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3「あんたのことを本当に大切に思っている」



 輿入れの準備は恙なく進み、将来の伴侶であるシュリエの跡継ぎとも何度か顔を合わせて、互いに理解を深められていると感じていた。彼は優しい人であった。思慮深く、平和的で、己を主張することなく己の主張を通すことのできる、したたかな人でもあった。思いのほか趣味が近くて、話していて楽しい相手である。


 裏を返せば、それだけだ。彼はウーナを侮ることなく、対等に、敬意を持って真心で接してくれる。その向こうに一種特別な紐帯や秘密の共有はない。

 誰が見たって理想的な伴侶に物足りなさを感じる己の幼稚さには、ほとほと嫌気が差す。


 様々な手回しが済み、婚約が成立する前夜、ウーナはひとり自室で絵の具を溶いていた。何にもならない手遊びである。空いた時間で少しずつ描いていた風景画が、もうすぐ完成するところだった。

 完成した絵はどうしようかしら? 嫁ぎ先に持っていく訳にはいかないし、城に置いておいても仕方がない。

(いっそのこと、全部燃やしてしまおうかしら)

 そんな投げやりな気分で、枝の先に鮮やかな緑を置く。


 こつん、と窓に何かが当たった音で、顔を上げた。何かの聞き間違いだろうか? 耳をそばだてて窓を注視するウーナの目の前で、また窓が音を立てる。

 行っちゃ駄目だ、と制する思考とは裏腹に、足が動いていた。絵筆を置いて、転げるように窓辺へ駆け寄る。悲鳴のような声が飛び出た。


「……アスタ!」

「よう、姫さん。良い夜だな」

 気楽な口調で片手を挙げた姿を見た瞬間、息が詰まった。


「良い感じの小石を沢山用意していたんだが、使い切る前に出てきてくれて助かった」と近くの茂みに手の中のものを放る仕草をする。軽く手を払ってから、アスタはこちらを見上げてにこりと笑った。思わず、はね除けるように顔を背けていた。


「い、言っておきますけど私、あんまり気安く会えるような立場の人間じゃないのよ」

「バレなきゃ問題ないだろ」

 からからと笑って、それから不意に彼は真剣な表情になった。


「……シュリエ領に嫁ぐんだってな。聞いたよ」

 潜めた声が責めるように聞こえたのは多分、あの日何も言えなかった自分への後ろめたさである。


「そうよ。明日にはもう婚約が成立するし、今年中には王都を出てシュリエ領へ行くの」

 つんと顎を上げて応じると、「知ってる」とアスタが微笑んだ。

「その上で、頼んでもいいか」

 大声を出している訳でもないアスタの言葉は、夜の静寂に染み渡ってゆくようだった。恐ろしいような気持ちで、ウーナは続く言葉を待ち構える。


「俺のために歌ってくれないか、ウーナ」


 祈るような言葉だった。彼は真っ直ぐにこちらを見ている。

 自然と、笑みがこぼれていた。少しの間、目を閉じて、夢想する。アスタの手を取って、強く強く手を握り締めて、すべての柵や責任から逃れて、どこまでも遠くまで駆けてゆくのだ。

 どんなにたくさんの困難が待ち受けているだろうか。後ろ指をさされるに違いない。でも、それでも構わない。そう思えるような恋をした。



「――私は、結婚するのよ」

 綻んだ口元から、迷いなく返事が転げ落ちた。夜風に向かって昂然と額をもたげ、ウーナは強く脈打つ胸に手を当てる。

「私は、この国と結婚するの。この身を捧げるの。定められた使命を全うすることに、何の疑いも抱かないわ」

 そう口にして初めて、己の決意が強固に、揺らぎなく固まったのが分かった。


「ありがとう、アスタ。嬉しかったわ」

 王族に産まれたからには、民を守り導かねばなりません。それが責務であり、使命なのです。幼い頃から言い聞かされてきた言葉を思い出す。


(私がこの手で守る民の中に、アスタがいる)

