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### 第十五章:義務の時間に見つけた、ささやかな色彩
七月の土曜日。大学の集中講義という、抗いようのない濁流が僕の週末を飲み込んでいった。本来なら、まだ微睡みの浅瀬に遊んでいるはずの時間だ。重たい瞼をこすりながら、僕は退屈という名の灰色をした教室の椅子に、深く身体を沈めた。
『科学技術と事業創造』
その講義名は、僕にとって、無味乾燥な時間の同義語でしかなかった。どうせ、社会という名の荒波を乗りこなしてきた大人たちが、自らの航海の記録を自慢げに語るだけの、退屈な時間だろうと。
しかし、その予想は心地よく裏切られた。
教授が語る「遺伝子組み換え」と「ゲノム編集」の違い。今まで僕の頭の中で混線していた二つの言葉が、するすると解けていく。生命の設計図を巡る技術の輪郭が、くっきりと像を結ぶ。その瞬間、灰色の世界に、一滴だけ鮮やかなインクが落ちたような、そんな感覚があった。
この文章も、教授の声をBGMに、誰にも気づかれぬよう書き進めている。義務という名の時間の中で、僕だけのささやかな自由を行使する。
ふと、思考の波は講義室を離れ、全く別の岸辺へと流れ着く。かつて、物語の途中で本を閉じてしまった一冊を思い出す。『コード・ブレーカー 上 生命科学革命と人類の未来』。なぜ今、その名前が浮かんだのだろう。生命の設計図の話を聞いたからだろうか。そんな他愛もない連想が、講義室の窓から見える夏空のように、どこまでも広がっていく。
退屈なはずだった義務の時間は、僕の思考を自由に羽ばたかせる、予想外の滑走路になっていた。
### 第十六章:知的好奇心の羅針盤
講義は続く。企業の名前が次々とスクリーンに映し出され、彼らがどのような社会課題に対し、いかなる科学技術という名の武器で挑んでいるのかが語られていく。それはまるで、現代の騎士たちの物語を聞いているかのようで、素直に面白いと感じる自分がいた。
しかし、僕の心の中では、別の種類の違和感がむずむずと育っていた。
何時間も椅子に座り続けること。この行為自体が、科学的に見て、人間の身体にとって決して良いものではないという事実。目の前で科学の恩恵を語るあの講師は、この矛盾に気づいているのだろうか。この教室から全ての椅子を撤去したい衝動に駆られたことは? 長時間着席し続けることの生理的な気持ち悪さを、感じたことはないのだろうか。そんな、答えの返ってくるはずもない問いが、頭の中をぐるぐると巡る。
そして、もう一つ大きな気づきがあった。僕の知的好奇心という羅針盤は、今まで「心理学」という、人間の内側に向かう方角ばかりを指していたのかもしれない、と。
世界そのものを、もっと大きなスケールで変えてしまう可能性を秘めた科学技術。そちらにも、僕の心を惹きつけてやまない、未知の領域が広がっている。講義を聞きながら、僕は静かに決意していた。もっと学ぼう、と。
その第一歩として、まずは「ゲノム編集」の世界を深く覗いてみることにする。あの日、途中で閉じてしまった『コード・ブレーカー』のページを、もう一度開くことから始めよう。僕の知的好奇心の針が、今、ゆっくりと新しい方角を指し始めている。