1話:プロローグ
アルカディア王国の首都ルミナス。その中心に聳え立つ王城から程近い場所に、アルステア公爵家の豪壮な屋敷がある。白亜の壁と青い屋根瓦が、夕陽に照らされて輝いていた。
屋敷の裏手にある小さな庭園。そこに一人の少年が佇んでいた。レオン・アルステア。アルステア公爵家の三男である。
彼は今年で15歳。貴族の子として生まれながら、その姿は華やかさとは程遠かった。色あせた服に身を包み、肩を落とした少年の瞳には、深い悲しみが宿っていた。
「母上...僕はどうすればいいのでしょうか」
レオンは小さな声でつぶやいた。目の前には一輪の白い花が咲いている。それは彼の母が生前最も愛した花だった。
突然、背後から冷たい声が響いた。
「おや、無能くんがまた一人で庭にいるのか?」
振り返ると、そこには長兄ガルドが立っていた。整った顔立ちと鋭い眼光。アルステア家の跡取りにふさわしい風格を漂わせている。
「兄上...」
レオンは小さく呟いた。ガルドの口元が冷笑を浮かべる。
「今日も魔力は出ないのか? まあ、お前如きに魔力なんてあるわけないか」
その言葉に、レオンは顔を曇らせた。アルカディア王国では、魔力の有無が人の価値を決める。そして、レオンには魔力がない。15歳になっても一度も魔力を発現させることができなかったのだ。
「僕だって...」
レオンが反論しようとした瞬間、ガルドの手が彼の襟を掴んだ。
「お前に何ができる? 家族の恥さらしが」
ガルドの目が冷たく光る。レオンは息を飲んだ。
「兄上、やめてください」
突然、穏やかな声が響いた。二人の間に割って入ったのは、次兄のクロードだった。
「クロード兄さん...」
レオンは安堵の表情を浮かべる。しかし、それも束の間だった。
「ガルド兄さん、こんなところで騒ぐのはやめましょう。父上に聞こえたら面倒です」
クロードの言葉に、ガルドは不満そうな表情を浮かべながらもレオンから離れた。
「ふん、無能くんを庇うつもりか?」
「いいえ、ただ不要な騒ぎは避けたいだけです」
クロードは冷静に答えた。その言葉にレオンは再び肩を落とす。クロードは彼を守ってくれたわけではなかった。ただ、不要な騒動を避けたかっただけなのだ。
「レオン、お前はもう屋敷に戻れ。お前の姿を見るのも嫌になった」
ガルドの言葉に、レオンはただ黙って頷いた。彼には反論する力も、逆らう勇気もなかった。
レオンが立ち去ろうとしたその時、遠くから鐘の音が鳴り響いた。
「ああ、もうこんな時間か。今日は父上の誕生日パーティーだったな」
クロードが呟く。ガルドは冷ややかな笑みを浮かべた。
「そうだったな。無能くんは来なくていいぞ。お前がいたら、パーティーの雰囲気が台無しになる」
その言葉に、レオンは何も言えず、ただ顔を伏せるだけだった。
「行くぞ、クロード」
ガルドが言うと、クロードは無言で頷いた。二人は華やかな衣装に身を包み、屋敷の中へと消えていった。
取り残されたレオンは、再び母の形見の花に目を向けた。
「母上...僕はこのままでいいのでしょうか」
答えは返ってこない。ただ、夕風が彼の髪を優しく撫でていった。
パーティー会場は、豪華絢爛な装飾で彩られていた。シャンデリアの光が贅を尽くした調度品を照らし、華やかな衣装に身を包んだ貴族たちが談笑している。
その中心にいるのは、アルステア公爵。50代半ばながら、威厳に満ちた体躯と鋭い眼光は、周囲に畏怖の念を抱かせるに十分だった。
「おめでとうございます、アルステア公爵」
「お誕生日、心よりお慶び申し上げます」
次々と祝辞が贈られる。公爵は満足げに頷きながら、グラスを傾けていた。
その様子を、レオンは会場の片隅から見つめていた。華やかな空間に、彼の存在は全く馴染まない。誰も彼に目を向けようとしない。
(僕は、本当にここにいていいのだろうか...)
