荒野に響き渡る歌 ── What a Wonderful World
武頼庵様主催『この作品どう?企画』参加作品です。
作中の挿絵はMicrosoft社の『Image Creator』にて生成しました。
じりじりと、肌を焼くような日差しが照りつける。圧力すら感じるほどの暴力的な光から逃れるように廃墟の陰に座り込んだ老人は、ふと思う。
そういえば、セミの鳴く声を聞かなくなってどれほど経ったろうか。
かつてコンクリートに覆われた都会だったこの辺りも、もう無慈悲にはびこり続ける植物に浸食され破壊され、ところどころに廃墟が点在するだけの荒野になって久しい。
手入れされなくなった建造物が朽ちていき、自然がその勢力を回復するようになっても、結局セミは戻ってこなかった。
老人が若い頃は、まだセミの声を聞くこともあった。だが、その頃に比べるとかなり気温が上がってしまい、セミが生きられる環境ではなくなったのだろう。
いや、あるいはセミという種そのものがもはや滅んでしまったのかもしれない。むべなるかな。おそらくは、ヒトという種も遠からず滅びの時を迎えるのだろう。
それも仕方なかろう。ヒトはあの日、ほぼ一瞬にして何千年もかけて貯えてきた『英知』のほとんど全てを失ってしまったのだから。
老人がまだ若い頃、ヒトは文明の絶頂期を迎えていた。
ヒトは、有史以来の英知の全てを『コンピュータ』なるものに記憶させることに成功していた。コンピュータはとてつもなく賢かった。人類の全ての知識を記憶し、さらにそれぞれの知識を掛け合わせてヒトには思いも寄らないような知識を編み出し、ヒトの生活を豊かにすることに大いに貢献していたのだそうだ。
──ところが、それが一日にして消え去ってしまった。
ある日、太陽の表面で突然に巨大な炎が噴き上がった。コンピュータもその現象の可能性には気づいていたが、予測した最大規模の10倍を超えるとてつもない規模だったという。
そして、その大爆発に伴うとんでもない力の『電磁波』が地球に届くと、全てのコンピュータが機能を停止し、死んだ。──ヒトはコンピュータに記憶させていた有史以来の知識のほとんど全てを失ってしまったのだ。
そして同時に、人が生きていくために不可欠な水や電気、ガスなどの供給網も死んだ。
食料の生産も供給もほぼ途絶えてしまった。そして程なく始まったのは、食料や水などの奪い合いと殺し合いの無秩序な日々だったのだ。
──だが、その時点でならコンピュータの復旧はまだ可能だったかもしれない。いくつかの地方都市には、紙の資料を保存する『図書館』がわずかに残っていて、それらの資料を突き合わせればまだ何とかなった可能性があったという。しかし、それらの貴重な紙の資料も、暴徒たちによって煮炊きや暖を取るための燃料として掠奪され消費され尽くしてしまったのだ。
何と愚かな。ヒトは自らの手で、文明を再建する手立てを捨て去ってしまったのだ。
やがて、暴力が支配する時期は終わった。粗暴な者たちは殺し合いによってほとんどいなくなり、老人たちのようにひっそりと息をひそめてやり過ごしてきた者たちだけが生き残った。
──いや、生きているとは言えないのかもしれない。ただ、『まだ死んでいない』だけだ。
辛うじて生き延びた行政機関が、時折思い出したかのように、とうに消費期限の過ぎた災害用の非常食を配って回る。それらや、街を壊しつつはびこる得体の知れない植物の葉や実などで辛うじて命を繋ぐ。
──自ら命を絶つ勇気もなく、老人たちはただ漫然と時を過ごしながら、やがて訪れる滅びの時を待っているのだ。
「──サム爺さん! 何か向こうにヘンなヤツがいるよ!」
そんなある日、老人に異変を知らせてきたのはこの辺りを根城にする子どもたちだった。
「変なやつじゃと?」
『あっちの町外れで、ハイキョの地面をほってたよ』『なんか、うごきもヘンだったんだ』
はて、あんなところに何かあったか? 大規模な食糧庫跡は別の方角だし、昔はただの住宅街だったあたりだ。地下室などから食料が見つかることもあったが、何十年も前に荒らされ尽くしていたはずだ。
そんなところを掘っている者なんて、よほどの変わり者か──?
