鍵の音を待つ
朝はいつも同じ音で始まる。
彼女が起きて、台所に立ち、湯を沸かす音。
私はその背中を見るのが好きだった。
声をかけなくても、振り向かなくても、
安心できる居場所。
彼女は世話焼きな人で、
仕事の前も、帰ってきたあとも
他の何よりも真っ先に、私に話しかけにきてくれる。
「おはよう!今日も頑張ろう!」
「面白いこと見つけた?」
「危ないところに行ってはだめだよ」
世話焼きというより、だいぶ心配症かもしれない。
最近はよく「無茶しないでね」と言われる気もする。
私のことか、彼女自身のことか……。
昼の時間はいつも静かだ。
彼女が出かけると、部屋は必要な音だけを残して息を潜める。
私は、窓の近くで過ごすことが多い。
日の当たる場所や、外を通る人の気配で時間を測る。
外の世界は近いのに、簡単には触れられない。
それでも眺めていると、ここにいる理由を忘れずに済む。
彼女は最近、よく立ち止まる。
何かを探すように、考えるように、
動きを途中で止めてしまうことが増えた。
身体を丸めると、時間は自然に遠ざかる。
目を閉じて、ふわふわと意識が戻ってきた。
外の明るさが変わっている。
今日は、違う音で目が覚めた。
低く抑えた声。
途切れ途切れに続く会話。
私はその場にいないものとして、
彼女は話していた。
「……大丈夫です」
「検査だけ、って言われてて」
「ええ、少し……少しだけ、入院に」
電話口でそう言っていた声は、
いつもより少しだけ湿っていて、
その分、無理をしているのが分かった。
私は何も聞けない。
ただ、近くにいることしかできない。
仕事で帰りが遅くなった日、
彼女は私の前に来て
いつもより丁寧に、時間をかけて"ただいま"の挨拶をした。
「すぐ戻るから」
その言葉は、約束というより、
自分に言い聞かせているようだった。
数日後、部屋の空気が変わった。
知らない匂いが増え、
彼女の動きは、息が乱れない範囲に収められていた。
大きな鞄が出てきて、
普段は使わないものが詰められていく。
延長コード、小さいポーチ、本……。
私はそれを見ていた。
引き止めることも、細かい話を問うこともできずに。
出かける前、彼女は私の名前を呼んだ。
短くて、呼びやすい名前。
私は返事をしなかった。
できなかった、のかもしれない。
扉が閉まる音を聞きながら、
私はそこに座り続けた。
待つことには慣れている。
たぶん、逃げないための言い訳なのだと思う。
それでも、どうしても手放せなかった。
彼女がいない部屋は、広い。
実際の大きさは変わらないのに、
音が少ない分、余白が増えたように感じる。
朝が来ても、いつもの音はしない。
湯の沸く気配も、足音もない。
代わりに遠くの生活音だけが届く。
私には時刻を知る術がない。
だから光の角度と、腹部の重さで、
一日を区切る。
窓辺は、少し冷たい。
彼女がいた頃は、気にしたこともなかった。
部屋の中を一周する。
触れ慣れた場所ばかりなのに、
使われていないものが増えている。
椅子の背。
ソファの端。
机の下。
彼女がよく立ち止まっていた場所。
そこに立つと、
今も背中がある気がしてしまう。
私は何度か、その場所に行った。
理由は分からない。
ただ、身体がそう動いてしまう。
食べるものは決まった場所にある。
飲み水も減っている。
誰かが来て、用意してくれているらしい。
それでも、彼女ではない。
足音が違う。
声のかけ方が違う。
視線の高さも、違う。
どうしても確かめてしまう。
知らない優しさは、
必要な分だけで、十分すぎるくらい。
けれど、いくつかのことが、
微妙に遅れた。
窓が開く時間。
閉じる時間。
空気が入れ替わる感覚。
彼女は決まった時刻に、
決まった順番でそれらをしていたらしい。
私はそれを、初めて知った。
床に落ちた小さなものが、
そのままになっている。
邪魔ではない。
ただ、気になる。
私は避けるように歩いた。
それだけで、動きが不自然になる。
夜になると、部屋はさらに静かだ。
私は扉の近くで過ごすことが増えた。
彼女の場所に音がない。
当然だと分かっているのに、
耳が何度もそちらを向く。
呼ばれることは、なかった。
待っているわけではない。
そう思おうとした。
けれど、耳は音を拾い続ける。
鍵の気配。
足音の重なり。なにもない。
二日目の終わり頃、
私は少し失敗をした。
ほんの少しの油断で、
いつもなら起きないことが起きた。
高いところに登りすぎた。
降りる時に脚にジーンと痺れが伝わる。
ただ、
彼女がいたら起きなかった、
それだけの出来事。
私はしばらく、その場から動けなかった。
彼女なら、
「大丈夫?」と聞いて、
「無理しないで」と言っただろう。
怖いという感情に支配されそうだ。
私は少しずつ、期待しないことに慣れていく。
それが、この部屋での生き方だから。
三日目の朝、
部屋の空気が少し変わった。
匂いが混じる。
外の気配が近づく。
私は眠っていた。
深くはない。
音があれば、起きられる程度の眠り。
鍵の音がした瞬間、
意識が先に浮かび上がった。
聞き慣れた、間のある音。
急がず、ためらいもない。
私は身体を起こした。
確かめる前から、
それが誰か分かっていた。
扉が開く。
靴の音。
少し重たい足取り。
「ただいま」
声は小さかった。
けれど、確かに彼女のものだった。
私はその場に留まれなかった。
考えるより早く、
距離が縮まる。
彼女は荷物を置いて、
すぐにこちらを見た。
目が合う。
それだけで、部屋がいつもの輝きを取り戻す。
「待ってた?」
そう言って、彼女は笑った。
いつもの笑い方より、
少しだけ弱い。
私は近くに寄った。
触れられる距離まで。
彼女の手が伸びてきて、
頭の上で止まる。
力は入らない。
それでも、
そこにあることが分かる。
部屋の音が、元に戻る。
空気の流れが、正しい位置に収まる。
彼女はゆっくりと腰を下ろして、
私と同じ高さになった。
少し迷ってから、
小さく息を吸う。
「……おいで、澪」
この声を待っていた。
「……んにゃ」
声は、
考えるより先に出ていた。
床を蹴って、
彼女の胸元に飛びこんで額を擦り付ける。
腕が、自然に受け止めてくれる。
ここが、
私の戻る場所だ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。




