第1部 第9話
「変態」
まさに一刀両断の一言で切り捨てると、ノエルは軽蔑したような眼差しを私に寄越した。
「そういう発言をする桜子の方が変態だよ」
そんなことない。
絶対アンタの方が変態よ。
伴野父子の襲来の翌日。
私はノエルと一緒に、前からノエルが行きたいと言っていた美術館へ来ていた。ちょうど期間限定のイベントの最終日で、どうやらノエルはこのイベントに来たかったらしい。
そのイベントというのが・・・
「変態」
私はもう一度そう言って、目の前の肉感たっぷりの裸婦画から目を逸らしながらノエルの脇腹を軽くつねった。
「『裸婦展』!?よくこんなのに来たいだなんて言えるわね!しかも彼女に!」
「俺は別に裸婦に興味あるわけじゃない。この画家が好きなんだよ」
ノエルが裸婦画の脇の小さなプレートを指差す。
そこには私が聞いたことも見たこともない外人の名前が書かれている。
私は小声で「知らないし」と言った。
「俺もちょっと前まで知らなかった。有名な画家じゃないし。でも俺の姉が絵を描くのが好きで、その影響で俺も色んな絵を見るようになったんだ。それでこの画家のことを知った」
「お姉さんが?」
「うん。まあ姉は描くのが好きなだけで、他の人の絵には興味ないんだけどね。
俺は逆に自分じゃ絵なんか描かないけど、見るのは好き」
ふうん。
絵画鑑賞が趣味だなんて、さすが優等生・月島ノエル。
しかもその絵画が裸婦画だなんて、さすが変態・月島ノエル。
「だから。裸婦は関係ない」
「でも、裸は裸じゃない。こんなの普通、中1の男の子が彼女と見ようと思わないよ」
これがもう少し大人になるとそうでもないんだけど。
でもやっぱり、彼女と一緒に裸婦画を見るのはちょっと変じゃない?
しかもノエルは本当に純粋にこの画家が好きらしく、真剣に一つ一つの絵を見て回っている。
ほんと、ノエルって変わってる。
まあノエルがここに来たいと思ってたんだから別にいいけど、初めてのまとなデートがコレっていうのは「彼女」としてはやっぱり微妙だな。
デートっていったら、一緒に買い物したり映画見たりが普通じゃない?
・・・だけど。
良く考えたら私、そんなデートらしいデートなんてしたことがない。
旦那、つまり伴野聖と結婚するまで現実には誰とも付き合ったことがなかったし、聖とも恋人時代なんてなかった。結婚後だって、2人で出掛けたことなんかほとんどない。
そもそも2人で出掛けたいなんて思ったこと自体ないし。
それが夢の中とは言え初めてのデートが裸婦展。
これってどういうこと?
私の深層にある欲求の表れ?
だとしたら私、かなり欲求不満なのね。
私は自分自身に呆れながら、裸婦画に2時間以上囲まれ続けたのだった。
「あー、来れてよかった」
美術館を出ると、満足そうにノエルはそう言った。
珍しく心からの言葉のようで、その表情はとても晴れやかだ。でも。
「あっそ。よかったわね」
私は素っ気なく返した。
「何怒ってるんだよ?」
「別に」
怒ってはない。でもなんとなく面白くない。
何が面白くないのかもわからないけど、とにかく面白くない。
私が無口なまま地下鉄の駅に向かって足を早めると、ノエルはそんな私の微妙な女心が分からないのか、勝手に怒ってろとばかりに私の後ろをついてきた。
私はふと、そのことに違和感を感じた。
ああ・・・そっか。
聖と一緒に歩く時はいつも私が聖の後ろを歩いていたから、こうやって男の人に自分の後ろを歩かれることに慣れてないんだ、私。
背が高くて足の長い聖について歩くのは大変だ。でも聖の後ろにいれば私は歩くペースなんかは考えずに、ただただ必死に歩けばいいだけだから、それはそれで楽だった。
だけどノエルは私の後ろにいる。
私がペースを考えて歩かなきゃいけないんだ。
私はわざと歩く速度を速めたり遅くしたりしてみた。
するとノエルは私との距離が変わらないように、上手に自分のペースを調整してくる。
なんか小癪だ。
よし。みてなさいよ。
青信号が点滅を始めた横断歩道の手前で私は立ち止まった。
ノエルも距離を縮めることなく、私とほぼ同時に足を止める。
信号の点滅の回数を心の中で数える。
1、2、3、4・・・そろそろかな。
点滅が6回目になった瞬間、私は突然ダッシュした。
後ろを全く振り返らず、ひたすら向こう岸を目指す。
そして横断歩道を渡りきったところでようやく振り返ると、行き交う車の向こうにノエルの顔が見えた。
ちょっと呆れたような顔をしている。
ふん。これくらいいい薬よ。
・・・でもちょっと大人げなかったかな。
私は辺りを見回して、横断歩道の脇にあったガードレールに腰かけた。
ノエルは信号が青になったら横断歩道を渡ってやって来るだろうから、ここで待っていよう。
怒ってるかもしれないけど、まあいいや。今のダッシュでモヤモヤしていた気分が少しスッとした。
ノエルが来たら仲直りをして、一緒にご飯でも食べに行こう。
その時、私の目の前を一組の高校生のカップルが通り過ぎた。
制服姿が滑稽に思えるくらい派手でお水っぽい女が、お似合いな感じに派手な男に甘えるように寄り添っている。
そのわざとらしい「ラブラブ感」に嫌気が差して、私は不自然じゃない程度にそのカップルから視線を外した・・・けど。
私は再びカップルに視線を戻した。
・・・聖?
2人は私に目もくれることなく通り過ぎて行った。
私の前では笑顔なんか見せたことのない聖が、大きな声で笑っている。
それは意外な光景であると同時に、「ああ、やっぱり聖ってああいう笑い方なんだ」と思えるような下品な笑い方だった。
笑い声がやたらと耳につく。
私は呆れ返って聖を目で追った。
やっぱり聖は聖だ。
高校生の頃から、ううん、きっと生まれた時からあんな感じなんだ。
2人は私のいるところから数十メートル行ったところで足を止めると、手を振り合って別々の方向に歩き始めた。女の方はそのまま真っ直ぐ駅の方へと向かう。そして聖は脇道へ入って行った。
聖の姿が雑居ビルの狭間に消えるその一瞬前、聖の横顔が見えた。
そこからはさっきまでの人を馬鹿にしたような笑顔は完全に消えていて、何故か物凄く真面目な顔をしている。
その目は真っ直ぐ前を見ていて、どこか輝きさえ帯びていた。
「・・・聖?」
私は思わず呟いて、聖の後を追いかけた。
後ろで歩行者用の信号が青に変わっていることなど、全く気がつかずに。