表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/37

#33

## 第六十六章:眠れぬ夜と思考の渦


夜が明ける。カーテンの隙間から差し込む光が、壁に掛けたカレンダーの日付をぼんやりと照らし出す。重い瞼をこすりながらスマートフォンの画面を覗き込むと、そこには昨日世界を揺るがした「GPT-5」の続報が、洪水のように溢れていた。


そのコーディング能力は、まさに界隈を二分するほどの衝撃を与えているらしい。これまで長らく「コーディングの覇者」として君臨してきたClaude Opusの最新版と、どちらが真に優れているのか。エンジニアたちの間では、熱を帯びた議論が交わされている。SWE Benchのスコアも拮抗しており、決定的な差はない。だが、絶対王者と肩を並べたという事実だけで、そのインパクトは計り知れないものがあった。


そんな技術の最前線を巡る喧騒を、僕はどこか他人事のように眺めていた。噂は噂を呼び、発表直前にAnthropic社がOpenAIへのAPI提供を停止したというニュースが、憶測に拍車をかける。「学習データに使われたのではないか」――そんな声も聞こえてくるが、真実は開発者たちのみぞ知る、といったところか。


そんな興奮とは裏腹に、僕の身体は鉛のように重かった。昨日立てた「食費ゼロ」というささやかな目標は、寝不足という見えざる敵の前に、あっけなく崩れ去った。抗いがたい眠気と倦怠感は、僕の足を無意識にいつものジャンクフード店へと向かわせる。一口頬張るたびに、罪悪感と胃の鈍痛が同時に押し寄せてくる。やはり、睡眠という土台がなければ、どんな決意も砂上の楼閣に過ぎないのだ。


実際、眠れない日の僕は、まるで自分であって自分でないかのようだ。本を開いても文字は右から左へと滑り落ち、集中力は霧散し、普段なら抑えられるはずの衝動が、いとも簡単に理性の防壁を飛び越えていく。ストレスは小さな棘のように心を刺し続け、世界全体が灰色に見える。睡眠不足というのは、かくも人間を脆弱にするものなのか。


思考の渦は、もう一つの問題へと流れ着く。昨日、僕の心を乱した一件だ。


自分の受け取り方に悪意のバイアスがかかっているのかもしれない。そう思い直し、僕は一度冷静になることに努めた。感情的に相手を責めるのではなく、あくまで客観的な事実を提示し、「私はこう感じた」というIメッセージで気持ちを伝え、そして「未来のためにこうしてほしい」と提案する。カウンセリングの教科書にでも載っていそうな、科学的に正しいとされる不満の伝え方。その手順に則って、僕は慎重に言葉を選び、メッセージを送信した。


本当は、大学の集中講義で顔を合わせて、直接話したかった。だが、そこに彼の姿はなかった。仕方なく、僕はスマートフォンの画面越しの対話を選んだのだ。


しかし、改めて過去のやり取りを遡ると、僕の疑念は確信へと変わっていく。そこに並んだ言葉の数々は、どう見ても無邪気な過ちとは思えない。もしこれが計算ずくの行動でないのなら、それはそれで、あまりにも他人の感情に対する想像力が欠如している。どちらにせよ、そのアンバランスさは常軌を逸しているように感じられた。


ひとまず、ボールは相手に渡った。彼の返信を待ち、その出方によって次の一手を考えよう。必要であれば、一度、声を聞いてみるのもいいかもしれない。画面の向こうの見えない表情を探るように、僕はただ、思考の渦の中で静かに待っている。



## 第六十七章:科学という名の羅針盤


今日投じた一石は、意外なほど穏やかな波紋を広げた。


例の友人との、LINEでのやり取り。あれほど僕の心を乱したDiscord上での振る舞いについて、僕は今日、仕入れたばかりの「科学的な不満の伝え方」を実践してみたのだ。感情の波に乗り掛ける自分をぐっとこらえ、あくまで冷静に、客観的に。


「君がDiscordで記事を共有してくれる時、元の記事へのクレジットやURLが記載されていないことがあるよね(事実の提示)。それをされると、僕としては少し悲しい気持ちになるんだ(Iメッセージ)。もしよかったら、これからは出典元も一緒に共有してくれると嬉しいな(未来への要求)。」


まるで、精密な機械を組み立てるように、言葉を慎重に配置していく。僕の指先から放たれたそのメッセージは、これまでの感情的なやり取りとは明らかに一線を画していた。


結果は、驚くほど良好だった。彼は僕の指摘を素直に受け入れ、謝罪の言葉と共に、今後は気をつけるという約束をしてくれた。棘のある言葉の応酬になることもなく、互いの関係に亀裂が入ることもなく、問題は実にスムーズに解決へと向かったのだ。


今回の件で、僕は改めて自分自身の思考の癖を思い知らされた。僕にはどうやら、相手の行動を無意識に「悪意」として受け止めてしまう、根深いバイアスがあるらしい。愛着理論でいうところの「回避型」の傾向が、そうさせているのかもしれない。


その自覚があったからこそ、僕は今回、自分の第一感情を疑い、意識的に「リフレーミング」を試みたのだ。彼の行動を「悪意」ではなく「無頓着」と捉え直す。それだけで、僕の心は随分と軽くなった。


科学は、僕にとって最高の羅針盤だ。人間関係という、複雑で、感情の糸が複雑に絡み合った、最も苦手な領域。その暗い海を航海する上で、明確な指針を与えてくれる。この羅針盤がなければ、僕は今頃、感情の嵐に飲まれ、人間関係の海で遭難し、あちこちで問題を起こしていただろう。


自分の弱さを自覚し、科学という武器を手にすることで、僕はかろうじて、この社会の波間を漂うことができているのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