第2部 第4話
「じゃあ桜子さん、私のこと全然覚えてないんですか!?」
「うん」
シズちゃんが朝ごはん代わりにと机の中から引っ張り出してきた菓子パンを一口かじり、不満げな顔をする。更に。
「桜子さん、21歳なんかで結婚するんですか?」
「うん」
シズちゃんの顔がますます渋くなる。それでもお腹はすくようで、もう1口、パンをかじった。
私もおこぼれにあずかり、クロワッサンを食べる。
シズちゃんは口をもぐもぐさせながら呟いた。
「ふーん・・・でも、そっか・・・」
「え?」
「前の桜子さんは、月島君と付き合ってなかったんですよね?」
「うん」
「だったら当然、月島君との再会の約束もなかった。だから桜子さんは親の言う通り、21歳で結婚したんですよ。月島君と付き合ってたら、結婚しなかったんじゃないですか?」
確かにそうかもしれない。だって私は今、絶対聖とは結婚せずにノエルと再会したいと思っているから。
「それに、私が桜子さんと仲良くなったのも、桜子さんが月島君と付き合ってたからです」
「どういうこと?」
シズちゃんは時計を見て授業が始まるまでだいぶあることを確認すると、安心したように3つ目のテーブルロールに手を伸ばした。
「正直昔は桜子さんのこと、とっつきにくそうな先輩だなって思ってました。でも月島君と付き合ってるって噂で聞いて、今年の3月に桜子さんと同室になった時思い切って『本竜先輩ってあの秀才でイケメンの月島君と付き合ってるんですか?』って聞いたら、幸せそうに『そんな秀才でイケメンなんて…でも、うん、付き合ってるよ』なんて言うから、拍子抜けしちゃって。それから桜子さんと仲良くなったんです」
「そうなんだ・・・じゃあ、シズちゃんと私が仲良くなれたのは、ノエルのお陰なんだね」
「はい。だから私、2人には別れてほしくないんです」
それでシズちゃんは、昨日私がノエルとの約束を忘れたって言ったら怒ったんだ。それなのにこんなことになってしまって、なんだか申し訳ない。
それから私は授業が始まるギリギリまでシズちゃんからこの1年3ヶ月の出来事を聞いた。
シズちゃんと同室になった直後、私がノエルとの約束をデレデレしながら話したこと。
私がデートらしいデートがしたいと言って、ノエルとディズニーランドへ行ったこと。
でもその帰りに些細なことでノエルと大喧嘩したこと。
そして私が国立のC大学を目指しているということ。
C大学は医学部を含め、色々な学部があるマンモス校だ。レベルもかなり高い。
シズちゃんの話によると、私は頭のいいノエルに「一緒の大学に行こう」と強要するのが嫌だったらしく、でもノエルと同じ大学に行きたくて、ノエルにはそうとは言わずに自分が行きたい医学部とノエルが目指すであろう経済・商業のレベルの高いC大学を志望校にしたらしい。
本当に私、ノエルのことを好きだったんだ。
だから私は決めた。
ノエルがどこの大学を目指すかは分からないけど、私はこのままC大学を目指そう。そして5年待とう。
待ってもう一度ノエルと出会うんだ。
だけどその前に、どうしてもシズちゃんに確かめておきたいことがある。
私はシズちゃんと一緒に廊下を急ぎながら訊ねた。
「ねえ、シズちゃん。私、1人でどこかに出掛けることってよくあった?」
「1人でですか?うーん・・・あ、そうですね。よくって訳じゃないけど、たまにありましたよ。3,4ヶ月に1度くらい。デートですか?って聞いたら『ううん。1人なの』って言ってました」
やっぱり。
「自分がどこに行ってたか分かるんですか?」
「多分ね。28歳の私は行ったことのないところだけど」
「へえ?」
「私」は、そのことに関してはシズちゃんにも詳しく話していないらしい。
そうだよね。ノエルとのことを応援してくれているシズちゃんにはちょっと話しにくいもんね。
