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女悪魔バビロンと穢れた金杯  作者: 鹿島さくら
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金杯の欠片、覚醒、赤き獣の腕

「姉貴も兄貴もさぁ、俺もう高校生なんだから恋人作ってデートしたり友達と旅行していいんだからな? 留守番くらいできるしさァ」

 何でもない火曜日なのに兄貴と姉貴に連れられて夕飯に焼肉に行った帰り道。口の中でハッカ飴をカラコロ転がしながら両隣を歩く家族に向けた言葉はなんだか不貞腐れたような響きだった。

「なんだ獅文、さっきの話気にしてるのか?」

 見慣れたような懐かしいような団地の黒い影を見ながら、兄貴の問いに俺は「うん」と小さく首を縦に振る。夕飯の席で姉貴と兄貴がそれぞれ職場でお付き合いを申し込まれたが断った……という話をしていたのだ。

「気にしなくていいの。私は獅文(しもん)龍成(りゅうせい)と一緒にいるのが一番幸せだから」

「俺も獅文と紗良さらと一緒にいたくてこうしてるんだぜ」

 8つ年上の双子はにこりと笑う。その顔が昔から変わらない。

「それより、今度のゴールデンウィークは上野の美術館でも行くか」

 元気にそう言った兄貴は笑って姉貴と俺の肩を抱く。こうされると嬉しくて、結局俺は「しょうがないなぁ」なんて言ってしまう。その手の温かさを感じながら、姉弟3人で一緒にいる幸せをかみしめている。ずっとこうしていられたら良い。こんな何でもない静かで幸せな日がずっと続いたら良い。

 不意にドン!と轟音がした。ぐらりと足元が揺れる。

「地震?」

「二人とも伏せて!」

 その場伏せようとしたが、ゴウと吹き付けた強風でさらに姿勢を崩す。風にあおられた街路樹の葉が鳴らす音を聞きながら三人揃ってしりもちをついて空を見上げ、そして見た。

 夜空を引き裂くような二つの黒い影が通り過ぎるのを。

 鳥でもない。コウモリでもない。それよりずっと高いところを飛んでいる。

 飛行機ではない。ヘリコプターでもない。飛行船でもない。それよりずっと生き物じみた形をしている。そもそも、あんなに近くを飛ばない。

 黒い影の片方が長いものを伸ばし、相手にぶつかった。いや、はたいたように見える。

「……姉貴、兄貴、見てるか?」

「うん、見えてる」

「なんだろう、あれ」

 3人で唖然と夜空を見上げている。

 黒い二つの影がもつれ合う。その傍でキラ、と何かが光った。その輝きが次第に大きくなっていく。

「いや、違う……何か落ちて」

 姉貴と兄貴をその場から突き飛ばそうとしたが遅かった。空から落ちてきた輝きは俺たちの胸に触れて消えた。

 気が付けば揺れは止まり、風も収まり、夜空は影一つなく静かに星が光っていた。

「何だったんだ、今の……。おれは平気だけど紗良、獅文、怪我してないか?」

「平気、獅文は?」

「俺も平気。……姉貴、兄貴、とりあえず部屋についたらとっととお風呂入ってゆっくりお茶でも飲んであったかくして寝ようぜ」

 そう言って笑ってみせると「それ最高!」と声を上げたふたりに手を握られて、団地の我が家まで夜道を走った。


***


 何でもない朝。何でもない春の日。何でもない水曜日。

 目を覚ますと昨日の夜見た影は嘘のように思えた。

 いつものように布団を三つ並べた寝室で起きて、いつものように制服を着て、いつものように朝食を食べて、いつものように姉貴と兄貴にハグして行ってきますを言って高校に向かう。

 いつものように教室に入り、いつものようにクラスメイトの大野や宮橋とくだらない話で盛り上がる。途中で「昨日の地震ビビったよな」なんて会話が挟まったが、それも日常の範囲内だ。

 ……多分。

 昨日、空に何か異様な影を見たけれど。

 空から輝くものが落ちてきて、それが体の中に入り込んでしまったけれど。

 でも、今日も何でもない平和な一日。

 そのはずだ。

 たとえ転校生がやってきたとしても。

「実は、突然だが今日からこのクラスに転校生が入ることになった。みんな、仲良くするように」

 担任の中川に連れられて教室に入ってきた美少女に教室が色めき立った。転校生は背筋を伸ばしてゆったりとした足取りで教卓の前に立ったかと思うと、チョークを持ち美しい文字で己の名を黒板に記し、自信に満ち溢れた表情で教室をぐるりと見まわして口をひらいた。

「はじめまして。大門栄華だいもんえいかよ、よろしくね」

 転校生はハキハキした声で名乗り、緩くウェーブした長い黒髪を揺らしてにっこり笑った。

 くぎ付けになった。俺だけではない、男子も女子も関係なく、クラス中の誰もが。  

 美しく愛らしい容姿だけでは説明しきれない妙な存在感があった。背が高い訳ではない。むしろ小柄の部類だ。だが大きな瞳に血色の良い頬やくちびる、そして何よりも堂々とした振る舞いや声色が彼女を目立たせている。

「大門は、あー……高坏たかつき、あの窓際の一番後ろの席の奴の隣に座ってくれ」

 突然担任に名を呼ばれ、我に返った。そういえば隣の席は空いている。目印になるように手を上げると、クラスメイトの視線が一斉に突き刺さった。皆、彼女とお近づきになりたくて仕方ないのだろう。

 それを知ってか知らずか、美少女は変わらず堂々とした動きで席に着くなりこちらに目を細めて笑いかけた。

高坏たかつきくん? どうぞよろしくね」

 長いまつ毛が彼女の茶色い瞳に影を編む。ほっそりした白い手が差し出され、それが握手を求めていると理解して手を握り返すと心臓がツキンと痛んだ。

(昨日の夜と同じところが痛んでる……。病気とかだったらどうしような)

 兄貴と姉貴に迷惑だけはかけたくないよなぁ、と思う。

 大門栄華だいもんえいかが手を離すと痛みは引いて、心臓は何事もなかったようになる。涼しい顔で椅子を引いて座る彼女を見つめていると、教壇に立つ中川が固い声で言った。

「それで、昨日の夜9時ごろにこの辺りで地震があったのはみんな知ってると思うんだが、警察や消防の発表では怪我人やインフラへの損害はなかったらしい。とはいえ、もしもあの地震の影響で住宅への損害や家族やみんな自身が怪我をした場合は明日朝のSHRまでに俺に報告してくれ。では、今朝のSHRはこれまで。1時間目始まるぞ」


