第1部 第11話
ようやくノエルが足を止め私の手首を離したのは、雑居ビルが立ち並ぶ区域を抜けて元の大通りに出たところだった。私はもう一度ノエルに謝りたかったけど、喉がつまって声が出ない。
「これ」
ノエルが俯いている私の顔の下に、葉書くらいの大きさの薄紅色の紙を一枚差し出した。
その声にもう怒りはない。いつものノエルの声だ。
それなのに。
「・・・何よ、これ」
どうして私はこういう時にこういう言い方しかできないんだろう。
つくづく自分が嫌になる。
こういう自分を隠すために私は人付き合いを避けてるんだろうか、それとも人付き合いを避けてるからこういう自分になってしまったんだろうか。
だけどノエルは自己嫌悪に陥っている私に気付いてるのか気付いていないのか、ちょっとイタズラっぽくこう言った。
「さっきの美術館で買った裸婦の絵葉書。あげるよ」
「・・・いらいない」
「あっそ。じゃあ、あげない」
ノエルがあっさりとそれを引っ込める。
何よ。そんなことされたら気になるじゃない。
「貰うわよ」
私はひったくるようにしてノエルの手から紙を奪った。
便箋だ。ノリはされておらず、すぐに開ける状態になっている。
私は何故か偉そうに「仕方ないから見てやるわよ」といった感じで便箋を開いた。
「映画のチケット?」
「うん」
そこにはなんとなく見覚えのあるタイトルが書かれた映画のチケットが2枚、入っていた。
そう言えば昔、こんな映画あったような気がする。
あ、「昔」じゃないか。ここではきっと「今」なんだ。
「それ、本当は昨日渡したかったんだけどさ」
「え?」
「桜子が急に会えなくなったって言うから、一日遅れた。誕生日、おめでとう」
誕生日?
・・・あ。
私はハッとして顔を上げた。
「今日って、3月20日?」
「うん」
「じゃあ昨日は3月19日?」
「うん」
ノエルがちょっと呆れたように笑う。
「もしかして、自分の誕生日忘れてたの?」
「・・・うん。忘れてた・・・」
本当に完全に忘れてた。3月19日は私の誕生日じゃない・・・。
ノエルはまた苦笑いしながら映画のチケットを指差した。
「3つも年上の女の人に何あげたらいいか分からなかったし、プレゼント買うのも恥ずかしかったから、それにしてみた」
そう言うノエルに今度は私が笑った。
そしてそれと同時に、堪えていた涙が何の抵抗もなく流れ出す。
「恥ずかしいって・・・平気で『好き』とか言うくせに・・・」
「それとこれとは別だろ。って、何泣いてるの?」
ノエルが焦ってズボンの上からポケットを触る。
ハンカチを探してるんだろう。
ふふ。ノエルでも焦るんだ。
私はいよいよお腹を抱えて笑いだした。
涙も自然と乾いていく。
「・・・なんなんだよ」
「あはは。ううん、なんでもない。ありがとう、ノエル。凄く嬉しい。今度一緒に見に行こうね」
ノエルは「あっそ」と言って照れ臭そうにそっぽを向いた。
素直なんだか照れ屋なんだかよく分からないんだから。
でも嬉しい。親以外から誕生日プレゼントを貰うなんて初めてだ。
きっと、私が喜ぶようにとあれこれ悩んで選んでくれたんだろう。
その気持ちが何より嬉しい。
そうか。プレゼントってこういう物なんだ。
「行こう」
ノエルが私の手を取った。
そこから温かい体温が流れ込んでくる。
・・・男の子と手を繋ぐのも初めてだ。
私は自分の手の方が熱くなってくるのを止められず、思わず俯いた。
何を中学生に赤面させられてるのよ。
だけど心の中でいくら文句を言っても、顔の赤みは一向に引かない。
それに不思議だ。
私の手は確実にノエルの手より熱いのに、ちゃんとノエルの手の温かさを感じられる。
これが人の温もりってやつなのかな。