例え、何の下心がなかったとしても。
私は本鈴ギリギリで教室に滑り込んで教科書を開いた。
それとほとんど同時に数学の教師が教壇に立ち、遥か昔に聞いたことのあるような公式が教室の中を流れ始める。だけどその公式をどういう問題に当てはめて使えばいいのかさっぱり思い出せない。28歳の脳での受験勉強は厳しそうだ。でも、頑張らなきゃいけない。
それが今の私にできる唯一のことだ。
私は頭の中のスケジュール表を「受験勉強」という文字で埋めていった。
ある一箇所だけを除いて。
夏休み初めの日曜日。
私はC大模試を受けに大手予備校へと向かった。
もちろん自分がこの模試に申し込んだことは覚えてない、というか知らないけど、シズちゃんがちゃんと教えてくれたのだ。
シズちゃんは不思議な子だ。私の話を疑うことなく信じてくれただけではなく、私が知らないであろうことは先回りして教えてくれる。特に私がノエルと付き合った結果起こった出来事やできた人間関係は、私には全く分からないから本当に助かる。
シズちゃんと仲良くなれたことは、ここから続く私の人生の中で大きな財産になるだろう。
私は心の中でシズちゃんに感謝しながら電車から降りた。
参考書を読みながらホームを突っ切り、階段を上る。
ここ数日必死に勉強してきたけど、昔受けた大学よりレベルの高い大学を28歳の脳で目指すのは難しい。本当にもう勉強しまくるしか仕方がない。こうやって歩いている時間ですら無駄にできない。
ところが。それが裏目に出てしまった。
「うわっ」
「きゃっ」
私は突然目の前に現れた「壁」に激突し、見事に尻餅をついた。
一瞬、何が起こったのかわからなかったけど、どうやら反対側の階段から登ってきた人と正面衝突してしまったらしい。
慌ててスカートの裾を合わし、鞄を拾い上げる。そして少し遠くに飛んでいってしまった参考書に手を伸ばそうとすると、大きな手が私の横からすっと伸びてきて参考書を持ち上げた。
「大丈夫ですか?はい、これ」
「あ・・・どうも」
顔を上げると、遥か高くに男の人の顔が見えた。私が地面に座っているから高く感じるという訳ではないだろう。
慌てて立ち上がり、男の人の手から参考書を受け取る。180センチはありそうだ。
「すみません。私、余所見していて」
「いえ、俺も本読んでて、ちゃんと前見てなかったから。すみませんでした」
180センチさんが軽く頭を下げる。そして頭を上げた時、私はようやくその顔を近くでまともに見た。
切れ長の目に筋の通った高い鼻。それがバランスよく配置されている小さな輪郭。
高校生くらいだろうけど、たいしたイケメンだ。
ノエルや聖を見慣れている私でもそう思うのだから、間違いないだろう。
「あ、それ俺の参考書」
「え?」
「君が持ってるやつ」
私はさっき180センチさん自身が私に渡してくれてた参考書を見た。
間違いなく私が読んでいた参考書だと思うけど。
「俺も同じの読んでたんです」
180センチさんはそう言って、私の後ろに落ちている全く同じ参考書を取り上げた。
なるほど。同じ参考書を読みながらぶつかったのね、私たち。
ということは。
「C大模試受けるんですか?」
「うん。君も?」
「はい」
180センチさんが微笑む。これは本当にイケメンだ、思わず見とれてしまう。
ガラにもなくドギマギしていると、180センチさんはスマートに参考書を取り替えた。
「お互い頑張ろうね。じゃあ、失礼します」
「は、はい」
もう少し鑑賞させて頂きたいお顔だったけど、残念なことに180センチさんは私に参考書を渡すとさっさと改札の向こうに姿を消してしまった。
ま、今はそれどころじゃない。一つでも多く数学の公式を覚えなくちゃ。
私は懲りずにまた参考書を読みながら改札に向かって歩き始めた。
まさか、これから幾度となく「鑑賞」できることになろうとは思いもせずに。