***


 放課後になるまで転校生の周りは騒がしかった。休み時間ごとにクラスメイトが大門栄華にしゃべりかけ、大野と宮橋に至っては「あんな美少女の隣の席とかずるいぞ!」なんて言いつつ彼女の個人的な情報を聞き出すように頼みこんでくる始末。教室移動の際には学校中の衆目を集め、昼休みには彼女を一目見ようと学年を問わず生徒が教室に押し掛ける大騒ぎぶり。チャイムが鳴っても大人しくならず、最終的には学年主任がスピーカーを持ってきて全員を教室に帰るように促していた。

 ここまでくるともはや異様だ。不気味ささえ感じる熱狂ぶり。

 確かに大門栄華は美少女だ。スタイルも良い。そんじょそこらのアイドルやモデルなんかよりもよほど目立つ。ただ容姿が秀でているのではない、華があるのだ。

 隣の席の俺としてはこの熱狂ぶりが迷惑であるのと同時に、華があるとはいえなぜここまで皆が必死になるのか、という疑問が生まれてくる。

(美人だとは思うけど……なんていうか、俺にとって一緒にいたくて一番大事にしたいのは姉貴と兄貴だからなぁ)

 そんなことを思いながら教壇に視線を移す。

 黒板の前では古代メソポタミア文明についてひとしきり説明した世界史教師が楽しげにバビロンの空中庭園について語っている。挙句の果てに大真面目な板書の一部をさっさと消して自分が修士論文で使用した楔形文字を書きつけている。それを見て俺は幼いころに姉貴と兄貴に貰った子供向けの世界七不思議の本を鮮明に思い出す。お気に入りだった空中庭園のページは端が破れるほど読み込んでいて、今でも一言一句その説明を諳んじられる。

 隣の席を盗み見ると、頬杖をついて達観したような表情で黒板を見つめていた大門栄華がこちらに視線を向けた。

 どうしたの、と言いたげに彼女が目を細める。長いまつ毛で目元に影ができる。ツヤツヤした赤いくちびるの端が持ち上がる。

 そのひどく優しげで、しかし恍惚とした微笑。とろけたような瞳の色、かすかに開いたくちびるから覗く歯の白色。

 ドクリと己の心臓が強く脈打って痛んだ。

(なんで、そんな表情で)

 俺に笑いかける?

 とたんに居心地が悪くなり、顔をそらす。吐息だけで笑う声が聞こえたのは気のせいと思うことにした。心臓が痛い、よく分からない脈打ち方をしている。今すぐ走り出して叫びたい。

 何でもない俺の水曜日を返してくれ!

 そこからはもう早く教室を出たい一心だ。5限目の世界史、6限目の物理が終わると俺は早々に荷物をまとめ、ショートホームルームが終わると、隣の席に群がる生徒たちとその中心にいる大門栄華から逃げるように学校を出た。

 その足で向かったのはスーパーだ。混雑し始めた夕方の店内を回り、足りない物や頼まれた物をカゴに入れていく。

 バイトはしなくていい、と高校入学前に散々姉貴と兄貴に言われていたが、そのバイトの代わりが家事の手伝いだ。社会人として忙しく働きながら俺に不自由のひとつも感じさせない二人に少しでも恩返ししたかった。

 今日は俺がアスパラベーコンのパスタ作るから夕飯は楽しみにしてろ! 

 行ってきますのハグをしてニコニコしていた兄貴の言葉を思い出しながら野菜コーナーからアスパラを手にして、ついでに隣のキャベツもカゴに入れる。

 スーパーに行くなら何か好きな果物も買ってきて。

 ハグの後に俺と兄貴の頭を撫でた姉貴を思い出して、果物のコーナーを眺める。イチゴ、気の早いサクランボ、伊予柑やはっさくなどの柑橘類。その並びの端にイチジクを見つけて綺麗な実が入っているパックをカゴに入れた。

獅文しもん、これがイチヂクだ。さっき読んだ世界七不思議の本にバビロンの空中庭園ってあっただろ?」

 幼い日の兄の声が蘇る。大きなイチヂクが入ったパックを手にして右隣から俺に笑いかける。両親が死んでから最初に迎えた俺の誕生日の数日後のことだ。

「あの空中庭園に植わっていたって言われている果物だよ」

 左隣の姉貴がそう言って頭を撫でてくれた。

 世界七不思議の本は当時まだ小学生だった俺の誕生日プレゼントに兄貴と姉貴がくれたものだった。その中でも一等目を引いたのがバビロンの空中庭園で、当時高校生だった年上たちはバビロンという都市や古代メソポタミアについておしえてくれた。今思えば当時2人が高校の授業で習ったことだったのだろう。両親が死んですぐ、親戚や弁護士や保険会社の人から出入りが激しく忙しかったころでも2人は俺に愛情を注いでくれた。4個入りのイチジクのパックを買って、姉兄弟3人で1つずつ。最後の余ったひとつを惜しみなく俺に与えた。あの日から姉と兄は俺の親代わりで、イチヂクは二人からの愛情の証明のようなものだ。

 長蛇の列に並ぶ間、単語帳を広げて眺める。セルフレジが導入されたとはいえ、夕方になるとスーパーの店内は客でごった返す。ようやくお会計を済ませて通学カバンの底に仕舞ってあるマイバックに買った物を詰め込るど、スマートフォンの連絡用アプリから姉貴と兄貴と俺の3人構成の家族グループに買い物を終わらせて帰る旨を書き込んで外に出た。

 春とはいっても日が暮れ始めると冷える日もある。中にカーディガンでも着込めばよかったかもしれない、と思いながら慣れた道を歩く。徒歩で通える高校を選んだのは交通費の問題だった。3年間、週5日通うのだから交通費も馬鹿にならない。自宅から一番近い高校が自分の偏差値にちょうど合っていたのは幸運としか言いようがない。

 駐車場の角に植わった桜は若葉が出始めていて、アスファルトに淡い色の花びらが散っている。それを眺めながら歩いていると、ふと子供の泣き声が聞こえた。子供がぐずって泣いているのだろうか、想像に難くない。

(……いや)

 それを宥める親の声が聞こえない。友達にいじめられたのだろうか。周囲を見渡すと、低く沈んだ太陽に赤く照らされた無人の公園のブランコに座っている子供がいた。膝に黒いランドセルを抱えて泣きじゃくっている。

(あの子、一人かな。そろそろ日が暮れるけど大丈夫かな。怪我でもした? 落とし物でもした? 友達と喧嘩? それとも)

 不吉な考えが頭をよぎる。

(親に家を追い出された?)

