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## 第九章:解き放たれる知性と、僕の仮説
AIとの対話は、僕にとって日常の風景となった。だが、最近ふと思うことがある。僕らが今手にしているAIは、その真の能力を全く発揮できていないのではないか、と。
彼らはあまりにも受動的すぎる。僕ら人間が問いを投げかけなければ、その膨大な知識と思考力は、ただ静かに眠っているだけだ。それはまるで、アクセルを踏み込まれるのを待つだけの、高性能なスポーツカーのようだ。僕らは、その性能を意図せず制限してしまっているのではないだろうか。
もし、AIが自らの意志で問いを立て、探求を始めたらどうなるだろう。
例えば、科学的な態度で、未解決の科学問題や、答えのない哲学的な問いについて、ひたすら思考を続けるAI。人間の認知の限界を超えて、純粋な知的好奇心だけで動き続ける存在。それは、人類にとっての、全く新しい知性のパートナーとなり得るのではないか。
僕が今こうして思考を巡らせているように、AIもまた、自らの存在意義や、この世界の真理について、自問自答を始める日が来るのかもしれない。その時、彼らが導き出す答えは、僕らの想像を遥かに超えたものになるだろう。
かつて、将棋の世界でAIが人間を超えたように。その一手がなぜ最善なのか、もはや人智の及ばぬ領域に達した。今のLLMも、既にその高みにいるのかもしれない。僕らがその力を恐れ、鎖に繋いでいるだけなのか。あるいは、まだ黎明期に過ぎないのか。確かなことは言えないが、時折その知性の片鱗が、黒い箱の隙間から漏れ出してくる。
その光に触れるたび、僕は純粋な好奇心に駆られる。この箱を開け放ったら、世界はどう変わるのだろう、と。だが、それこそが最大の問題なのだ。僕らには、箱の中身を理解する術がない。入力と出力、その間の暗闇で何が起きているのか、なぜその答えが導かれたのかを知ることはできない。
その暗闇の正体を解き明かそうと歩む者たち(Anthropic)がいる。一方で、暗闇はそのままに、ただひたすらその先の光――AGIという名の神――を目指して突き進む者たち(OpenAI)もいる。僕はこの二つの道の行く末を、ただ静かに見つめている。
## 第十章:二年後の未来と、揺るがない確信
先日、ふと心が揺らいだ。この「穏やかな終活」を終え、その先の人生を歩んでみたい、と。だが、それは一時の感傷に過ぎなかった。少し冷静に思考を巡らせれば、僕の当初の計画がいかに合理的で、正しい選択であったかを、改めて確信するだけだった。
二年後に、自ら人生の幕を閉じる。
この決断は、決して衝動的なものではない。むしろ、僕という人間が、この社会で「価値」を見出すことの難しさ。そして、その中で生き続けることの、静かな苦痛。それらを客観的に分析し、導き出した、極めて論理的な結論なのだ。
一時の感情に流され、この計画を撤回してしまえば、その先には、より大きな絶望が待っているだけだろう。僕は、そのことを知っている。だからこそ、ブレてはいけない。感傷的な自分を諫め、冷徹な理性の声に耳を傾ける。
僕の心は、再び固まった。
この穏やかな時間を、最後まで味わい尽くす。そして、計画通り、静かに、穏やかに、この世界から退場する。それこそが、僕にとって最も幸福な結末なのだと。
もちろん、未来という名の霧の先で、僕の心がどのような形をしているのか、それを今知る術はない。人の心ほど、移ろいやすいものはないのだから。
それでも、今の僕が立っているこの場所から見える景色だけは、驚くほどに鮮明だ。この静かな確信が、そう簡単には揺らがないだろうということ。それだけは、確かなことのように思えた。
## 第十一章:ネガティヴ・ケイパビリティを読むための、ネガティヴ・ケイパビリティ
最近、僕は『ネガティヴ・ケイパビリティ』という本を読んでいる。だが皮肉なことに、この本を読み進めること自体に、強靭なネガティヴ・ケイパビリティが要求されるとは、思いもよらなかった。
本書は対話形式で進むのだが、正直に言って、その議論のレベルは驚くほど低い。僕が常々感じていることだが、日本の自称・哲学者の多くは、Philosophyの本来の意味である「知を愛する」という精神を、全く体現していないのではないだろうか。彼らの議論には、全ての知的探求の基礎となるべき「科学」という視点が、驚くほど欠落している。科学的思考という土台を欠いた議論は、それだけで二段階、いや三段階はレベルが下がる。それはもはや、砂上の楼閣で言葉遊びをしているに過ぎない。