レオンは自問する。突然、背後から声をかけられた。
「レオン様、こんなところにいらしたのですか」
振り返ると、そこには年老いた執事のアーサーが立っていた。アーサーは、レオンが幼い頃から彼の世話をしてきた。唯一、レオンに優しく接してくれる存在だった。
「アーサー...」
レオンは小さく微笑んだ。アーサーは優しげな表情を浮かべる。
「皆様がいらっしゃる中、お一人でいるのはよくありません。さあ、私と一緒に...」
その言葉を遮るように、ガルドの声が響いた。
「おや、無能くんがここにいたのか。父上に呼ばれているぞ」
レオンは驚いて顔を上げた。父に呼ばれるなど、めったにないことだった。
「父上が...僕を?」
「ああ。さっさと行け」
ガルドの冷たい目が、レオンを見下ろしている。レオンは不安げな表情を浮かべながら、アーサーに見送られて父の元へと向かった。
公爵の前に立ったレオンは、緊張で体が震えていた。
「レオン」
低く重々しい声。それは、アルステア公爵の声だった。
「は、はい...父上」
レオンは震える声で答えた。公爵の目が彼を見つめる。その眼差しに、温かみは微塵もなかった。
「お前には失望した」
その一言に、レオンの心臓が痛むように締め付けられた。
「魔力もなく、才能もない。お前はアルステア家の恥だ」
周囲の貴族たちがクスクスと笑い始める。レオンは顔を真っ赤にして俯いた。
「申し訳ありません...」
レオンは小さな声で謝罪した。しかし、公爵の冷たい視線は変わらない。
「今日をもって、お前をアルステア家から追放する」
その言葉に、会場が静まり返った。レオンは驚愕の表情を浮かべる。
「父上...どうして...」
「黙れ」
公爵の一喝に、レオンは言葉を飲み込んだ。
「お前は、王家への反逆を企てた。その証拠がある」
公爵は一枚の手紙を取り出した。レオンには見覚えのない文字で書かれている。
「これは...僕の字ではありません!」
レオンは必死に否定した。しかし、公爵は聞く耳を持たなかった。
「お前の部屋から見つかった。反逆者の末路がどうなるか、分かっているな?」
その言葉に、レオンの顔から血の気が引いた。反逆罪は、死罪に値する。
「父上、どうか...」
レオンが懇願しようとした時、ガルドが割って入った。
「父上、このような者を処刑するのは、アルステア家の名を汚すことになります。追放の刑で十分でしょう」
ガルドの言葉に、公爵は一瞬考え込んだ後、頷いた。
「そうだな。レオン、今すぐこの屋敷から出て行け。二度と戻ってくるな」
レオンは絶望的な表情を浮かべた。しかし、誰も彼を擁護する者はいなかった。
「行け!」
公爵の怒号に、レオンは震えながら会場を後にした。
雨が降り始めていた。
レオンは、ずぶ濡れになりながら街を歩いていた。行き先もなく、ただ前に進むだけ。
(なぜ...なぜこんなことに...)
彼の心の中で、悲しみと怒りが渦巻いていた。自分は無実だ。でも、誰も信じてくれない。
突然、後ろから声がした。
「そこの小僧、動くな!」
振り返ると、そこには王国軍の兵士たちが立っていた。彼らの目つきは鋭く、剣を抜いている。
「お、お願いです。僕は何もしていません」
レオンは必死に訴えた。しかし、兵士たちは聞く耳を持たなかった。
「黙れ! お前は反逆者だ。おとなしく捕まれ!」
兵士たちが一斉に襲いかかってきた。レオンは反射的に走り出した。
(どうして...どうして僕が...)
彼の頭の中は混乱していた。雨の中を必死に走る。足を滑らせそうになりながらも、なんとか逃げ続けた。
そして、気がつくと彼は街の外れにいた。目の前に広がるのは、「禁忌の森」と呼ばれる巨大な森だった。
誰も近づかない場所。魔物が潜むと噂される危険な森。しかし、今のレオンには選択の余地がなかった。
「あそこだ! 逃がすな!」
背後から兵士たちの声が聞こえる。レオンは迷うことなく、森の中へと飛び込んだ。
木々が彼を飲み込んでいく。暗闇の中、彼はただ必死に走り続けた。
(誰か...誰か助けて...)