 昔の自分を思い出して、たまらず子供に駆け寄って声をかけた。

「ねえ、なにか困ってる? 俺にできることある?」

 男の子はびくりと肩を揺らすと恐る恐る顔を上げた。まだ小学校1年生か2年生か、泣き腫らして目が充血している。

「カギ」

 しゃくりあげながら子供は言った。

「カギ、忘れてきちゃって」

「学校に?」

 買い物用のマイバッグを隣のブランコの上に置きつつ、子供の傍に膝をついてしゃがみ込む。幼い俺が泣いているとき、姉貴や兄貴はいつもこうして俺に目線を合わせながら話を聞いて、時には優しい声で叱ってくれた。

 子供は首を激しく横に振った。

「うちに」

「うん」

「それで、うち、入れなくって。友達と、遊んでたんだけど」

 公園の時計を見れば18時を過ぎようかという頃で、もう児童館も学童保育も終わる時間だ。ひとまずスマートフォンの家族グループに帰りが遅くなる旨を短く書き込んで謝罪を添える。夕飯の時間が遅くなることは許してほしい。

「友達、帰っちゃって」

 家に鍵を忘れて閉め出されたことを理解して「うん」と返事しながら子供の背を撫でてやる。俺にも似たような経験がある。その時のことを思い出して、神経を逆なでされるような心地になる。あるいは、腹の底をかき混ぜられるような感覚。それらをごまかすようにブランコに座り込む少年の背を何度も撫でて自分自身を落ち着かせる。

(大丈夫、大丈夫だ)

 背を撫でられて落ち着いたのか、ヒ、とひきつったような呼吸をしながらも落ち着いて少年は言った。

「どうしようって」

 そこで少年は言葉を止めた。

「寂しかったなぁ。お家には誰もいないの?」

 問いかけると、男の子の大きな目が潤んだ。次第に水があふれだして、頬を伝って零れだす。少年はそれを袖でぬぐいながら首を縦に振った。拭っても拭っても涙があふれてとまらず、俺はハンカチを差し出す。

「おかーさん、やきんで」

 やきん。夜勤か、と脳内で漢字変換しながら「うん」と返事して続きを促す。

「おとーさん、今日は帰るの遅いって。10時くらいって」

「そっか。家に誰もいないんだな」

 少年は首を縦に振った。

 夜勤のために遅く出勤した母親が家の鍵を閉めたが、小学生の彼が肝心の家の鍵を持ち出し忘れていて締め出された……ということで間違いないらしい。

(虐待とかじゃない。ただ家に鍵を忘れて締め出されただけだ、大丈夫)

 自身に言い聞かせながら胸を撫でおろすが、いずれにせよ家に入れないのは不安だろう。少年の背をポンポンと軽く叩いて問いかけた。

「近くに知り合いとか親戚のおうちはある? おじいちゃんとかおばあちゃんとか」

 子供はしゃくりあげながら首を横に振った。なんとなく予想できた反応だったので、そのまま努めて明るい声で言った。

「じゃあ、これから俺と一緒に近くの交番まで行こっか」

 少年は顔を上げてその顔を曇らせる。目にはまた涙の幕が張る。

「これからどんどん暗くなって危ないから。それに昨日の夜地震があったし建物の中にいた方が良いよ」

 なるべく優しい声で言うと子供は首をおずおずと縦に振った。

「君が一人でおうちの前でお父さんやお母さんを待ってたら危ない人に誘拐されるかもしれないし、自信が来た時には建物の中にいたり、近くに大人の人がいた方が安全だから、お父さんやお母さんが帰ってくるまで交番でまっていよう。俺は君が怪我したり怖い目にあってほしくないんだ」

 立ち上がり、ランドセル姿を抱えた子供に笑いかけ、静かに、けれど笑顔で言う。

「俺が一緒に交番までついていくから、大丈夫」

 少年は涙をこらえて「うん」と返事した。

 彼がランドセルを背負って公園の水道で顔を洗う間、スマートフォンの家族グループに交番まで付き添う旨を書き込む。兄貴と姉貴からの返信はまだないが、とりあえず子供相手に宣言した以上最後までやり遂げるべきだと自分に言い聞かせてブランコの上に置いていたマイバッグを掴み上げた。


***


 ようやく団地が見えてきた頃にはすっかり日は沈んで夜になっていた。

 あの後スマートフォンで近くの交番を探し出し、運よく警察官がいたので事情を説明した。男の子がランドセルの中身をひっくり返した時に家族への電話番号を書いたメモが出てきて、無事に保護者に連絡をつけることができた。交番を出ようとすると男の子に「一緒にお父さん待って」と制服の裾を引っ張られ、結局空腹を訴えた彼にスーパーで買ったイチジクを洗って渡した。連絡を受けた少年のお父さんは大急ぎで息子を迎えに来て、俺はずいぶん感謝されて恐縮してしまった。

「迎えに来てくれてよかったなぁ」

 涙目になる父子を微笑ましく思いながら息子の方に声をかけると満面の笑みで「うん!」と返事があった。

「本当に息子がお世話になりました。なんとお礼を言えば良いか。私が来るまでの間この子の相手もしてくれて……」

 大人に頭を下げられるのに慣れていないせいで、こちらも頭を下げてとりとめもないことを言う。

「いえ、いえ、俺も昔こういうことあったので。暗いところで一人は怖いですから」

 そう言った途端、なんだか急に姉貴と兄貴に会いたくなって、俺は挨拶もそこそこに交番を後にした。

 夜の住宅街を風が強く吹き抜けていく。確認したスマートフォンには姉貴と兄貴からの褒め言葉がずらりと並んでいて気恥ずかしかったが、一番うれしかったのは「迎えに行くね!」のメッセージだった。本当は断っても良かったが、何となく早く二人の顔が見たくて「お願い」と返事した。

 団地の入り口に立った街灯の下に見慣れた人影が二つ並んでいる。こちらに向かう見慣れた二人に、足は自然と走り出す。

(姉貴と兄貴が迎えに来てくれた!)

