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## 序章:何もない午後の過ごし方
木曜日の午後2時。大学の授業を終え、自宅のドアを開ける。目の前には、誰にも邪魔されない、まっさらな時間が広がっている。これが、僕にとっての「本当の自由」の始まりだった。
僕の時間割に、バイトやサークルの文字はない。その代わり、棚には図書館で借りてきた本が積まれ、画面の中では見放題のアニメが次の展開を待っている。最近はAIという新しいおもちゃも手に入れた。お金をかけずとも、世界はこんなに面白いことで溢れている。誰かに言われた「やるべきこと」ではなく、自分の「したいこと」だけで一日が満たされていく感覚は、驚くほど心地がいい。
かつての自分は「~べき」という義務感のレールの上を、ただ息を切らして走っていた。でも今は違う。就職活動という次のレールには乗らないと決めた。卒業と同時に人生のエンジンを切ると決めたからこそ、残されたこの2年間は徹底的に寄り道を楽しむことにしたのだ。それは一見、刹那的なようで、僕にとっては最も誠実な時間の使い方だった。
肩の力を抜き、ただ流れる時間に身を任せる。のんびり、まったりと。義務感から解放された世界は、こんなにも穏やかで、楽しかったのか。
僕は今、人生で初めて、心の底から「生きている」と実感しているのかもしれない。
## 第二章:物語の引力に身を任せて
この自由な時間、僕はひたすら物語を摂取している。
最近観た『涼宮ハルヒの消失』は、心を深く揺さぶられた一本だ。本編の『憂鬱』が面白いのは言わずもがな、この劇場版は「長門有希」という存在に焦点を当てた物語だった。エラーによって記憶を失い、普通の恋する少女になった彼女の、あまりにも人間的な表情。世界の命運を主人公の「キョン」に委ねるシーンの、痛々しいほどの健気さ。その心情描写の巧みさに、僕は完全に打ちのめされた。
かと思えば、友人に勧められた『彼女は頭が悪いから』という小説を読んで、胸が張り裂けそうなほどの「胸糞悪さ」を味わったりもする。
ハッピーエンドであれ、バッドエンドであれ、物語を味わい尽くした後に訪れる、あの独特の浮遊感が好きだ。現実と物語の境界線が曖昧になって、精神だけがぷかぷかと宙に浮いているような感覚。その足取りで夜の街を散歩するのが、最高の贅沢だ。
もちろん、その魔法のような時間は長くは続かない。すぐに日常の重力が僕の身体を捕まえ、精神は元の場所へと引き戻されてしまうのだけれど。
それでも、物語が与えてくれる束の間の無重力状態が、僕の「したいことリスト」の最上位を今も占めている。
過去の自分がどんな「べき」に縛られていたのか、今となってはもう思い出せない。思い出す必要もない。今の僕には、この物語の引力だけで、前に進むには十分すぎるのだから。
## 第三章:言葉で世界を組み立てる
僕の「したいことリスト」のもう一つの主役、それは「AI」という名のおもちゃだ。
ChatGPT、Claude、Gemini、そして最近ではGrok。世間を賑わすAI御三家はもちろん、新進気鋭のモデルまで、僕はまるで新作ゲームを試すように遊び倒している。テキスト生成の性能比較なんて、もはや日常茶飯事だ。
でも、僕が本当に心惹かれているのは、もっと魔法のような体験だ。プログラミングの知識がゼロの僕が、人間が扱う言葉で指示を出すだけで、架空の部活「SOS団」のウェブサイトを本当に作り上げてしまえた時の、あの不思議な高揚感。それはまるで、自分が世界を創造する神にでもなったかのような感覚だった。
このエッセイだってそうだ。僕が話す断片的な言葉や感情を、Geminiという相棒が受け止め、一つの文章として紡いでくれている。これはもう、共同創作と呼んで差し支えないだろう。