 それだけで、きっと強くなれる。

 それで十分だ。

「分かった」と、アスタの声は覚悟していたよりもあっけらかんと響いた。瞬きをしたときには、既に窓の外の人影は消えていた。



 ***


 王家とシュリエ領との友好的な結びつきを示すため、自分の輿入れに際して王家から様々な援助が行われると聞いていた。その一つとして、近年状勢が不安定な当地のために一個大隊が派遣されることも聞き及んでいた。


 書面に自らの名を記し、婚約は成立した。祝福の声を受けながら、ウーナは目の前に整列している隊を眺め回した。婚約の成立を見届け、これよりシュリエ領へ発つ一隊である。天候に恵まれ、抜けるような晴天の下で隊列はやけに輝かしく見えた。


 その先頭で背筋を伸ばして立っている姿を認めた瞬間、息が止まるような心地がした。式典用の装飾的な制服を纏い、精悍な面持ちでこちらを見据える、その目が悪戯っぽく笑っている。昨日は、そんなこと一言も言っていなかったのに!


 いつの間にそんなに偉くなっていたのだろう。呆気に取られるウーナをよそに、傍らの婚約者は朗らかに『隊長』へ声をかけている。


 次いで、ウーナからの発言を要求するような視線が回って来て、彼女は内心の動揺を隠しながら口を開いた。

「わた……私は、追ってシュリエ領へ向かいます。先んじてシュリエへ向かうあなた方には、慣れない地で苦労をかけるやも知れません」


 王家に対する反発が強まっているシュリエ領で、都から派遣されてきた余所者がどのような目を向けられるかは想像に難くない。狼狽えていたせいで、少々直截すぎる言葉を口に乗せてしまった。

 それでますます慌ててしまって、ウーナは咄嗟に子どものように付言していた。


「頑張ってね」

 それまで涼しい顔で受け答えしていたアスタが、堪えきれなかったように歯を見せて笑うのだ。


「未熟な身なれど、殿下の露払いになりますれば」

 慇懃な仕草で一礼して、彼は目を細めて微笑んだ。

「末永くお幸せに」

 そうして、アスタが率いる隊はシュリエへと旅立った。



 ***


 婚約が成立して程なくして、シュリエ領と王家の不和は解消され、帝国からの圧力も減ったと聞いた。もっとも、帝国による脅威に関しては今回の婚約だけが理由ではないという。


「帝国軍が弱体化している?」

 不意に部屋を訪れた次兄の言葉に、ウーナは眉をひそめた。次兄のリッカは大きく頷き、内緒話を示す仕草で口元に手を立てる。


「この機を狙って、兄上が、カナン奪還に向けて兵を挙げる計画を立てている。帝国から我が国の主権を取り戻すための戦いだ」

 また戦が起こるのか。深い衝撃がウーナを襲った。


「もしその計画が成ったら、シュリエや周辺の緒領からも兵を徴することになる。お前の婿殿には既に話を通してあるが、念のためにお前にも伝えておく」

「待ってください! 私、そんなこと認められません」


 恐らくは、自分の名を口実にシュリエ領の協力を得るのである。ウーナは咄嗟に反駁したが、リッカは幼い子どもの我儘でも見るようにその言葉をいなした。

「良いかウーナ。これは、この国のためなんだ」


 そんな言葉で素直に頷くほど子どもだと思われているのだろうか? この計画は、明らかに自分の婚約をひとつの契機として動き出している。


 悟ったときには、既に遅かった。王家の意向は、帝国への抵抗を叫ぶシュリエ領と同じだったのだ。違いは、帝国の脅威を理解して機を待つか、表立って反旗を翻そうとするかの違いのみ。自分の婚約は、我が国の誇りを取り戻せと叫ぶ国民を宥めるためではなかった。その意思を汲み、実行に向けて繋がりを深めるためのもの。