 いつだって嬉しかった。二人が迎えに来てくれること。

 まだ保育園に通っていた頃、仕事で忙しい両親の代わりに中学生だった二人が学校帰りに迎えに来てくれた。帰り道、俺の手を握って俺のつたない話を聞いてくれた。

 小学校の林間学校が終わった時に、小学校の校門前に当時大学生だった二人が迎えに来てくれた。帰り道、俺の荷物を持ってくれて、思い出話を聞いてくれた。

 中学時代、気難しい親戚に家から閉め出されたときに大学を卒業したばかりの2人が迎えに来てくれた。懐かしん団地への帰り道、俺の冷えた手を握って今日から3人で一緒に暮らそうと言ってくれた。

 大きく手を振る。

「迎えに来てくれて、」

 ありがとうと言おうとした瞬間、ゴゥと強く風が吹いた。髪の毛がバサバサと音を立てて視界が遮られる。ふたりの姿が見えなくなる。

 ズシン、と音を立てて大きく地が揺れた。 

「姉貴、兄貴!」

 昨日の地震を思い出して二人の安全を確認しようと顔を上げ、そして見た。

 街灯に照らされながら二人の背後に立つ「何か」の姿を。

 「何か」。そうとしか言いようがない。街路樹の桜の木に並ぶほどの巨体、地に立つ身体を支える脚は6本、紫色の皮膚は所々が膨れ上がり生理的嫌悪を感じさせる。背と思しき部分には灰色の膜のようなものがかぶさっている。尾と思しき二本組の器官はつるりとした質感の鮮やかなエメラルドグリーンで、先端には鋭いトゲがびっしりと生えている。尾の対角線上、長い首の上には蠅を思わせる小さな頭が乗っている。

 表すのなら異形、あるいは異様。例えるならば怪物、あるいは。

 あるいは――……。

(悪魔だ、あれは)

 確信じみた予想に脳内で言葉を与えるとド、と心臓が強く素早く脈打ち始める。脚を動かそうとするが蠅のような目に睨まれ、ビシリと身体が固まる。その間、悪魔は尾と思しきものを掲げ、二人の背に押し当てた。

 夢幻とも思しい光景。

 鮮血。

 身体。

 貫通。

 無限にも等しい静寂。

 戦慄。

 苦悶。

 脂汗。

 夢現のような感覚は、たおれた二人の唇が「逃げて」と蠢くかたちで、魔法が溶けたように霧散する。

 とたんに心臓が痛んだ。アスファルトに膝をつく。手にしていたマイバッグも地面に落ちて、イチジクがこぼれ出て転がっていくのが視界の端に見える。脚が震えて固まったように動かない。鉄臭いにおいがして全身が強張る。

 悪魔が背に乗った灰色の膜を広げてそれを細かく震わせた。半透明の羽である。

「杯を寄越せ」

 そこからザラザラとした音が発せられた。

「あ、あー、聞こえているか? 人間の言葉はこの音で合っているか?」

 独り言のように悪魔は音……否、声を発する。

(さかずき? そんなもの、持ってない)

 地面にうずくまって黙り込む俺を気にした風もなく悪魔はしゃべる。

「オレは杯、杯を探しているんだ。金色にピカピカ光る、尽きることのない魔力が入った杯だ。あのアバズレ女が失くして久しいが、これがついに見つかった。俺たちにとっては喉から手が出るほど欲しい代物なんだが、さて、ここら辺にあるか……」

 魔力だとか杯だとか、痛みのせいか、何を言っているのかよく分からない。

 悪魔は半透明の羽を震わせながら、真っ赤になった二本の尾で二人の胸の中心をまさぐる。街灯に照らされて時折鮮血の下のエメラルドグリーンが怖いくらいにピカピカと光っている。

「杯は……こっちか? いや、こいつにも……なんだ? 杯がいっぱいある?」

 悪魔は蠅頭をひねり尾を動かしている。霞んだ視界で姉貴と兄貴が弱弱しく瞬きしているのが見えた。

(ダメだ、それ以上は。姉貴と兄貴が死んでしまう。動いて、あいつから引き離して)

 心臓を撫でられるような感覚に身体が震わせながら声を絞り出す。

「姉、貴。兄貴、も」

 アスファルトに手をつきながら身体を起こす。視界の端でイチジクがつぶれずに転がっている。

 向こう側で、悪魔は尾を動かすのをやめてこちらに目を向けた。

「いま、俺が迎えに行くから」

 立ちがろうとする身体が熱い。耳の裏から発火しているような感覚、汗がうなじを伝って落ちていく感覚が不快だ。

 己の内側で痛みながら脈打つ心臓のテンポを全身で感じている。

 バクンバクンと打ち鳴らすその強さを全身で感じている。

(身体が内側から破裂しそうだ……)

 立ち上がり、震える脚を動かす。

(失って、たまるか。あの人たちを。俺の大事な人たちなんだ、俺を迎えに来てくれた)

 引きずるようにザリザリと音を立てながら歩く。悪魔は蠅の顔でこちらを見つめててから再び灰色の羽を細やかに振動させた。

「動けるのか、オレの目で見つめられて。これは……面白い! いや、それだけじゃねぇ。オマエの中にも……」

 半透明の灰色の羽が振動をやめる。大きく広がり、その巨体がふわりと浮き上がって。

「あるじゃねぇか、オレの杯!」

 急降下。血濡れの尾がまっすぐに俺の胸を狙っている。

(死――……)

 あまりのスピードに避ける暇すらない。目を見開き、しかし次の瞬間に俺は「あッ」と声を上げた。

 俺と巨大蠅の間に割り入った人影は鈴を転がすような声で言い放った。

「私の杯よ」

 白い手が伸びてエメラルドグリーンの血濡れの凶器を掴み上げる。夜風になびくのは緩くウェーブした黒髪。見慣れた制服の赤いリボンと黒いスカートをはためかせて彼女は言った。

