ドワーフのデオドラント③
「……状況を整理しましょう」
眉間を押さえながら、アルマはそう切り出した。
「前回、私がお話ししたことは実践してくれたのよね?」
「せや。体を洗う時の石鹸は泡立てとるし、髪もちゃーんと切ったで」
スズリのその言葉通り、彼女の赤い癖毛はふんわりとしたボブカットへと変わっていた。一週間前に比べて随分さっぱりした髪型は、明るく活動的なスズリによく似合っている。
「みたいね。そのヘアカット、すごく似合ってるわよ」
「なはは、社長さんも上手やなぁ。褒めてもなーんも出ぇへんで?」
スズリは満更でもなさそうに笑って、しかしすぐに困ったように眉尻を下げた。
「せやけど、余計に臭いがキツくなってもてなぁ。今はもう、自分でもはっきり分かるくらいになっとって」
「そこが謎なのよねぇ……」
アルマは難しい顔で考え込む。
聞けばスズリはこの一週間、アルマが教えたことを実践した以外、普段通りに過ごしていたという。状況から考えれば、体臭ケア自体が裏目に出た可能性が非常に高い。
だが彼女が教えた方法といえば、せいぜい体臭ケアのコツ程度のもの。実行に移したところで、『効果が薄い』ならまだしも『体臭が悪化する』とは考えにくかった。
(けど……明らかにこの間に比べて、臭いが強くなってる)
しかしその一方で、スズリの言葉にも偽りはない。
呼吸に少し意識を向ければ、全身の肌が泡立つような、ぷんとした臭いが鼻の奥に流れ込んでくる。口には出さないが、スズリの体臭はこの一週間で間違いなく悪化している。少なくとも、アルマにはそうとしか考えられなかった。
「……カヴィル、どう思う?」
「俺に聞くな。そういう難しい話は専門外だ」
呆れたように言いながら、カヴィルは「ただ」と言葉を続けた。
「少し気になることがある」
「気になること?」
「ああ」
アルマの言葉に頷くと、カヴィルは確かめるようにスンと鼻を鳴らす。空気と共に鼻腔へと流れ込むのは、常人ならば気付かない僅かな違和感。
「こいつの臭い、この前と少し違うぞ」
「臭いが違う? それって単に臭いが強くなった、ってことだけじゃないのよね?」
「ああ。今日のコイツからは、この間とは別の臭いがしてる」
断言するカヴィルに、アルマは問い返す。
「どんな感じに違うの?」
「この間は、そうだな……鼻の奥がズキズキするような臭いだった。けど今は、もっとモヤモヤした臭いだ」
「ズキズキにモヤモヤ……」
キーワードを繰り返しながら、アルマは思考の海に沈む。
犬の獣人種であるカヴィルの鼻は鋭い。アルマには分からないような細かいニオイも、正確に嗅ぎ分けることができる。
しかしニオイに関する専門知識を持たない彼では、そこから先の答えにたどり着くことはできない。カヴィルが嗅ぎつけた情報を推理し、その正体を割り出すのはアルマの役目だ。
(ズキズキ、ってことは何かの刺激臭。ならモヤモヤは……生臭さとか、腐敗臭あたり?)