 婚約ののちも自分がまだ王城に留め置かれている理由を薄々察して、吐き気がした。シュリエでウーナが反戦を唱えては困るのだろう。目を真っ赤にしながら、ウーナは呻いた。

「どうして、お兄様……」

「じゃあお前は、カナンが永遠に帝都で奴隷として虐げられていても構わないって言うのか」

「そんなこと言っていません! でも、今進んでいる計画は、カナン兄様を口実に戦端を開きたいだけに聞こえるわ!」


 リッカは穏やかな微笑みで、ウーナの背を何度か叩いた。

「待ってろ。もうすぐカナンも帰ってくるからな」

 そう言って出て行った兄を見送って、ウーナは顔を歪めた。その場に蹲り、両手で顔を覆って声を殺す。


「アスタ…………」

 彼もこのことを知っていたのだろうか? 知らないはずがない。王家が肝煎りでシュリエへ送り込んだ一隊である。何なら帝国攻撃の最前線にいるともいえる。

 私が、アスタを戦場へ送り込むのだ。民を守るなんて口先ばかり……。



 ***


 それでも、兄が帰ってきて、無事な姿を見せてくれたのは本当に嬉しかった。現金な自分に内心で呆れ果ててしまう。


 ジェスタを中心に東部文化圏の諸国が連合して編成された軍は、帝都に向かって西方へ向かった。帝国の端にあたるウディル州にて、あわや一触即発というところまでいったという。


 しかし、実際に戦端が開かれるよりも早く、兄がこちらの占領していた砦まで姿を現したのだ、と。


 カナンは、奴隷として自由を奪われているのではなかったのか? 実際に軍を率いた長兄だけは煮え切らない口調だったが、他の兄姉は特に思うところはなかったらしい。



 ――ちょうどその頃、どのような拍子だったかは忘れたが、シュリエ領から連合軍に加わった兵の一人が、重傷を負ってこの城で療養していると、聞いた。


「姫さん、あんたたまに、ちょっと腹立つくらい勘が鋭いぜ」

 白いカーテンの向こうで苦笑混じりの声がした。血の気が失せて、ウーナは何も言えずに膝の上で拳を握りしめた。陽当たりの良い畑の隣にある療養所の、一番奥の寝台。カーテンに仕切られて中の見えないその向こうで、聞き慣れた声がする。


「どこで聞きつけてきたんだよ、俺のことなんか」

「っどこで、だって、良いでしょう!」


 泣き声を聞かれないようにするので精一杯だった。鼻をすすり上げたのですっかり気づかれているだろうとは思ったけれど、話し声だけは凜とした態度を貫きたかった。


「私のせいだわ」

「違う。俺の不注意だ」

 ウディルの砦を落とす際の交戦で、彼は敵の刃を利き腕に受けたのだという。剣を持つことは絶望的だという。

「ほんと、どじだよなぁ」と彼は笑っているが、ウーナにとっては笑い事ではない。唇を噤んだまま、彼女は深く俯いた。


「それにしても、あんたの兄さん、あれは曲者だな」

「え?」

 不意に話題が兄に飛んで、ウーナは目を丸くして顔を上げた。「お兄様が?」と聞き返すと、布を一枚隔てた向こうでアスタが笑ったのが分かった。

「根拠はないけど、何というか、……危なっかしい」


 そうかしら、とウーナは首を傾げる。確かに、数年ぶりに見た兄はすっかり青年になって雰囲気が変わったし、ときどき遠くを見るみたいな目をする。うんうんと兄について頭を悩ませていると、アスタが噴き出した。


「姫さん、本当に兄さんのことが好きなんだな」

 言われて、思わず耳が熱くなった。体よく話題を逸らされたことに気づき、咄嗟に話を戻そうとする。



「なあ」と遮られたのはそのときだった。

「本当は、シュリエであんたを迎えたかったけど、この腕だ。体が動くようになったら退役することになっている」

 はっと、息を飲む。何も言えずに続きを待つウーナの目の前で、衣擦れの音がして、アスタが体ごとこちらを向いたのが察せられた。


「所詮、俺はその程度の器で、それまでだったってことだ。何も驚くことはないし、嘆く必要もない」


 でも、あんたは違う。アスタは甘やかすみたいに優しい声で囁いた。

「あんたは優しい人だ。たくさんの人を救うことのできるひとだし、あんたにはあんたのいるべき場所がある」

 やめて、と震え声で制したのに、アスタは黙ろうとしなかった。


「この国に身を捧げるんだって言ったときのあんたは、本当に格好良かったよ。誰よりもな」

 涙を拭いながら、笑顔で答える。

「……惚れ直した、でしょ」

「参っちまうよなぁ、惚れた女があんなに格好良いこと言ってるんだぜ。負けてられないだろ」


 いつもみたいにからからと笑って、アスタが「あーあ」と呟いた。

「勘違いするなよ、姫さん。俺はあんたに救われたんだ」

 心臓が嫌な跳ね方をするような、優しい口ぶりだった。


「手のつけようもない糞餓鬼だった俺が多少はましになったのも、あんたのおかげだ。同じように、泣き虫で可愛い女の子だったあんたが、どこへ出したって恥ずかしくない立派な王女殿下に成長するのを、俺はちゃんと見てきた」