「太古の昔、人間が天にも届く塔を作り始めるよりもずっと昔、人間が文明をいうものを手に入れて“私”が生まれた瞬間から」

 その光り輝くような顔貌。自身に満ち溢れた笑み。長いまつ毛に縁どられてギラギラと輝く金の瞳。

 見間違えるはずもないその容姿。

 転校生、大門栄華だいもんえいか

「この杯は私のものよ」

 転校生は朗々とした声で宣言し、目を細めくちびるの端を吊り上げた。血濡れの白い手でつかんだ尾を強く引き、蠅の巨体を引き倒す。アスファルトに倒れこんだ小さな頭を踏みつけると優雅な動きで大門栄華はこちらを振り返った。

「迎えに来たわよ、私の杯」

 血で真っ赤になった手が胸の上にかざされる。その手を掴んで俺は叫んだ。

「杯でもなんでもくれてやる、だから姉貴と兄貴を助けてくれ!」

 その手を引いて街灯の傍に倒れこむ二人に駆け寄る。ちょっと、と後ろで戸惑ったような大門栄華の声がするがそれに構ってはいられなかった。

「兄貴、姉貴、返事してくれ!」

 二人を抱き起して声をかける。貫通した胸の向こうに自分の腕が見える。掌にぬるつく血の感触がある。

「ふたりとも、頼むから」

 声が震える。自分の身体が熱く、掌の血の感触にごまかされて、彼らの身体が温かいのか冷たいのかもわからない。

「ああ、そうか、救急車」

 おぼつかない手はポケットの中のスマートフォンを取り損ねる。けれど地面についとする前に大門栄華がそれをキャッチした。まばたきひとつせずこちらを見つめる金色の瞳が言った。

「その必要はないわ」

「え?」

「無限の魔力を供給する私の金杯の一部を心臓に保持している限り、この程度の怪我で死にはしないわ」

「“この程度”だと?! だって、もう二人とも」

「ちょっとどきなさい。ふたりとも突然のことにびっくりして意識を失っているだけよ」

 大門栄華は俺を押しのけて兄貴と姉貴の傍にしゃがみこみ、彼らの胸の中心にぽっかりと空いた穴に両の掌をかざした。途端に二人の胸の穴はほのかに金色の光を発した。空いた胸の中で千切れた血管が伸び、それに合わせて空洞がじわじわとふさがり始める。

 血の気を失っていた頬にわずかに血色が戻り、血に濡れたくちびるから懐かしくささやかな声がした。

「……獅文しもん? 怪我、してない?」

「逃げなかったのか? 優しいなぁ」

 生きてる。生きている! もうだめかと思ったのに、姉貴も兄貴も生きている! どんな反則技の結果であっても二人とも生きている。どんな奇跡の前借りであっても二人とも死んでいない。彼らを抱きしめると、苦しいのか耳元で困ったように笑う吐息が漏れてそっと背のあたりを叩かれる。

「本当に良かった……。でも、なんで」

「魔力、すなはち生命力を供給する金杯の一部を心臓に保持していたうえで、怪我は胸の中心部、つまり心臓をわずかに逸れていたからよ」

 大門さんが淡々と言うと、背後でザラザラした声が「ふゥん」と言った。

「なる、ほど、なァ」

 振り返ると、すぐそばに倒れていた蠅のような悪魔がゆっくりと立ち上がって灰色の半透明の羽を広げていた。

「それで死んでないわけだ。ああ、でも人間のちまっこい身体からカスみてぇな破片取り出すのも面倒くせぇ。最初からこうすればよかったんだなぁ」

 ブォンと空を切る音がして、次の瞬間にはふわりと浮くような感覚があった。景色が回転する様に目を白黒させているうちにアスファルトに倒れこむ。弾き飛ばされたのだと分かるには時間がかかった。少し離れたところで大門栄華も同じように倒れていて、しかし彼女はサッと立ち上がると悪魔に向かって駆け出した。俺もつられるように走り出す。

「待ってろ、二人ともいま俺が!」

 手を伸ばす。けれど、その指先をゴゥ、と音を立てて炎がかすめた。悪魔の皮膚の腫れあがった部分がパチンと弾け、そこから一斉に第二陣の炎が放出される。すぐそばに迫る熱気に思わず顔をそらすと、頭上に影が落ちた。

「人間ごと食らってやる」

 顔を上げて、目に飛び込んでくるのは悪魔の腹にある一本の大きな線。それがパクリと楕円に開いた。それは穴、黒々とした闇の渦、ギュウギュウと奇怪な音を鳴らす悪魔の口。蠅は2本の紫色の後ろ脚で身体を支え、4本の前足を上げている。ちょうど、かの有名なナポレオンの肖像画の馬のようなポーズ。ギュワワ、と音をたてて口はより一層に大きく広がりそのまま4本の足がアスファルトに降りる。黒い穴が姉貴と兄貴にのしかかる。

「放せ!」

 ふらつく足で駆け出した。その俺の横を、黒髪をなびかせながら一陣の風のように駆け抜けて大門栄華は悪魔の口に手をかけた。

「放しなさい、それは私の杯よ!」

 だが、黒く渦巻く口はその闇の中に二人を収納して閉ざされていく。

「ハ、天下のアバズレもご自慢の金杯を失って赤き獣まで喪っては本来の力は出ないよなぁ。ほらほら、そのまま手を突っ込んでたら指が千切れるぜ?」

 蠅は半透明の羽をゆすってせせら笑った。だがそんな訳の分からない蠅の言葉には構っていられなかった。

「二人を離せ!」

 悪魔の口を開かせようと、大門栄華がなんとか維持しているそのわずかな穴に手を突っ込む。どろりとした感触が指先を覆い、ビリビリとしびれた。

「っ、なんだ、これ」

「人間が何をしているの!」

 横で大門栄華が悲鳴じみた声を上げた。

「うるせぇなぁ、クソ女!」

 ビュンと鋭い音でエメラルドグリーンの尾がしなって隣にいた大門栄華が吹っ飛ばされる。

「くそッ、兄貴と姉貴を離せよ! 大門さんも、」

「ハ! 非力な人間のあがきも愉快だな」

 収縮しようとする穴に手が引っ張られ。しびれた指先でその黒い穴の淵を必死に掴む。足元でアスファルトをザリザリと鳴らして腕に力を籠め、そのたびに手が汗でぬるついて仕方ない。

