第1部 第10話
ここ?
私は閉ざされた扉の前でしばらく固まっていた。
聖が入って行ったのは、
聖を見つけた横断歩道から徒歩10分くらいの怪しげな雑居ビルの2階の一室だった。
一室と言っても、とにかく小さいビルなのでワンフロアに一室しかないから、「一室」とは言わないかもしれない。とにかく聖はそんなビルの2階の部屋に入って行った。
そして私は今、狭い階段を登ったところにある1メートル四方もないような狭い踊り場に立ち、
目の前の扉を見つめている。
もしここがキャッチセールスやテレクラの事務所みたいな所だったら私はたいして驚かなかっただろう。いかにもフラフラした聖にはお似合いの場所だ。
だけど、どうなのよ、これは。
何の冗談?
『劇団 こまわり』
ひまわりじゃなくて、こまわり?
って、そんなことはどうでもいい。
私は、扉に掛けられたお手製の木の可愛らしい看板を、何度も目を擦って確かめた。
でも何度見てもそこには「劇団 こまわり」と書かれてある。
劇団?聖が?
それってつまり、聖が劇をやってるってこと?
それとも、ここに知り合いか何かがいて、遊びに来ただけ?
どちらにしろ、聖が劇団と関係を持ってるなんて話、聞いたことがない。
夢の中とは言え突拍子なさすぎる。
現実の何が影響して、私はこんな夢を見てるんだろう?
それとも・・・これはやっぱり夢じゃないんだろうか。
もうこの夢の世界に来てから半月が経つ。
だけど夢は一向に覚める気配はなく、着実な時を刻んでいる。
私はこのままこの世界で、もう一度16歳からの人生をやり直すことになるのかもしれない。
だけどそれも悪くない。
少なくとも本当の「今」よりはずっといい。
だってノエルがいる。
・・・あ!ノエル!
私はようやくノエルを放ってきてしまったことに気が付いた。
まずい。
戻らなきゃ!
その時、扉の向こうから弾けるような笑い声が聞こえた。
聖の声だ。
さっきド派手な彼女と一緒にいた時のようなフザケタ笑い声じゃなくて、お腹の底から出しているような、本当の笑い声だ。
私は再び金縛りにあったかのようにその場から動けなくなった。
聖が笑ってる。
親の前でも妻の前でも笑うことのなかったあの聖が。
それも本当に愉快そうに。
階段を下りかけた格好のまま、私は穴が開くほど扉を見つめた。
この扉の向こうには何があるんだろう。
どういう世界が聖を笑わせているんだろう。
夢?そう、これは夢なのかもしれない。
だけど「今」聖が笑っているのは事実だ。
そっとドアノブに手を伸ばす。
もしこれが夢ではなく過去のやり直しだとしたら、聖は高校時代にこの劇団に出入りしていたことになる。だけど28歳の聖はこの劇団との関係を断っている。
どうして?
こんなに楽しそうに笑っているのに、どうしてこの劇団へ行かなくなったの?
私がほとんど無意識にドアノブに触れようとした瞬間、ドアノブがカチリと回った。
部屋の中の誰かが回したのだ!
私はまるで感電したかのように、触れたか触れてないかのドアノブから手を離し、転がり落ちるようにして階段を下りた。そしてビルから飛び出でて、そのままビルの壁に背を押し当て息を殺す。かつては白色だったのであろうそれは、今は薄汚れて灰色に変色してしまっているけど気にもならない。
ドアの内側で響いていた笑い声が階段に溢れ出て来て、幾つかの足音と一緒に上の方へと移動して行く。どうやら聖は何人かの人と一緒に上の階へのぼっていったようだ。
バタンバタンと扉を開閉する音が聞こえた。
私は壁から背を浮かすと5歩ほど歩いてビルを見上げた。
3階の窓に数人の人影が見える。
その動きはなんだか普通の動きではなく・・・劇の練習?
じゃあ、やっぱり聖は・・・
「おい!」
突然、右手首を強い力で掴まれて心臓が飛び跳ねる。
「!!!ノエル!!!」
そこには怒った顔をしたノエルがいた。
走ってきたのか、息があがり頬が紅潮している。
ノエルは私の手首を強く握ったまま怒鳴った。
「なんで急にどっか行くんだよ!?ビックリするだろ!」
「ビ、ビックリしたのはこっちよ」
だけどバクバクしてる胸に手を当てそう言いながらも、自分が理不尽なことを言っているのは分かってた。ノエルを置いて勝手に聖を追いかけたのは私だ。
「・・・ごめん」
そう素直に謝ると、ノエルは少し手の力を緩めた。
でも離すつもりはないらしく、私の右手は解放されないままだ。
「こんなとこで何してたんだよ?」
「あ・・・うん、知り合いを見つけて・・・」
仮にも彼氏であるノエルに、「許婚を見つけて」とは言いにくい。
それに、今思えばどうして聖を追いかけてきたのか、自分でもよく分からない。
「ふーん」
ノエルの声にはまだ怒気が含まれている。
私は心臓がつかまれたように苦しくなった。
「・・・ごめんなさい」
「・・・」
どうして黙るのよ。
いつもの調子で「ま、いいけど」って言ってよ。
でないと、仲直りできないじゃない。
私は握られている手首に視線を落とした。
・・・私、何やってるんだろう。
いい大人のくせして自分勝手なことやって、中学生のノエルを怒らせて、「仲直りできないじゃない」なんてノエルの文句つけて。
最低だ。
今までずっと面倒臭いからといってロクな人間関係を築いてこなかったツケが、こんな形でやってくるなんて思いもしなかった。
視界が滲んでくるのを必死に堪えていると、ノエルが黙ったまま、そして私の手首を掴んだまま唐突に歩き出した。私もノエルに引っ張られるようにして足を動かす。
私たち2人は押し黙ったまま、人混みを潜り抜けてひたすら歩き続けた。