プロローグ
「おやすみなさい」
彼女は、ベッドの中で既に寝息を立て始めている夫に背中から声をかけた。
返事は期待していない。
それでも「おやすみなさい」と言ったのは返事をして欲しいからではなく、
単なる礼儀というやつだ。
彼女はそうするくらいのマナーは身に着けていた。
相手が誰で、どんな態度を取られようとも、礼を失しない程度のマナーは。
夫は返事とも寝言とも取れるような声で「んー」とだけ言った。
結婚して6年。
結婚当初はこんな風ではなかった。
夫はちゃんとサラリーマンとして働いていたし、
彼女はまだ大学生だったが、少しでも夫の力になろうと慣れない家事を頑張った。
しかしそれは本当に「結婚当初」だけの話で、
「俺にはサラリーマンなんて合わない」と失笑モノの理由で夫が仕事を辞めてニートになり、
大学を卒業した彼女が仕事を始め、すれ違いの生活が続いて・・・
もうずっとこんな感じだ。
夫婦らしい会話どころか、「同居人」としての会話すらない。
夫は彼女の収入をあてにして家でゴロゴロしているだけで、彼女は小言を言うのも面倒臭かった。
何度離婚しようと思っただろう。
それでもそうせずにいるのは、これが親に決められた結婚だからなのか、
単に離婚するのも面倒だからなのか、彼女にも分からない。
まさか夫を愛してるとか?
そんな馬鹿な。
彼女は鼻で笑うと、ナイトテーブルの上に乱雑に置かれているシフト表を手に取った。
明日は、いやもう今日か、7月7日木曜日。開院は9時。
看護士は佐々木、江口、中森、水野。受付は小倉、川原。
医者は楽だと思う。
開院の準備は全部看護婦がやってくれるから、彼女は開院直前に病院へ行き、診察室に入って看護婦たちに「おはようございます」と言われ、椅子に座る。それだけだ。
後は自動的に患者が入ってくるから、機械的に見ればいい。
今までもそうだった。これからもそうだ。
夫との生活も。
彼女はため息をつくのも億劫で、
何も考えずに夫とは距離を置いてベッドに沈み、タオルケットに包まった。
夫は暑がりでいつも寒いくらいにエアコンをつける。
そして冬になれば今度は暑いくらいにエアコンをつける。
その次の夏にはまた寒いくらいエアコンをつけて、冬になれば暑いくらいに・・・
これが後何年続くのだろう。
そんな寒い夏の夜、彼女は夢を見た。
『大きくなったら、結婚しようね』
幼い声がする。
周りは真っ暗で声の主は見えないが、彼女は懐かしい気分になった。
なんだろう、これは。
幼い頃の記憶なのか全くの夢なのかは分からないが、とにかく懐かしい。
彼女は暗闇の中必死に目を凝らして声の主を探した。
『誰?あなたは誰なの?』
しかし声の主はただ笑っているだけだ。
その声に別の笑い声が重なる。
その二つの声は、彼女を残して闇の奥へと吸い込まれていった。
そこで彼女は目を覚ました。
ざわめき。
キーンという機械音。
周囲がやたらとうるさく、そしてやたらと明るい。
目の前を何人もの人が行きかう。
彼女は目の前の光景に愕然とした。