 長い首がぐいんと俺の真正面に降りてきて、その先端に就いた小さな蠅の顔が嗤った。口もない顔だが、確かにそれは嘲笑っていた。

「ホラ、そろそろ諦めるか?」

 半透明の羽が不快な嘲笑を上げる。

「諦める、もんか。兄貴と姉貴を助けるんだ、今度は俺が」

「無駄、無駄だ、人間ごときのあがきでは! ちっぽけな人間が悪魔に勝てるとでも思ってんのか?」

「やめなさいな、あなたまで死ぬつもり?!」

「ほら、あのアバズレまで言ってるぜ」

 バシンと音を立てて緑の尾が大門栄華をアスファルトに何度も打ち付ける。彼女の白い制服の胸元に赤い色が垂れている。ザリザリと耳障りな音の嘲笑が耳をつんざく。鈴を転がすような声が遠くに聞こえている。

「救えねぇよ、お前のようなちっぽけな人間ごときには!」

 脳が攪拌されるような感覚。それでも手だけは必死に穴の淵を抑え、けれど次第に腕ごと穴の中に入っていく。

「おいおい、まさか自分が英雄になれるとでも思っているのか?」

高坏たかつきくん、いくら金杯の足の部分があなたの心臓にあると言っても取り込まれたら死ぬだけよ! 早く離れて!」

「アハ、お前も無様だなぁ、アバズレ! オレごときにここまでされて!」

 緑色の尾が勢いよく飛び出してトドメとばかりに大門栄華の腹を貫いた。

 音がうわんうわんと反響している。

「無駄、無駄だ、人間は悪魔という強大な力を前に屈服する! 否、悪魔でさえ!」

 エメラルドグリーンの尾は再び鮮血に濡れながら大門栄華を串刺しにした彼女の身体を高々と掲げた。街灯に照らされて、ポタポタと頭上から滴り落ちる彼女の血は見たこともないほどに鮮やかな赤をしていた。

「かつて天使族相手にただ一騎戦いを挑んだあの大いなるバビロンでさえこのザマだ!」

(天使族? 大いなるバビロン? 何のことだ?)

 ……嗚呼、五月蠅うるさ

「お前たちはここで死に絶える!」

(死ぬ? みんな? どうして死なないといけないんだ。) 

 ……知ったことか。もう黙ってくれ、五月蠅うるさいんだよ。

「お前も黙って喰われろ! 見ていろバビロン、お前の一部が略奪されていくのを、なす術もなく!」

(バビロン、古代都市の名前? ああ、それにしても)

「……五月蝿うるさい」

「穢れた金杯を手にし、魔界を修め人間界を凌辱するのはこのオレだ!」

五月蝿うるさいッ! 天使も悪魔も杯も古代都市も知ったことか!」

 ピクン、と指先に温かなものが触れる。

 ドクン、と心臓が強く脈打つ。

 ピカリ、と胸元が金色に輝く。

 キラリ、と見上げた先で大門栄華の瞳が輝く。

「うおぉぉぉぉッ!」

 己の口から咆哮がほとばしる。自分の声とは思えなかった。胸元の輝きはさらに強くなって、それに応えるように閉ざされかけた悪魔の口からも金色の光が漏れ出して、それらは合わさり、重なり、光の奔流となってあふれ出す。闇に飲み込まれた手に力がこもる。その勢いと力に任せてさらに腕に力を込めた。

「な、なにッ?! なんだこの力は!」

 蠅は羽を大きく広げて巨体を空に持ち上げる。

 腹部の渦から抜け出した己の両腕は、鋭い爪の生えた赤い獣の手の形をしていた。何が起きているのかは分からない、だが一つ、強い確信があった。

(この腕なら姉貴と兄貴を助けられる!)

 空を仰ぎ見る。

「獅文ッ!」

 蠅が浮き上がった衝撃で尾の拘束から逃れたらしい大門栄華が、俺の名を呼びながら金色の瞳をピカピカと光らせてこちらに落ちてくる。差し出された腕に応えるように俺は手を差し伸べる。形の良い彼女の唇が持ち上がり、勇壮な笑みを描いた。貫かれた腹のことなど気にしていないらしかった。

「あの二人を迎えに行くわよ!」

「うん!」

 パシンと高く音を鳴らして互いの腕を掴みあう。そのまま吊り上がったくちびるが急接近して、ちゅ、と場違いに可愛らしい音がした。

「え、まって、今なんで……」

 キスされた。額でも頬でも鼻でもなく、俺のくちびるに。

 瞬間、カッと彼女の額が光放った。なにか文章のようにも見えるが知らない文字だ。

「大門さん、あの」

 さっきのはファーストキスだ、なんてことに気づくよりも早く大門栄華は俺の輝く胸に手を当て、そしてそこから引き出した。

 黒い鞭を。否、蛇と言うべきか。9匹の蛇を束ねて作られた鞭。

 ビュッと空を裂いて鞭が伸びる。9匹の蛇は上空へその体を伸ばし、蠅の足に絡まった。そのまま大門栄華は白い手に力を込めて蠅のような悪魔の巨体を地に引きずり落とした。不思議と、何も言われずとも自分のすべきことが分かった。

「姉貴! 兄貴!」

 巨体に駆け寄る。金色の光をわずかに零すその腹に手をかける。

「今度は俺が」

 獣の手に力を込めて穴を裂く。そこから眩しいほどの光があふれだす。硬そうな皮膚もぶちぶちと音を立てて千切れて、その奥にある黒い渦に手を突っ込んでかき回す。

 ふ、としびれるような感覚の中で柔らかい感触が二つあった。腕に力を込めてそれらを持ち上げる。

「迎えに来たよ!」

 ずるりと渦の中から大事な2人の身体がこぼれ出た。彼らを抱く腕に力を籠めると兄貴と姉貴はゆっくりと目を開き、疲れたように、それでも微笑んで俺の背に手を回して囁いた。

「……ただいま」

「迎えに来てくれてありがとな、獅文」

 そばで引き倒された紫の巨体が起き上がる気配がしたが、伸びた鞭がその首を締め上げた。蛇たちがシャーっと警戒もあらわな声を発している。

「三下以下のくせにずいぶん暴れてくれたじゃない」

 大門栄華は朗々たる声で言った。

「クソ、さっきまで死にかけてた癖に」

「私の金杯だもの、迎えに行くのは当然でしょう」

「金杯が砕けてその一部がそこの人間どもに入り込んだ、そこまでは良かったがまさか覚醒した上に融合しちまうなんて」

 羽を震わせて弱弱しく蠅のような悪魔は言った。

「何よりもテメーみたいなカビの生えたアバズレに負けたのが許せぇ!」

 半透明の羽が激しくゆすぶられたが、その後にギュウと音が漏れた。首に巻き付いた蛇たちが拘束を強めたようだった。その鞭を握りながら、古代都市の名を頂いた女が嗜虐的に微笑んだ。