レオンの心の叫びが、闇に吸い込まれていく。
そして彼は、途方もない運命の渦に巻き込まれていくことになる。それが、世界を揺るがす大きな物語の始まりだとは、まだ誰も知らない。
森の奥深く。
レオンは息を切らしながら、ようやく立ち止まった。周囲には、うっそうとした木々が広がっている。月明かりさえ遮られ、暗闇が支配する空間だった。
(ここまで来れば...大丈夫だろうか)
彼は不安げに後ろを振り返る。しかし、追っ手の姿は見えない。ただ、風に揺れる木々の音だけが聞こえてくる。
ホッと胸をなで下ろしたその時、突然、地面が揺れ始めた。
「な...何!?」
レオンは驚いて周囲を見回す。するとそこに、巨大な影が現れた。
月明かりが差し込み、その正体が明らかになる。それは、巨大な岩のゴーレムだった。
「ヒッ...」
レオンは恐怖で声も出ない。ゴーレムは、赤く光る目でレオンを見つめている。
(終わりだ...ここで死ぬんだ...)
絶望的な思いが頭をよぎる。しかし、その時だった。
「レオン・アルステア」
どこからともなく、優しい声が聞こえてきた。レオンは驚いて周囲を見回す。
「誰...誰だ?」
「恐れることはない。我々はお前を待っていたのだ」
その声は、まるで空気そのものから発せられているかのようだった。レオンは困惑しながらも、その声に不思議な安心感を覚えた。
「待っていた...? 僕を?」
レオンが問いかけると、周囲の空気が淡く光り始めた。その光は次第に強くなり、やがて人型の姿を形作っていく。
光が収まると、そこには美しい女性の姿をした存在が浮かんでいた。長い銀髪が風にたなびき、全身が淡い光に包まれている。その姿は、まるで絵本に描かれた精霊のようだった。
「私はルミナ。この森に宿る古代精霊の一柱だ」
ルミナと名乗った精霊は、優しい目でレオンを見つめた。その瞳には、計り知れない年月の重みが宿っていた。
「古代...精霊?」
レオンは困惑しながらも、ルミナの存在に魅了されていた。しかし、すぐに現実に引き戻される。ゴーレムが再び動き出したのだ。
「あ...」
恐怖で声も出ない。レオンは思わず目を閉じた。しかし、予想していた衝撃は訪れない。恐る恐る目を開けると、ゴーレムは静止していた。
「恐れることはない。彼はお前を守るために現れたのだ」
ルミナの言葉に、レオンは驚いて目を見開いた。
「守る...? 僕を?」
「そうだ。我々は長い間、お前のような存在を待っていた」
ルミナの声には、どこか切なさが混じっていた。
「待っていた...? 僕のような...無能な人間を?」
レオンの声は苦々しさに満ちていた。15年間、魔力のない自分を「無能」と蔑まれ続けてきた彼には、自分に価値があるとは思えなかった。
ルミナは優しく微笑んだ。
「お前は決して無能ではない。むしろ、驚くべき才能の持ち主だ」
「え...?」
レオンは困惑した表情を浮かべる。ルミナは続けた。
「お前の中には、古代の魔法が眠っている。現代の魔法とは全く異なる、強大な力だ」
「古代の...魔法?」
レオンは自分の体を見つめた。そこには何の変化も感じられない。しかし、ルミナの言葉は真実味を帯びていた。
「なぜ...僕に?」
「それは運命だ。お前は、この世界を変える力を持っている」
ルミナの言葉に、レオンは戸惑いを隠せなかった。自分が世界を変える? 無能と蔑まれてきた自分が?