正直あまり関わり合いになりたくはないが、子どもたちの怯えたような顔を見ては、放っておくわけにもいくまい。
老人は重い腰を上げ、子どもたちにいざなわれてそちらへと向かった。そして、そこには──。
『ほら、爺さん、あいつだよ! 話しかけても、ろくに返事もしないんだ』
そこには、自ら掘った穴に胸ほどまで入りながら、なおも深く掘ろうと淡々と作業をする者がいた。驚いたことに、かなりくたびれたドレスを身にまとった、まだ若い小柄な女性だ。
「おーい、そこの娘さん。そんなところで何を探しとるんじゃ。そんなところに目ぼしいものなんぞ残っちゃおらんぞ」
老人はとりあえず声をかけてみたのだが──いや、違う。あの無駄がなく、ほとんど力を入れていないかのようで、そして何より常に一定のリズムを刻むような動きは──これはまさか⁉
「おい、あんた! あんたもしかしてアンドロイドなのか⁉」
老人が発した『アンドロイド』という単語に反応したのか、ようやくその女性が老人の方を振り返った。──作業の手は止めようとしていないが。
「はい。私は自立型AI搭載汎用アンドロイド、AZBK-011型改。マスターからいただいた個体名は『ミュズ』です」
まさか、全てのコンピュータが死んだはずの世界で、実際に稼働しているアンドロイドがいるだなんて──!
「ミュズ、お前はなぜまだ動いておるんじゃ? あの『電磁波嵐』で壊れなかったのか?」
老人の問いに、ミュズは表情すら変えずに素っ気なく答えた。
「それに関する情報はありません。ですが推察するに、私は電磁波嵐の時にまだ起動しておらず、電磁波による障害を受けなかったのかもしれません。
私が確実に言えるのは、私が電磁波嵐の後にマスターによって起動され、改造を受けた後に、与えられた命令を遂行している、ということだけです」
「そ、それなら、他のコンピュータの復旧も出来るんじゃないのか?
どうか食料を作ることに関する機能だけでも、復旧させては──」
「不可能です。コンピュータに関する知識は、ハード面でもソフト面でも与えられていません。
自分に故障が発生しても、修理することもできないのです」
見ると、ミュズの身体はところどころ人造皮膚が破れ、中の金属部品が剥き出しになっている。
──このアンドロイドは、どれほど長く動き続けてきたのだろう。そして朽ちて動かなくなるまで、恐らくはもう生きていないマスターとやらに受けた命令を、ただ実行し続けるのだろうか。
何てむなしい人生だ。──いや、機械であるミュズはそんな感傷を持ち合わせてはいまい。
しかしそのマスターとやらは、世界に恐らく1体しか残っていない貴重なアンドロイドに、何を探させているのだろう。
それに値するような何かが、こんなところに埋もれているのか──?
老人がそう訊ねようとした時、ふいにミュズの手が止まった。
「見つけました。地下シェルターの入口です」
遠巻きにこちらをうかがっている子供たちに近づかぬように言いつけ、老人はミュズとともに地下シェルターに入ってみることにした。ここまできたら、最後まで見てやろうじゃないか。
「ミュズ、ここは何の施設なんだ? 見たところ、個人用のシェルターのようだが──だいたい、お前のマスターは何者で、お前に何を探させているんだ?」
「ここは恐らく個人用の収蔵庫と思われます。
マスターはアンドロイド工学の研究者でしたが、同時に『古代のアーカイブ』の収集家でした。同好の士たちと連絡を取り合い、時にコレクションを交換したりしていたのです。
私は、その時の配送記録と昔の地図データを頼りに、その同好の士たちの住居跡を捜索しているのです」
そして、ミュズは通路奥の扉のノブを握ってあっけなく引き抜くと、ためらいもなく扉を開けた。
「そして、私が探して集めているのは──『歌』です」
ミュズはそのほっそりとした外見に似つかわしくない怪力で、地下室いっぱいに整然と収蔵されていた『レコード』とやらを何十枚も束にして抱え、何度も地上へと運び出していく。
老人が手伝うまでもない。──というより、とても手伝う気にはなれなかった。
探していたのは『歌』だと? そんなものに何の価値がある! 歌なぞもう何十年も聞いていないが、それで困ったことなどないぞ。
世界に唯一の貴重なアンドロイドに、腹の足しにすらならないものを集めさせて、そのマスターとやらは何がしたかったのだ!
