なんだよ。良い演技だったとか言って、桜子も俺には主役なんて務まんねーと思ってるんだろ」
「違う。聖ならできると思う。・・・頑張り続ければ」
「・・・本当に?」
「うん、本当に」
そう。だから続けて。
このままだと聖は嫌々私と結婚して無職になる。
だったら思い切りやりたいことをやればいい。そうすれば、未来はよくなるかもしれないし、私と結婚しなくても済むかもしれない。
そうなれば私もノエルと・・・。
ノエルと?
私はノエルを待つつもりだ。
5年後にもう一度ノエルとやり直すんだ。
5年なんてたいしたことない。すぐだ。
でも、ノエルはどう思ってるんだろう。
本当に5年後、私と再会するつもりがあるんだろうか。
再会してやり直すつもりがあるんだろうか。
もしノエルとやり直すことができなかったら・・・私はどうなるんだろう。
ノエルも聖もいなかったら、私はいつまでも結婚できずに一人でいるんだろうか。
それでもあんな結婚生活を送るよりはましだと思う。
私と聖はやっぱり結婚すべきじゃなかった。
聖は自由な人間だ。
何にもとらわれずに自分の進みたい道を進むことが、聖には一番の幸せに違いない。
そして私もまたわがままな人間だ。
ノエルのことを好きなのに、なんだかんだ放っておけずに聖の劇を見にきている。
きっとこれからも見に来るだろう。
私と聖は一定の距離を保っていた方が、良い関係を築けるのかもしれない。
「聖は大学受験しないの?」
そう訊ねると、聖はあっさりと首を横に振った。
「興味ない。でも親父がうるさいから、適当にアホな私大を受ける」
「N大?」
「なんで分かるんだよ」
だって聖の出身大学だもん。
「だって聖にはお似合いだもん」
「五月蝿い。桜子は?」
「C大」
「医学部?」
「うん」
「へえ。さすがに頭いいな。医者になったら俺を食わしてくれよな」
私は思わず笑った。
この頃からそんなこと考えてたの?こういうとこは変わらないな。
そして何故か口が滑った。
無意識の冗談ってやつだ。そうに決まってる。
「いいよ」
「おー。太っ腹じゃん」
「その代わり条件があるわ。演劇を続けること」
「余裕ー」
聖が「今の言葉、忘れんなよ!」と嬉しそうに笑った。
将来楽に暮らせるのが決まって笑っているという感じじゃない。
純粋に・・・演劇をできることを喜んでいる、そんな笑顔だ。
急に胸が苦しくなった。
聖は一体どこでこの笑顔を落としてきたんだろう。
何が聖からこの笑顔を奪ったんだろう。
一つ、思い当たることがある。
あれは確か、実家を出た聖がノコノコと戻ってきた大学4年の冬休み。
聖との婚約がなくなったと喜んでいた私に、突然伴野のおじ様から「やっぱり婚約を復活させて、すぐに結婚してやってほしい」と聖をつれてうちにやってきた時のことだ。
私は心底がっかりしたけど、聖のそれは比ではなかった。
聖に無関心な私でも「どうしたんだろう」と思うほど落ち込んでいて・・・
今の聖の目の輝きなんて微塵も感じられないほど、目が死んでいた。
もし今聖がそんな目をしていたら私はきっと「どうしたの?」と訊ねるだろう。
もしかしたら「大丈夫?」と心配もするかもしれない。
だけどあの時私は聖に声すらかけなかった。
淡々と進んでいく結婚話をぼんやりと聞きながら「どうして戻ってきたのよ」と心の中で聖を責めていた。
でも、聖はそんな私の非難の視線にも気づかず、ただ黙って座っているだけだった。
もしかしたらあの時、聖に何かあったのだろうか。
こんなに熱心に取り組んでいる演劇をやめてしまうほどの何かが。
「桜子が医者になるのって22歳?」
私が聖をじっと見ていると、聖は早速皮算用を始めた。
「・・・医学部は6年制だから24歳。そこから2年は研修医だから、ちゃんとしたお医者さんになるのは26歳くらいね」
「えー?んじゃそれまでは結婚できないのか?バイトでもして食い繋いどくかなー」
「就職しなさいよ」
「そんなことしたら演劇できなくなる」
変なところで真面目なんだから。
だけど私は、目の前のいきいきした聖を見てある決心をした。
聖と結婚はできない。
でも、できるかぎり聖を応援しよう。
聖がこの笑顔を失わなくてもいいように。