目をつむり、考えに耽ることしばし。アルマは「なるほど」と静かに唇の端を上げた。
「どうやらこの依頼……かなり大きなヤマになりそうね」
「そうなのか?」
「社長さん、なんかわかったんか!?」
きょとんと首をかしげるカヴィルと、思わず身を乗り出すスズリ。そんな彼らに、アルマは大仰に頷いて見せる。
「そうね。フレフレ社始まって以来の難事件……と言っても過言ではないでしょう」
「ふーん。で、何が起きてるんだ?」
「……」
「……」
沈黙。アルマの頬を冷や汗が伝った。
「……一致団結のときよ、カヴィル。わが社が一丸とならなければ、この事態を乗り越えることはできないわ」
「そうか。で、何が起きてるんだ?」
「……」
「……」
沈黙。アルマの目が泳ぎ始める。
「思えば、あなたとの付き合いも随分になるわね。そう、あれは確か5年前だったかしら。あの雨の日に――」
「で、何が起きてるんだ?」
「…………」
「 何 が 起 き て る ん だ ? 」
有無を言わせぬ圧。アルマはついに顔を背けた。
「一体、何が……起きているのかしらね?」
「いや分からへんのかい!?」
容赦なく叩きつけられるスズリのツッコミに、アルマは「時間を稼げば何か思いつくかと思ってぇ……」と情けない声を上げた。
「で、でもっ! 一つだけ、間違いなく分かったこともあるのよ!」
「もったいぶってないでさっさと言え」
カヴィルが続きを促せば、ふんすと鼻の穴を広げたアルマが自信満々に口を開いた。
「ズバリ、何も分からないことが分かったわ!」
「「……」」
「ちょっ、その残念そうなものを見る目やめて!? これ真面目な話! 真面目な話だから!!」
正面と真隣から、ジットリとした視線が突き刺さる。額に噴き出した嫌な汗をハンカチで拭いながら、アルマは「今回の件だけど」と口を開く。
「まず、相当レアケースなのは間違いないわ。少なくとも私の経験上、こんなことは初めてよ」
「……やっぱり、社長さんにも分からないんやね」
その言葉に、すっかり気落ちしたスズリが呟く。ようやく見えたと思った光明の先に待っていたのは、再び立ち込めた暗雲。
――もう、どうすることもできないのだろうか。
そんな考えが胸の奥から染み出して、スズリの心に広がっていく。空気はしっかり喉を通っているはずなのに、なぜだか息が苦しいような気がした。彼女は喘ぐように、浅く呼気を吸い込んで。
「だから調べてみましょう」
「へ?」
思いがけない一言に、思わず声をこぼした。
「スズリさん、このあと時間はある?」
「あ、はい。ウチは大丈夫、ですけど……」
「そう! ならよかった」
その答えに笑みを返すと、アルマは隣に座るカヴィルに声をかける。
「カヴィル、外回りに行くわよ。準備して」
「了解」
少年は頷くとソファから立ち上がり、事務所の奥へと姿を消した。それを見送って「さて私も」と腰を上げたアルマに、スズリは慌てて声をかける。
「あの、社長さん? 何するつもりなん?」
「もちろん、実地調査よ」
なんてことないようにアルマは答える。
「何が起きているのか分からない。なら、実際に確かめてみるのが一番手っ取り早いと思って……もしかして、迷惑だったかしら?」
「あぁいや、全然そんなことあらへんよ!」
窺うようなアルマに、スズリは慌てて付け加える。
「フットワーク軽いんやなぁって、ついつい感心してもうて」
「むふふ、当然っ。必要なら、自ら現場に足を運んでこそ敏腕社長よ! それに――」
そう言ってアルマは、少女の丸い目を優しく見つめた。
「『貴女を笑顔してみせる』、そう言ったからには労力を惜しむつもりはないわ」
「社長さん……!」
思わず目を潤ませるスズリにウインクすると、アルマは手を差し出す。
「この難題、一緒に乗り越えましょう!」
「ほんま、おおきにっ!」
差し出された手をスズリは力強く握り返した――まだ少女とはいえ、『屈強』で知られる鉱人種が『力強く』、握り返した。
――ミシッ。
「ン゛ア゛ッ」
「あ」
敏腕社長は撃沈した。顧客の握力を見誤ったためである。
「アルマ、こっちは――って、何してんだ?」
「な、なんでもない、わ……」
果たして準備を終えて戻ったカヴィルが目にしたのは、おろおろと右往左往するスズリと、それを宥めながら痛みに震えるアルマの姿であった。
「っそ、それよりカ、カヴィル、っじゅ、準備はできたの……?」
「ああ。一応聞くけど、お前は?」
「ふふふふふ……………………三分まって」
「社長さん、ホントすまん! 堪忍や!」
先ほどとは別の意味で涙目になるスズリを宥めつつ、悶絶すること五分。ようやく回復したアルマは、仕切り直すように口を開いた。
「スゥー、フゥー……よし、完全復活よ。いつでもいけるわ」
「アディショナルタイム二分挟んだけどな」
カヴィルの声を聞かなかったことにしたアルマは、「それじゃあ」と依頼人へと向き直った。
「案内してもらおうかしら、スズリさん。リオネア一忙しいこの街――『エーレ』で、貴女がどんなお仕事をしているのかをね」
☆鉱人種の平均的な握力は大体200kg前後で、リオネアで暮らす人種の中でも5本の指に入るパワー。これより上にはオーク系の野人種や巨人種などがいる。