──老人が、やり場のない憤りと重い体を引きずるように地上に這い出ると、子どもたちが恐る恐る近づいてくるところだった。
『サム爺さん、何だよそれ?』『食えるのか?』
「いいや、食えやせん。ただ音が聞こえるだけの、くだらんものだ」
この子たちの親が生まれた頃には、もう世界は悲鳴と破壊の醜い音に溢れ、音楽などついぞ耳にすることはなくなっていた。ましてやその次の世代のこの子たちは、生まれてこのかた歌や音楽など聞いたこともあるまい。
もうここにいても意味はなかろう。ミュズはまたどこかの街へと流れていく、それでおさらばだ。
そろそろ日も落ちかけている。老人が子どもたちに解散するよう促していると、背中からミュズが声をかけてきた。
「お待ちください。私がマスターから受けた命令は、これらの古代のアーカイブに風化しないような処理を施して保管することと──そして、もうひとつあるのです。
それは、行く先々で出会った人々に歌を聴かせることです」
そう言って、ミュズは正方形の厚紙に収められた黒い艶やかな円盤を取り出した。
──やめてくれ、わしは歌なんて聴きたくない! 忘れかけていた、あの豊かで平和だった時代を思い出してしまう──!
もはや取り戻すことの叶わぬものを無理やり思い出させるなんて、あまりに残酷すぎるではないか!
そう文句を言おうとするのだが、妙に喉がひりついて言葉が出ない。
なぜだ、わしは本心では歌を聞きたいと思っているとでもいうのか──!?
そんな老人の逡巡をよそに、ミュズは取り出した円盤をじっと見つめていた。その目が複雑に色を変えながら輝いている。あれで円盤に記録されたデータを読み取っているのだろうか。
「──スキャン完了、データ補正完了。──再生します」
そして、ミュズの背中から天使の翼のような機械が左右に勢いよく広がり、その翼に内蔵されたスピーカーからどこか懐かしい音楽が鳴り始めた。
ごく短い前奏に続いて聞こえてきたのは、お世辞にも綺麗とはいえない、男の野太いしゃがれ声だ。
──ごく当たり前の情景を描いた、どうということのない歌だ。
老人が若い頃に見ていたような自然の情景や、行き交う人々の様子が歌われ、そしてそれぞれの終わりに『何て素晴らしい世界なんだ』というお決まりの言葉が繰り返される。
──冗談じゃない。そんなありふれたものを見て、どうして世界が素晴らしいだなんて思えるんだ?
ましてや、こんな絶望と諦観しかない世界を『素晴らしい』なんて思えるものか!
もう取り戻すこともできない過去のことなど聴きたくない、やめてくれ──!
──それはとても短い歌だった。
だが、初めて歌を聴いた子どもたちの顔は一様に輝いて見える。よほど新鮮な驚きだったのだろう。他にも何か聴かせて欲しいと口々に懇願している。
そして歌を聞き終えた老人もまた、穏やかな心を取り戻していた。
そうか、そういうことなのか──。
老人は今のこの世界が、もう滅びを待つだけの終わった世界なのだとばかり思っていた。だが、あの時代を知らない子どもたちにとっては、この世界は『まだ始まったばかりの新しい世界』なのだ。
あの歌の終盤では、赤ん坊の姿が唄われていた。
その子の輝かしい未来を想像するような言葉が──。
ああ、そうだ。この子どもたちもやがて大きくなるにつれ、より良い暮らしを求めて様々な工夫をこらしていくだろう。
そして親から子へと代を重ねるごとに、その知識も積み重ねられていく。──あの歌で唄われていたように。
人類の英知は、きっとまた、ここから積み重ねられていくのだろう。
ならば、自分はほんの少しの種をまいておこう。子どもたちに、人がかつて農業で食料を作ってきたことを教え、歌が満ち溢れる平和な世界があったことを伝えておこう。
あとは彼らか彼らの子孫が、いつの日にかそんな世界を築いていくに違いない。
そしてきっと、自分にはその光景を見ることは叶わない。まいた種がいずれ色鮮やかに花開くことを夢見て、この廃墟だらけの荒野で静かに朽ち果てていくだけなのだ。
ああ、何て残酷で──何て素晴らしい世界なんだろう。