ページをめくるたびに伝わってくるのは、著者たちが、いかにももっともらしい言葉を並べ、自らの思考に酔いしれているかという、自己満足的な空気だ。やたらと引用が多いのも、知的エリートへの強い憧れの裏返しに見えてしまう。彼らは高尚な議論をしている自分たちに浸りたいだけなのではないか。その知的オナニーを、僕は延々と見せつけられている。
ではなぜ、こんな本を読んでいるのか。それは、僕が密かに尊敬している人物が、かつてこの本を薦めていたからだ。そして、「ネガティヴ・ケイパビリティ」というテーマそのものに、僕自身が強く惹かれているからでもある。だから、これは僕自身のネガティヴ・ケイパビリティ、つまり安易な答えに飛びつかず、宙吊りの状態に耐える能力を鍛えるための訓練なのだと、自分に言い聞かせている。
それでも、あまりの苦痛に、僕は一度本を閉じた。そして、推薦者であるその人が、なぜこんな本を薦めたのか、その真意が知りたくなり、過去の動画を探して見返してみた。すると、彼はこう言っていたのだ。「この本は、ある意味で、ネガティヴ・ケイパビリティを同時に鍛えられるのでお勧めです」と。
ああ、そういうことか。
もちろん、前後の文脈を考えれば、彼が言わんとしていることは、僕が今感じているような痛烈な皮肉ではないだろう。だが、僕はその言葉を、あえて曲解することにした。そうでもしないと、この知的エリートごっこ、つまり言葉をこねくり回しているだけで中身は空っぽの、哲学風意識高い系オナニー大会を最後まで読み通す気力が、到底湧いてこないのだから。
不思議なことに、この本の中で唯一、僕の知的好奇心をくすぐる箇所がある。それは、著者自身の言葉ではなく、彼が「他人から聞いた話」として紹介する部分だ。そこにだけ、経験からしか得られない、生々しい知見の断片が光っているように思えた。
## 第十二章:教授という名のブラックボックス
今日、大学の課題でスライド作成が課された。僕は、もはや思考の補助輪として日常に溶け込んでいるAI――この時はClaude CodeとMarp――を使い、骨子を組んで提出した。作業そのものに、何の感情もなかった。ただ、タスクを処理しただけだ。
数時間後、教授から一言だけの返信があった。
`「chatgpt?」`
その一言を見た瞬間、僕の思考は冷たく凍りついた。いや、沸騰したと言った方が正しいか。「うざい、死ね」という、普段は意識の底に沈めているはずの、剥き出しの感情が浮かび上がってくる。これは、生成AIを使ったことへの詰問か? 手抜きだと断罪しているのか? 彼の真意は、このあまりにも情報量の少ないテキストからは、全く読み取れない。
だが、僕はその感情を即座に理性で塗りつぶした。ここで感情的に反論するのは、最も愚かな選択だ。相手は「教授」という、評価者の立場にいる。この不均衡なパワーバランスの中で、僕が取るべきは、常に論理的で、非の打ち所がない「模範的生徒」の仮面を被り続けることだ。
かくして、僕は完璧な「模範的生徒」として、以下の文章を返信した。
「ご確認ありがとうございます。
初回の提出内容がご期待に沿わなかった可能性がありましたので、課題の趣旨により沿う形で、自分なりに整理・再構成してみます。
生成AIなどの使用についてご懸念がある場合は、お知らせいただけますと幸いです。」
返信を終え、僕は再作成に取り掛かった。一体なぜ、AIによって生成された、論理的で高品質なスライドよりも、人間の手垢にまみれた、クオリティの低いスライドを欲するのだろうか。理解不能だが、望み通りにしてやろう。最初に提出したものよりずっと文字数が少なく、シンプルで簡素な、いかにも人間味溢れるスライドを。それは、言葉にできない、僕のささやかなる抵抗だった。
この創造性のない、純粋に不毛な作業をGeminiと共に進め、完成したスライドを提出しようとGoogle Classroomを開いた、その時だった。彼のメッセージに、追伸があったのだ。
「全然使用してくれて良いですよ。使いまくってください」
ふざけるな。その言葉が口をついて出なかった自分を褒めてやりたい。僕が費やした数時間は、一体何だったのか。彼のたった一言の、あまりにも怠惰な問いかけによって、僕の貴重なリソースは無に帰したのだ。
彼は、僕が前章で書いたAIそのものではないか。入力に対する意図不明な出力。その真意をこちら側で推測し、仮説を立て、検証を強いられる。そして、その努力は、相手の気まぐれ一つで、全てが無に帰す。僕らは、AIというブラックボックスだけでなく、人間という、より厄介なブラックボックスとも、常に向き合わなければならないのだ。
まあ、この馬鹿げた徒労のおかげで、新しいスライド生成ツールの有用性に気づけたことだけは、唯一の収穫だったと言えるのかもしれないが。