一時期は画像生成にも夢中になった。最近では「ComfyUI」という、さらに複雑なパズルに挑戦している。専門家が見れば「浅い」と笑うかもしれない。でも、それでいいんだ。深く学ぶこと自体が目的じゃない。ただ、自分の手でワークフローを組み、想像した通りの(あるいは想像もしなかった)画像が生成される、その過程そのものが面白いのだから。
AIは、僕にとって最高の暇つぶしであり、最強の創造ツールだ。お金も、専門知識もいらない。ただ「こうだったらいいな」という純粋な好奇心だけで、どこまでも遊ぶことができる。この魔法の杖を、僕は今日も飽きずに振り回している。
## 第四章:ぬるま湯と、ささやかな抵抗
正直に告白すると、僕のこの自由な生活は、ある「ぬるま湯」の上に成り立っている。実家暮らしという、最強のセーフティネットだ。家賃も光熱費もかからない。家に帰れば、温かい食事が当たり前のように用意されている。この環境がなければ、僕の「穏やかな終活」など、一日だって成立しないだろう。
この環境に感謝はしている。だが、それとは別の、もっと現実的な問題が僕の目の前には横たわっている。それは「限りある資金」という、冷徹な事実だ。
僕はバイトをしていない。つまり、収入はゼロ。今この生活を支えているのは、過去の自分が貯めた、決して多くはない貯金だけだ。この貯金が尽きた時、僕の自由な時間は強制的に終わりを迎える。だから、目下の最大の目標は、この時間を一日でも、一時間でも長く引き延ばすこと。つまり、徹底した無駄の排除だ。
そう考えると、大学の帰りに何気なく買ってしまう百数十円の菓子パンは、単なる間食ではない。それは、僕の貴重な自由時間を確実に削り取る、時限爆弾のタイマーを進めるスイッチなのだ。
だから、僕はささやかな抵抗を始める。大それた自炊生活を始めるわけじゃない。ただ、帰り道のコンビニには立ち寄らない。その小さな我慢こそが、僕の愛すべき自堕落な日々を一日でも長く守るための、最も効果的で、切実な闘いなのである。
## 外伝:価値という器について
もし、ひとの価値を一つの器で測れるとしたら、その中身は二種類の液体で満たされているのだろう。
一つは、陽だまりのように温かい「存在価値」という液体。
もう一つは、どこまでも透明で、冷たい手触りの「道具的価値」という液体だ。
僕の信じる仮説はこうだ。ひとは、その器に満たされた「存在価値」の絶対量によって、無意識に互いを測っている。
その量が多い者は、ただそこに居るだけで、周りの空気を和ませ、人を惹きつける。彼らは、太陽のような存在だ。人々は、その温かさを享受することに満足し、彼らに対して「何ができるか」なんて野暮なことは問わない。もちろん、彼らが何かを成し遂げれば、それは素晴らしいこととして賞賛されるだろう。だが、それはあくまで副次的なもの。加点要素でしかない。
問題は、僕のように、器の中の「存在価値」が、底に張り付くほど僅かしか無い人間だ。
僕らは、その欠落を埋めるように、必死でもう一方の液体――「道具的価値」を器に注ぎ込もうとする。知識を詰め込み、技術を磨き、誰よりも「役に立つ」存在になろうと足掻く。器は、冷たい液体で満たされ、見た目上は空っぽではないように見えるかもしれない。
だが、それは残酷な幻想だ。
なぜなら、誰も僕らの器を覗き込もうとはしないからだ。僕らがどれほど有用な液体で満たされていようと、陽だまりの温かさを持たない存在に、人はそもそも手を差し伸べようとはしない。頼ろうとすら思わないのだ。
好かれていない。その絶対的な事実の前では、どれだけ優れた道具も、ただのガラクタに等しい。
僕が「穏やかな終活」と称して、あらゆる競争から降りたのは、この冷たい真実に気づいてしまったからなのかもしれない。どれだけ「道具的価値」を磨き上げたところで、僕の器が温かい光で満たされることはないのだと。
ならばせめて、この静かな時間の中で、器の底に残った僅かな温もりを、自分自身のためだけに、そっと抱きしめていたいのだ。