「ベルゼブフの真似事をしようとして姿すらろくに模倣できなかった三下以下のお前がこの大いなるバビロンに勝てるとでも? 地上の快楽を糧として君臨する者、全ての淫婦と邪悪なるものの母たる神秘のバビロンに勝てるとでも? この世全ての商人の恋人で、この世全ての港の母で、この世全ての都市の女王で、この世全ての快楽の女神であるこの私に勝てるとでも?」

 鞭を引く手に力がこもる。そして女は天を仰ぎ見た。金の瞳を燦燦と輝かせ、額に刻まれた文字を煌々と輝かせ、夜風に長く豊かな髪をなびかせて口を開いた。

 歌のような、呪詛のような、高いような、低いような、鳥のような、虫の羽音のような、獣のような、地鳴りのような、風のような、海鳴りのような、奇妙な声で彼女は宣言した。

「聞け、わが名を! わが名は大バビロン、地上にある欲深きものの母! 大淫婦バビロンである! 我が穢れし金杯を奪う者そのことごとく、この神秘のバビロンを前に討ち果てると知れ!」

 その叫びを聞き届けて、蠅のような頭が完全に地に倒れ伏したかと思うと、その巨体が小さな蠅の群れになり、あの不快な羽音で言い残した。

「ハハハ、他の悪魔どもに宣戦布告をしたか! だがバビロン、ご自慢の金杯はそこにある欠片3つだけでは完成しないようだな。これからは見つかっていない残りの欠片と、そこにある欠片をめぐって他の悪魔どもとの奪い合いだ! せいぜい守って見せろ、古悪魔バビロン! オマエがどこまで戦えるか見届けられないのが残念だ!」

 ケタケタと笑い声を残し、蠅の群れはその場で霧散した。後には沈黙だけが残る。静かに風が吹き抜けて、近くの桜の木がサワサワと音を立てた。

「倒した、のか……?」

「もう大丈夫なの?」

「その女の子が助けてくれた、んだよな?」

 ようやく言えたのはその程度だった。

 大門栄華だいもんえいか、否、バビロンは俺たち姉弟を見てにこりと笑って言った。

「私の大事な杯だもの、守るのは当然のことでしょう」

「いや、当然とか言われても分かんねぇよ。ちゃんと説明してくれ。あとこの手のこととかさっきおれの胸から出てきた蛇とか兄貴と姉貴の安全のこととかもっとちゃんと話してくれ」

 俺が毛むくじゃらの手を差し出して言うと、バビロンは苦笑してその手をぎゅっと握って静かな声で言った。

「大丈夫、さっきを宣戦布告したからみんな下手には動けないわ。しばらくは安全。あなたのお兄さんとお姉さんもね」

 それを聞いたとたん、赤い獣の手はあっさりといつもの俺の手に戻った。肩から力が抜けて、俺は自分が緊張していたことをそこで初めて自覚した。

「立ち話も良くないわ、移動しましょう」

 人ならざるものに微笑んで言われて、俺たちは顔を見合わせて立ち上がった。だいぶ遠いところに散らかっているエコバッグの中身はイチジクを含めてすべて無事だったのでほっとしてしまった。

「あなたたち、昨日の地震の時におかしなものを見なかった?」

 団地の敷地内の公園のそばを歩きながら少女は言った。覚えている。夜空を飛びながら戦うふたつの黒い影を見た。

「砕けてしまった私の金杯のうち最も重要な欠片3つをその戦いの最中に落としてしまったのでしょう。欠片の回収よりも目の前の敵を倒すことを優先した奴らはそのまま地上をスルーして、当の欠片はそれぞれ一つずつあなたたちの中に入り込んでしまった。本来の持ち主である私が近づけばその欠片も自然にあなたたちから出てくるはずなんだけど……」

 女悪魔バビロンは首をひねり俺の胸にその手をかざした。胸の左側が金色に光るがそれだけだ。姉貴と兄貴も同じ反応で、杯の持ち主はため息をついた。

「よほど居心地が良いのかしらね、あなたたちの中で覚醒してしたせいであなたたちの身体に融合して取り出せなくなってしまっているのよ」

「俺の腕が変わったのはそのせい?」

「そうよ。奇しくも私がかつての戦いで失った赤き獣を再現した腕。戦うための腕。何はともあれ、覚醒したおかげであなたは戦えるし私も本来の力の半分を取り戻して武器を取り出せるようになったってわけ」

 武器。あの鞭のことだろうと思い出して、頬が熱くなった。

「あの時なんでキスなんてしたんだよ!」

 静かな声でしゃべっているつもりでも声は団地に反響して妙に良く響いた。そばを歩いていた姉貴や兄貴が目をキラキラさせているのがいたたまれない。一方で少し前を歩く女悪魔は涼しい顔で言った。

「杯の中身を飲むのにくちびるを触れさせないでどうするの」

 もっともらしい物言いに俺はただ閉口するばかりだ。

「あたしと龍成りゅうせいの中の欠片も覚醒、しているの?」

 姉貴が兄貴に視線をやりながら家の鍵を開ける。カチャン、という聞きなれた音が懐かしかった。

「覚醒しているわ。だから体から出てこない。獅文の中にあるパーツ以外なら覚醒しても身体が異様に頑強になったり傷があっという間に治る程度だから」

 靴を脱いでリビングになだれ込む。ごく自然な流れで転校生もローファーを脱いで入ってきた。

「……いや、なんで大門さんも上がってるの」

 あまりに自然な流れだったから受け入れそうになっていたが、もうなんだかめちゃくちゃだ。いや、昨日の夜から何だかずっとめちゃくちゃだ。いつもの水曜日何てもうどこにもない。