「僕には...そんな力はありません。だって...」
レオンは俯いた。これまでの屈辱的な記憶が、彼の心を締め付ける。
ルミナは静かにレオンに近づいた。
「お前の心の奥底を覗いてみろ。そこには、眠れる獅子のような力が潜んでいる」
ルミナの手が、レオンの胸に触れる。その瞬間、レオンの体の中で何かが目覚めたような感覚が走った。
「あ...」
レオンの体が、淡い光に包まれ始める。それは徐々に強くなり、やがて森全体を照らすほどの輝きとなった。
「これが...僕の...?」
驚きと戸惑いが入り混じった表情で、レオンは自分の手を見つめた。そこには、青白い光が渦巻いている。
「そうだ。これが、お前の中に眠っていた力だ」
ルミナの声には、誇らしさが滲んでいた。
「でも...僕には...」
レオンはまだ躊躇っていた。15年間の劣等感は、簡単には拭い去れない。
ルミナは優しく微笑んだ。
「恐れることはない。我々が導こう。お前の運命を、お前自身の手で切り開くのだ」
その言葉に、レオンの心に小さな炎が灯った。希望の炎だ。
「僕に...できるでしょうか?」
「できる。お前には、それだけの力がある」
ルミナの確信に満ちた声に、レオンは少し勇気づけられた。
「分かりました。僕...やってみます」
レオンの声には、まだ迷いが残っていた。しかし、その目には決意の色が宿り始めていた。
ルミナは満足げに頷いた。
「よし。では、お前の旅の始まりだ。古代の魔法を学び、真の力に目覚めるのだ」
そう言うと、ルミナの姿が光の粒子となって消えていく。
「待って! まだ...」
レオンが慌てて手を伸ばしたが、ルミナの姿はすでになかった。しかし、その声だけが残った。
「恐れるな。我々は常にお前と共にある。さあ、お前の物語を始めよう」
その声が、森全体に響き渡る。
レオンは深く息を吐いた。彼の人生は、この瞬間から大きく変わろうとしていた。
追放された無能の少年から、世界を変える力を持つ存在へ。
その壮大な物語が、今始まろうとしていた。
森の奥深く、古代の遺跡が姿を現す。苔むした石柱が並び、風化した彫刻が点在する。そこは、かつて栄華を誇った文明の名残だった。
レオンは、ゴーレムに導かれるようにしてその遺跡に足を踏み入れた。彼の体から放たれる淡い光が、遺跡内を照らしている。
「ここが...僕の修行の場所?」
レオンは不安げに周囲を見回した。ゴーレムは無言で頷き、遺跡の中心へと歩み始める。レオンは、その後を静かについていった。
中心には、巨大な石版が立っていた。その表面には、不思議な文字や図形が刻まれている。
「これは...」
レオンが石版に近づくと、突然、彼の体から放たれる光が強くなった。その光は石版に吸い込まれていくかのようだ。
次の瞬間、石版が輝き始めた。そして、そこから様々な映像が浮かび上がる。
古代の魔法使いたちが、驚異的な力を振るう姿。荒れ狂う自然を鎮める姿。病に苦しむ人々を癒す姿。
そして、破壊と創造を繰り返す世界の姿。
レオンは、息を飲んでそれらの映像を見つめていた。
「これが...古代の魔法...」
彼の心の中に、畏怖と憧れが入り混じった感情が湧き上がる。
映像が消えると、石版から一冊の古い本が現れた。レオンは恐る恐るそれを手に取った。
「古代魔法の奥義」
表紙にはそう刻まれていた。
「これを...学べというんだ」
レオンは本を開いた。すると、文字が光り始め、彼の心に直接語りかけてくるかのようだった。
「さあ、お前の学びの旅が始まる」
ルミナの声が、再び空間に響いた。
「僕に...できるのでしょうか」
レオンの声には、まだ迷いが残っていた。
「できる。お前には、それだけの資質がある」
ルミナの声は、確信に満ちていた。
レオンは深く息を吐いた。そして、決意の表情で本を見つめた。
「分かりました。僕...頑張ります」
彼の声には、かすかながらも自信が芽生えていた。
こうして、レオン・アルステアの、古代魔法を学ぶ日々が始まった。
彼はまだ知らない。この学びが、彼自身を変え、やがては世界をも変えていくことになるとは。
そして、彼を追放した家族や王国に、どのような運命が待ち受けているかも。
全ては、これからだった。