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感想のワゴンセール

掲載日:2026/10/08

デパートに行って何も買えないのも不幸、デパートごと買えるのも不幸。

昔、どこかの本で読んだそんな言葉を、志乃はぼんやりと思い出していた。


けれど、志乃の現実はそんな哲学的な悩みとはまるで別の次元にある。

デパートに行っても、何階に何があるかの看板の文字が頭の中でぐるぐると散らばって読めないし、スーパーのワゴンセールやタイムセールなんて神話の生き物みたいなものだ。狙って行くことなんてできない。志乃の頭の中はいつだって春の嵐が吹き荒れていて、思いつきと衝動だけで右往左往しているからだ。


注意欠陥多動性障害に、識字障害。

文字を読むときは、活字が勝手に躍り出して行方不明になる。

家賃や公共料金の支払いは、見守り支援と財産管理の会社を間に挟まないと即座にライフラインが止まる。通帳を持たせれば落とし、振込用紙を持たせればどこかに消える。

昨日だって、ようやく買ってきたトイレットペーパーをアパートの駐輪場、自転車の前かごに丸ごと置き忘れて部屋に入った。今朝見に行ったら、夜露でぐっしょり濡れて巨大な濡れ紙粘土になっていた。

もう、泣きたくなるくらいむごいのだ。


だから志乃は、どうにもならない現実のことは、極力考えないことに決めている。


オンラインゲームで他人に気を遣う体力もない。だから、朝から晩までキーボードを叩いて小説ばかり書いていた。

文字を読むのは死ぬほど苦労するのに、頭の中に溢れ出してくる映像をキーボードに叩きつけることだけは、なぜかできた。誤字脱字の嵐は音声読み上げと校閲ツールを何往復もさせて誤魔化す。

下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、とはよく言ったもので、とある投稿サイトに毎日書き散らしていた小説が、ある日ふいに日間ランキングの上のほうに載ってしまった。


その瞬間から、世界が反転した。


X(旧Twitter)なら、長年かけて繋がった一万三千人ものフォロワーさんたちがいて、誰が味方で誰がどういう空気なのか肌感覚で分かる。けれど、小説家になろうのような投稿サイトはまだ始めたばかりで、文化も作法もまるで分からない。


画面を開くと、感想欄が燃え盛っていた。

まるで路地裏で大人数に取り囲まれて、袋叩きに遭っているみたいだった。


『設定が破綻してる』

『日本語が不自由すぎませんか?』

『こんなご都合主義でランキング載るとかサイトの恥』

『主人公の行動原理が意味不明。頭悪いの?』


冷たい石のような言葉が、容赦なく画面いっぱいに投げつけられている。

頭が真っ白になって、息がヒュッと喉に張り付いた。

誤字や矛盾がないか、投稿前には何度も何度もAIに読み上げさせて、耳で聞いて確認したはずだった。一日中、何十回も聞き直して、これなら大丈夫、変じゃないって思ったのに。


「びえーん……怖いよぉ……」


声を出して泣きながら、志乃はスマホを敷布団の上に放り投げた。

胃のあたりがキリキリと引き絞られるように痛む。去年の夏、ストレスでやった胃潰瘍の痛みが蘇ってくる。また胃に穴があいちゃうよ、これじゃあ。


逃げるように部屋を飛び出した。

靴を左右逆に履きそうになりながら、アパートの外階段を駆け下りる。


アスファルトの照り返しはもう和らいでいて、夕暮れの風が路地を吹き抜けていた。

志乃はしゃがみ込み、道路のひび割れを見つめた。

コンクリートの隙間から、赤紫色の小さな粒々を集めたアカマンマ――イヌタデが、健気に穂を揺らしている。そのすぐ隣には、金平糖みたいな薄桃色の丸い花をびっしりと咲かせたヒメツルソバが、まるで小さな絨毯のように這い広がっていた。


誰にも手入れされず、名前すらろくに呼ばれない、そこらじゅうに咲いている雑草。


「アカマンマや、ヒメツルソバじゃ……ダメなのかなぁ」


ぽつりと呟いた声が、涙で滲む。


世の中の読者が求めているのは、手入れの行き届いた温室の大輪の薔薇なのだろう。整然としたプロット、完璧な伏線回収、誰もが納得する緻密な設定。

志乃が書けるものなんて、道端に勝手に生えてきたアカマンマやヒメツルソバみたいなものだ。ただそこにあって、不揃いで、強い風に吹かれて揺れているだけの、取るに足らないお話。


でも、と志乃は膝を抱えて思う。

薔薇になろうとしたって、なれっこないのだ。

自分はデパートの高級品売り場どころか、スーパーのワゴンセールにすら辿り着けない、忘れ物と失敗の塊なのだから。


ポケットの中で、スマホが微かに震えた。

また罵倒の通知かもしれないと思うと指がすくんだが、恐る恐る画面を覗き込む。

それは小説サイトの感想ではなく、Xの通知だった。


『志乃さんのなろうの小説、読みました!』


見知らぬアカウントではなく、ずっと志乃の日常の愚痴やつぶやきを見守ってくれていた、フォロワーのひとりからのリプライだった。


『あの、感想欄がちょっと荒れてて心配になったんですけど……私は主人公が転んでも転んでも、わけのわからない草の名前を呟きながら立ち上がるところ、すごく泣けました。文章が少し独特だけど、そのぶん主人公の息遣いがそのまま胸に入ってくるみたいで、大好きです。どうか無理せず、志乃さんの書きたいように書いてくださいね』


スクロールすると、もう一件。


『荒らしはスルーで! ランキングから来ました。勢いがあってめちゃくちゃ面白かったです。更新待ってます』


画面が涙で滲んで、文字がまた読めなくなった。

けれど今度は、活字が躍って逃げていくのではなく、志乃の胸の奥にじんわりと染み込んでいくようだった。


「……そっか」


志乃は手の甲で鼻をすすり、ぐしゃぐしゃの顔を上げた。

デパートを丸ごと買えるような完璧な人間にもなれないし、ワゴンセールで上手に戦利品を勝ち取る器用な人間にもなれない。何をやっても落とし物ばかりして、生きているだけで精一杯だ。


けれど。

道端のコンクリートの割れ目から顔を出したアカマンマを、しゃがみ込んで「可愛いね」と言ってくれる人が、広い世界のどこかに、たった一人でもいるのなら。


「よし」


志乃は立ち上がり、パンパンとスカートの砂を払った。

胃の痛みはまだ完全には引いていないけれど、さっきよりはずっと呼吸がしやすい。


部屋に戻ったら、まず感想欄を閉じる設定を探そう。設定画面の文字が読みにくかったら、誰かにやり方を聞けばいい。

そして、濡れて固まったトイレットペーパーをゴミ袋に突っ込んで、新しいお話を一文字、打ち込むのだ。


高級な花屋には並ばない、誰の目にも留まらないかもしれない、けれど確かにそこに咲いている、志乃だけのアカマンマの花束を抱えて。



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― 新着の感想 ―
アカマンマや、ヒメツルソバ 良いねぇ。 作品読んでくれるのはありがたいけど、心ない書き込みは読みたくないね。 でも、それがネット。 暖かい感想をくれる方もいる。 ただワゴンセールって、どこかで見た…
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