 奥歯を食いしばって、両手で口を塞いで、ウーナは必死に声を押し殺した。


「人ってのは変わってゆくものなんだ、どんな風にも」

 白いカーテンに、大きな手の影が近づく。布一枚越しに手と手を合わせて、ウーナは深く俯いて唇を噛んだ。


「俺たちはもう、互いがいなくたって生きていける。そうだろ」

 嫌、と縋り付くことができるほど幼ければどれほど良かったろう。しゃくり上げながら、ウーナは何度も頷いた。カーテン越しで見えないだろうに、アスタはまるで全て分かっているような様子だった。


「でも、何があっても、覚えていて欲しい。あんたのことを本当に大切に思っている奴が、少なくとも一人はこの地平にいるんだって」

 今、ここで話が終わってしまえば、きっと彼に二度と会うことはないのだろう。そうと悟って、ウーナは跳ねる息の合間に声を絞り出した。


「あなたのこと、一生忘れないわ」

「忘れちまえ忘れちまえ、若気の至りなんて」

 はは、と笑って、「でも」とアスタは囁いた。


「ありがとう。――俺も忘れない」



 ***


 カナンが、帝都陥落を成し遂げたという。実質的な最高権力者である皇帝の側近に就任し、帝都で辣腕を振るっていると聞いている。


 その報せを聞き届けて、ウーナは満を持してシュリエ領へと輿入れした。


「待っていたよ。シュリエへようこそ、ウーナ」

 年上の夫の言葉にウーナは微笑んだ。初めて訪れたシュリエの領主館は立派であり、高い城壁に幾重にも囲まれた街の姿は砦と言ってもよかった。

 国境近くという立地のせいもあるのだろう、軍備は他の領地とは一線を画している。



 それにしても、近衛につけられた兵たちが思いのほか好意的なのには驚いた。

「奥方様のお話は、ゼス=カナン……ああいや、総督閣下から聞いていました」と近衛の一人が言う。彼はカナンとともに帝都へ赴いたのだという。その道中で自分の話題が出たのだと。


「見ないうちに随分変わって、ご立派になられたと仰っていましたよ」

 人づてに聞いた兄の言葉に、ウーナはむず痒いような気持ちで頬を掻いた。

「総督閣下は帝国の頂点に立たれ、きっとジェスタを気にかけて下さるに違いありません。閣下と共に従軍できたことが、私の誇りです」


 その言葉に曖昧な相槌を返して、ウーナは傍らの夫を見やる。笑顔を向けてくれた夫に微笑みで応じながら、彼女は兄のことを考えていた。


 疾風のように帰郷したかと思えば、嵐が過ぎるように祖国を発ってしまった。もう、二度と帰ってこないかもしれないひとに思いを馳せる。


 ウーナには、帝国の総督となった兄が必ずしもジェスタにとって利さない可能性を考える必要があった。そのときに上手に渡ってゆく術も。


 不安が襲いそうになり、大丈夫、と己の胸に語りかける。……だって、この地平に私の味方が一人はいる。

 どこに出したって恥ずかしくないって、言ってくれた人がいる。


「それに、既に退役された前隊長も、奥方様は素晴らしい人格者だと言っていましたから」

 ついでのように出された言葉に、ウーナは自然と頬を綻ばせていた。


「その方、とってもよく分かってるわね」







下部のリンクから本編に飛べます。第2部まで完結済、現在は最終章を更新中ですので、男女主従やサスペンス風味がお好きな方はぜひどうぞ。

なお、ウーナが登場するのは第一部終盤(など)です。


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