第1部 第13話
「伴野聖?ああ、さとるのことですね」
ビルに入ろうとする男の人を捕まえて、聖のことを訊ねるとこういう返事が返ってきた。
一瞬意味が分からなかったけど、
なるほど、聖は「さとる」という芸名(?)で役者をやっているということか。
「はい」
「君はさとるのファン?」
20代前半くらいに見える穏やかそうなその人は、別に警戒するでもなくにこやかにそう言った。
って、聖のファンなんかいるの?
私はそんな疑問を飲み込んで、丁寧にお辞儀をした。
「いえ、個人的な知り合いです。本竜桜子と申します」
「あはは、礼儀正しい子だね」
見た目は高校生でも、中身は28歳の大人ですから。
「あいつ、昨日が終業式だったって言ってたから、今日から春休みか・・・ちぇっ、学生はのん気でいいよな」
ほんと、そうですよね。社会人に春休みはありませんもんね。
「さとるは、学校が休みの時は一日中ここで練習してるから、まだいると思うよ。呼んでこようか?」
私は頭の中に時計を思い浮かべた。
多分今、短針が8で長針がてっぺんを少し過ぎたところだろう。
この時間から、いつ練習を終えるとも分からない聖を待つのは、家で家族が待つ高校生にはちょっとキツイ。
でも。
「いえ。結構です。ここで待ってます」
「そう。分かったよ」
男の人は更に柔らかい笑顔になり、ビルの階段を上がっていった。
私はビルの前の歩道にあるガードレールにもたれて、コートの前をしっかりと閉じた。3月下旬とは言え、夜は冷える。
せめてこのビルの出入り口が見える場所に喫茶店でもあればいいのに。
こんなツギハギみたいなビルが立ち並ぶ場所にあるのは、どう考えても高校生なんかお呼びじゃないスナックとかだけだ。
早くも「待ってます」なんて言ったことを後悔し始める。
でも、自分でも理由はよく分からないけど聖の邪魔をしたくない。
あのいい加減な聖が一日中練習しているというのだから、よほどのことだろう。
そんな演劇を聖が辞めてしまった理由がますます気になる。
見上げると、ビルの3階にチラッと人影が見えた。
あれは聖だろうか。
聖がビルを出てきたは、それから1時間ほどしてからだった。
だけど、半袖Tシャツにジャージのパンツという姿から想像するに、ちょっと練習を抜けてきただけのようだ。
おそらく、私に会うために。
案の定、聖は私を見ても驚かなかった。
「何しに来たんだよ。つーか、来たんなら、声かけろ。
都築さんがお前のこと思い出さなかったら、後2時間は待ちぼうけだったぞ」
いつもとは全く違うハキハキした口調で聖がそう言う。
「都築さん?優しそうな男の人のこと?」
「ああ」
どうやらその都築さんが、私が待っていることを聖に伝えてくれたようだ。
いい加減身体が冷え切っていたから助かった。
だけどそんな寒さの中で、聖の身体からは湯気が立ち上っている。
よほど激しく動いて汗をかいたのだろう。
頬も上気していて、なんだか生き生きしていて・・・
ふふふ。こうやって見ると幼いなあ。
一昨日うちに来た時は28歳の聖とあまり変わらないように思ったけど、やっぱり子供だ。
「で、何しに来たんだよ。にやにやしやがって」
「うーん、と」
私は慌てて「にやにや」をやめた。
正直に言うと、私は聖に私との婚約を破棄するように頼みに来たのだ。
もっと正直に言うと「大学生になったら聖は家を出るから、そのまま帰らないでほしい」と言いたいところだけど、それは今高校生の聖に言っても無駄だろう。
「聖は・・・演劇やってるんだ?」
「なんで知ってるんだよ。この場所のことも」
「昨日、たまたまここに入っていくのを見かけたの」
「ふーん」
「ご両親も知ってるの?」
「ああ」
「辞めろって言われない?」
「言われない。どうせ、子供のお遊びだとでも思ってんだろ」
ということは、お遊びじゃないってことか。
「好きなんだね、演劇」
「・・・」
「なんか、意外。聖が劇をやってるのなんて、想像つかない」
「あっそ」
私は聖に言葉を投げかけながら、心地よい違和感を覚えた。
私、今まで一度も聖とこんな風に他愛の無い会話をしたことがない。
それなのに、どうしてこの世界ではこんな風に話せるんだろう。
ノエルと付き合いだしてから分かったことがある。他愛の無い会話って凄く難しいということだ。
だってそれは、親しい者同士にだけ許される行為だから。
家族とか、友達とか、恋人とか。
聖と私は戸籍の上では「配偶者」だったけど、家族じゃなかった。
でも、今目の前にいる聖はなんだか私の知ってる聖とは違う。いつもの聖は、この前うちに来た時も含めて、全てに対して面倒臭いという雰囲気を纏っている。
でも今の聖は、内から溢れ出てくる生命力を一生懸命抑えるために、「面倒臭い」を装ってるみたいだ。
それは目の輝きを見れば一目瞭然で・・・
私はベッドの上で早く退院したくてうずうずしている10歳の男の子を思い出した。
その男の子は風邪をこじらせて肺炎になってしまっていたのだけど、本人は至って元気で、生命力の塊だった。
それなのに無理矢理ベッドの中に押し込まれて、だけど嫌がって大騒ぎできるほど子供でもなくて。
ちょうど今の聖を似ている。
ここは役を演じる場所だけど、聖にとっては本当の自分に戻れる場所なんだ。
「帰る」
「え?」
私がガードレールから腰を外し地面に下りると、聖は少しだけ眉を上げて驚いたような顔にをした。
「練習頑張って。いつか、聖が演じてるとこ見せてね」
聖がまた「面倒臭い」オーラを発する。
でもちょっと照れ臭そうだ。
「なんでお前なんかに・・・それに、だから何しにきたんだよ」
「もういいの。じゃあね」
私は訝しそうにしている聖を残して劇団こまわりの前から立ち去った。
ここは私は私みたいな他人が来る場所じゃない。
そう思った。
そして、本当に「頑張って」とも。