聖とは手を繋いだことはないけど身体を重ねたことはある。
だけどそれも結婚直後の数ヶ月だけで、その後は多分聖は適当に外の女と遊んでる。
私は元々そういう欲求が余りないのか、男の人を欲しいと思ったことはない。
聖とのことが「熱い」というより「暑い」という思い出しかないからかもしれない。
「温もり」なんてものを感じることは一度もなかった。
「気持ちいいもんなんだね」
「何が?」
私のすぐ横でノエルが不思議そうに訊ねる。
「手を繋ぐのって、気持ちいいね」
「・・・そう」
ノエルの手がちょっと熱くなる。
面白いなあ。手を繋ぐだけでいろんなことが分かる。
ノエルって結構一歩が大きいんだ、とか、
でも私に合せてちょっと小さな歩幅で歩いてくれてるな、とか、
いっつもちょっと遠くの方を見てるんだな、とか。
「贅沢を言えば、早く私より身長が高くなって欲しいな」
「は?」
「そのくせ歩幅が私より大きいってことは、ノエルの方が足が長いってこと?やだなあ」
「は?」
「頑張って牛乳飲んでね」
ノエルが「何、訳の分かんないこと言ってんの?」とため息混じりのいつもの呆れ口調で言う。
だけど今はなんだかそんなため息さえも心地よい。
「ねえ、ノエル」
「今度は何?」
ふふ。呆れてる、呆れてる。
「私、ノエルのこと結構好きになってきたかも」
「・・・あ、そう」
「何よ、それだけ?」
「・・・」
ノエルは無言だったけど、その手は一段と熱を帯びた。
言葉に嘘はない。
16歳の私がノエルを好きなのか、28歳の私がノエルを好きなのかは分からないけど、「好き」は「好き」だ。
私が誰かに対して「好き」だと思うなんて。
それをこんな簡単に口に出してしまえるなんて。
夢の中だから大胆になれるんだろうか。
それとも・・・ノエルとの時間が私を変えてきているんだろうか。
だけどちょっと赤くなってるノエルを見ていると、さすがに私も恥ずかしくなってきた。
手を繋いだまま一歩大きく踏み出して身体をクルッと反転させ、ノエルと向かい合うように後ろ向きに歩く。
「そうだ!リトルのことだけど、」
「リトル?なんだっけ?」
ノエルが私の肩の向こうをキョロキョロと眺める。
後ろ向きに歩いている私が誰かとぶつからないように見てくれているんだろう。
「リトル・ティーチャー制!新入生の受け入れのことよ」
「ああ、そっか」
「自分から言い出しといて忘れないでよ。ねえ、学園内の地図も必要だけどさ、学園外の地図もあった方がよくない?」
「学園外?」
「うん。コンビニとか薬局の場所とかを書いた地図。駅までの抜け道なんかも書いてあると便利ね」
とたんにノエルの顔がパッと輝いた。
ノエルは色恋話より、やっぱりこういうビジネスチックな話が好きみたいだ。
でも、嫌じゃない。
こういうノエルも好きだ。
「そうだな。電車とバスの時刻表のコピーも載せるといいかも」
「うんうん」
「部活紹介の方もつめないとな。演劇部の舞台準備って、部員だけで大丈夫かな?」
「準備自体は大丈夫だろうけど、演劇部の前に紹介やってる部が、舞台に何か持ち込んでたりしたら、それを片付けるのは私たちがやった方がいいかもね」
私とノエルは手を繋いだまま、どちらが前にいくでも後ろにいくでもなく、横に並んで歩いた。
お互いがお互いのことを思って、少しいつもと違うペースで歩くだけで、こうやって並んで歩けるんだ。
ノエルと一緒にいると、新しい発見がたくさんある。
それはきっと、私が若いうちにしとかなきゃいけない経験だったに違いない。
やっぱりこれは夢ではなくて現実のやり直しだ。
神様からのプレゼントだ。
そう信じたい。
どうかいつまでも、この時間が続いていきますように。
私はノエルの手を強く握ってそう祈った。