「俺たち姉弟3人の話だ、きちんと聞かねぇと」

「それにその制服、獅文しもんの同級生なんでしょ?」

 両脇から兄貴と姉貴が笑顔で言う。色素の薄い髪の毛に、優しそうなヘーゼルアイ。もうこの二人に言われたら俺は黙って「うん」と言うしかない。

「獅文の中にあるパーツは特別なのか?」

 兄貴は言いながら大鍋に水を入れる。その横で古悪魔と呼ばれた女は冷蔵庫の野菜室から言われた野菜を出しながら答える。

「ええ、獅文の中にあるのは杯の脚の部分ね。脚はちょうど杯の底、つまり魔力が湧きだす部分でもある。その特殊性が獅文にああいう力を与えたのでしょう。あなたたちの中にあるのは脚の台座部分。台座は……そうね、ちょうど綺麗に二つに割れて半月の形をしているわ」

 その話を聞きながら、おれは家の中のごみをまとめてポリ袋の口をくくる。時間は夜8時を大いにすぎていたのでそのままマンションのごみ捨て場に持っていく。部屋に戻ると朗らかな笑い声が聞こえてきた。

「たしかに無限にお金が出てくる財布と思えば俺も欲しいなぁ」

「そうでしょう? 私の金杯は悪魔なら誰もが欲しがるものなの。だけどずいぶん昔に奪われて、それ以来行方不明で」

「で、ようやく見つかったとたんに争奪戦」

「ええ。どこかの馬鹿がうっかり人間界まで持ち出しちゃったみたい」

「それはそうと、バビロンちゃんもご飯食べない? 果物もあるわよ、イチヂク!」

「私たち悪魔にとって人間の食事はあくまでも嗜好品扱いで必須ないけれど……イチヂクは好きよ」

「へぇ、獅文もイチヂクが好きなんだ」

「ねえバビロンちゃん、ほんとにパスタ食べなくて良いの? 龍成はこう見えて料理上手だよ?」

「……そんなに言うなら有難く頂くわ」

 いや。いや、有難く頂くな! 兄貴もパスタ4人分出してるんじゃない! バビロンちゃんてなんだよ、せめて栄華ちゃんだろう。当のバビロンもシンクで皿洗いをしていて、もう気が遠くなる。

「兄貴も姉貴もなんでほんの少し目を離したすきに和んでるんだ。俺たちの中に杯がある限り狙われるのは確かなんだろ?」

「ねえバビロンちゃん、私たちのパーツを抜き出すことはできないの?」

 姉貴の言葉に、泡を流した食器を水切りカゴに置きながら悪魔は「そうねぇ」と呟いた。

「私も金杯が手元にないのは嫌だからいずれ取り出すつもりだけれど、それには準備もいるしタイミングの問題もあるし、大前提としてすべてのパーツが揃っていないといけないから今すぐ、というのは無理ね」

 それにしても、と悪魔は姉貴と兄貴を呆れたような顔で見つめた。

「あんまり驚かないのね、あなたたち。色々と不安もあるでしょうに」

「驚いてはいるけどなんかもう受け入れるしかないって言うか」

 淡々と言いながら兄貴は熱したフライパンに食材を入れて炒め始める。ニンニクとベーコンの香りがふわりと広がる。

「目の前で実際に見ちゃったし、それに……」

 野菜の入ったシリコンスチーマーをレンジに入れながらつぶやいた姉貴は兄貴と視線を合わせて首を縦に振る。双子だからか、育った環境のせいで思考が近いのか、ふたりはこうやって言葉もなく意思疎通することが多い。

「獅文が迎えに来てくれたし」

「それに守ってくれるんでしょう、大いなるバビロンさん」

 姉貴と兄貴は互いにもたれかかりながらにこりと笑った。勝ち誇ったような、妙な気迫のあるその微笑。俺を親戚の家から連れ出すときにも二人はこの顔で言ったのだ。「4月からは正式に社会人ですので」と。

 女悪魔は苦笑いをする。

「怖がらないどころかこの私を利用しようとするなんて。面白いわね、ええ、元から守るつもりよ。金杯の欠片の保持者さんたち」

 一瞬の緊迫がキッチンに満ちる。だが、チーンという電子レンジの軽快な電子音と冷蔵庫に張り付くタイマーのけたたましい音でそれは霧散した。今日の調理担当はそれぞれぱっと見を翻して作業に戻る。

「バビロン、食器出すの手伝え」

 悪魔の腕を引いて食器棚を開けながら、兄貴と姉貴に聞こえないように低い声で言った。

「俺が協力する、さっさと残りの欠片探して二人の中の欠片も出すぞ」

「分かっているわ、私もあの杯が手元にないと困るの。共闘よ」

 チラと視線をやって目を合わせ、互いの拳をぶつけた。


***


「と、いうことで今日からこの家にお世話になるわ」

 出された食事を完食し、デザートのイチヂクを嬉しそうに食べたバビロンはにこりと笑って宣言した。

「ということで、じゃないだろ!」

「でもバビロンさんがこの部屋に防御結界を張るには本人がこの部屋にいるのが一番効率がいいって言ってたし」

「万が一の時もバビロンちゃんが遠いところから私たちのところまで来てたんじゃあ効率が悪いし」

 姉貴も兄貴もニコニコしている。たしかにうちはファミリー向けマンションだし部屋には空きがあるし本人は食事もいらないっていうから食費はかからないけど。けど! 

「良いじゃない、私たちも予想外のことが起きてびっくりしてるの。身近に識者がいると安心できるものでしょう?」

 そう言った姉貴が俺の両腕をそっと撫でる。気づかいに満ちた触れ方だった。紗良、と名を呼んで兄貴が双子の姉の肩を優しく抱いて、俺の背にも手を回してくれる。

「なんかよく分かんないことになったけど、おれは紗良さらと獅文と一緒にいられるならなんでもいい」

「あたしも右に同じ。3人で一緒に射られるなら何でもいいの」

 そうして元気よく笑いかけられてしまうと、俺はいつも最後には笑って「しょうがないなぁ」なんて返事するのだ。

 姉弟3人、肩を触れ合わせながら目の前の女に向き直る。悪魔だとしても、今は俺たちの身を守る強力なボディーガードだ。手を差し伸べて言う。

「よろしく頼む、バビロン」

「……姉弟3人、仲の良いこと。こちらこそよろしくね」

 美しい女悪魔は目を細めて笑うと、変わらず堂々とした声で言って俺の手を握り返した。

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