2「もう会いに来ないで」
ジェスタが属国となって三年が経つ頃、国内では強硬派が台頭してきていた。このまま帝国の言いなりになっていて良いのか。あんな歴史の浅い国に搾取されていて良いのか。ジェスタは大陸随一の歴史を持つ、由緒正しき国家である。誇りを取り戻せ、と。
「ジェスタ侵攻は、他国に比べると速やかかつ要所的な攻撃で為された。自領に被害のなかった領主や市民たちにとっては、三年前の侵攻は対岸の火事だったのだろう」
長兄が滑らかな口調で語るのを聞きながら、ウーナは末席で縮こまっていた。
帝国による侵攻は、圧倒的であった。入念な準備と調査を重ねてきたのだと窺われた。退路は全て断たれ、攻撃は警備の手薄な点を容赦なく衝き、都は一夜にして陥落した。あんなに恐ろしかった夜は後にも先にもない。
「だから、帝国から再び主権を取り戻せと唱える者が出てくるのは、当然だと思う」
兄の口調は穏やかだったが、言葉の節々に抑えきれない苛立ちが滲んでいた。先日まで辺境へ視察に行ってきた兄は多くを語らないが、相当な煮え湯を飲まされたことが態度からも窺えた。
「私のところでも、王家に対する不満はちらほら聞こえてきているわ」と、数年前に他領に嫁いだ姉が頷く。
ウーナは首を竦めて、三年前のことを思い返していた。本当なら思い出したくもない。
ウーナは帝国のことが嫌いだ。大切なものを奪って、まるで虫けらを見下ろすみたいに、対等ではないみたいな態度。兄を奴隷呼ばわりして嘲笑する王女。何から何まで忌まわしいのに、大人たちは「この程度で済んで幸運だったのだ」と語る。
認めたくないけど、それが本当なのも知っている。よその属国はもっと、壊滅的なまでの攻撃を受けて、あらゆるものを略奪されたのだ。
でも、私たちが負った傷がなくなるわけじゃない。
「……私、もう一度戦争をしようと思う人の気が知れません」
あんな酷いことを繰り返そうだなんて、正気じゃない。ウーナは深く俯いて呟いた。きょうだいたちの間に、しんとした空気が流れる。視線が向けられているのを感じて、ますます小さくなる。
それ以上ウーナが何も言わないのを確認してから、長兄は「問題は」と静かな声で切り出した。
「ジェスタ王家の求心力が落ちていることだと、僕は考えている」
つまり、どういうことだろう? ウーナは目を丸くして兄を見やる。長兄はこちらをじっと見ていた。気づけば、他の兄や姉たちも、ウーナを見つめている。
「この間、僕が行ってきたシュリエ領では、領主殿が王家に対する不信を表明していてね、領民たちも同様に、帝国への反乱を唱えている様子だった。帝国側はこれを重く見ていて、先日送付されてきた文書には、この状態が続くようならシュリエに対する弾圧を行う、と仄めかされている」
そう言って目の前に滑らされてきた書簡は、帝国の言葉で書いてあって咄嗟には読み取れない。風向きが変わったのを察して、ウーナは肩を強ばらせる。
「王家は、シュリエとの繋がりを深める必要がある」
今更ながら、こんな話をするのに両親が同席していないことに違和感を覚えた。この場の全員がウーナを窺っているのも妙だ。嫌な予感に竦んで何も言えないウーナをよそに、長兄は話を進めてしまう。
「対してシュリエ領主殿のご子息は、話が分かる方だった。シュリエのみで兵を挙げても帝国には勝ち目がないことをよくご理解していて、自領の現状を憂慮しておられる。王家との関わりを深めることにも同意を示して頂いた」
薄らと話の先が読めてきて、ウーナの鼓動はやにわに早鐘を打ち始めた。他領と王家が関わりを深めるというのは、単に領主が恭順を示し、王家がそちらに目をかけるというだけの意味ではないだろう。
「ウーナ」と長兄の声が部屋に響く。誰も口を開こうとはしなかった。その場に縫い止められたような気分で、ウーナは身じろぎ一つせずに兄の顔を見つめていた。
「シュリエ領への輿入れの話が出ている。お前さえ良ければすぐに話を進めようと思っているのだが、どうだろうか」
身構えるウーナの目の前で、長兄の口からはやはり予想通りの言葉が出た。はっと息を飲んだのは隠しきれない。兄と姉の視線が突き刺さる。咄嗟に何と答えようとしたのかは自分でも分からなかったが、ふと脳裏をよぎるのは最も近しかった兄の顔である。
(お兄様、)
帝国の王女に奴隷として連れ去られた兄が、今頃どんな思いをしているか。それを考えると、危険にも晒されていない我が身が急に恥ずかしく思えて、ウーナは唇を噛んだ。
「……お、お会いしてみないと、何とも言えませんが」と返事は苦し紛れだったが、ウーナはやっとの思いで声を絞り出す。俯いたまま上目遣いで兄を窺って、消え入りそうな声で頷いた。
「前向きに考えてみたいと思います。……私だって王女です。このまま国が分断されて弾圧を受けようとしているのを、見過ごすわけにはいきませんわ」
その答えに、兄姉たちが一斉に詰めていた息を吐いた。分かりやすく安堵を示した姿に、ウーナは既に自分のいない場でこの件が決定事項となっていたことを悟る。両親が席を外していたのは、自分が萎縮しないためだろう。……どういう訳か釈然としない気遣いであった。
その場を辞して、自室へ向かう道すがら、まるで足の感覚がなかった。呆然としたまま、ウーナは先程の返事を反芻する。あれはほとんど了承のようなものだ。そして、それを兄たちの前で口にしたからには、もう覆せない。自分の意思で答えたはずなのに、まだ心がついてこないみたいだ。
顔色の悪いウーナに、事情は分からないながらも侍女は気遣わしげな表情である。それを黙殺して、部屋に入る。後ろ手に扉を閉める。室内には静寂が満ちた。
音のないよそよそしい部屋を横切って、ウーナは無言で窓を開けた。小さな声で歌い始めて四半刻が過ぎた頃に、窓際の木立が揺れて、身軽な動きで彼が姿を現した。
「何だ姫さん、また泣いてるのか」とアスタの声はあからさまに呆れを含んでいたが、ウーナがろくに返事をしないのを見ると「なるほど」と頷いた。手振りで下がれと合図をされて、ウーナは涙目のまま数歩後じさる。足音をさせず、アスタが窓から部屋へ入ってくる。
「どうした」
頬に大きな手が触れた。彼と初めて遭遇してから既に三年が過ぎて、少年兵だったアスタは既に青年の年頃に差し掛かろうとしている。初めは拳一つぶんくらいしか変わらなかった目の高さも、今となっては見上げるほどだ。
「アスタ」と口を開いたのに、言葉は出てこなかった。何を言おうとしたのかも分からない。兄たちとの会話が、頭の中をぐるぐると巡っている。
シュリエとの縁組みはいずれ皆に知れることだが、まだ内々の話のはずだ。アスタに話すわけにはいかない。言いかけて、表情を固くして黙り込む。俯いたウーナを見下ろして、アスタがもの言いたげに眉根を寄せた。
「……俺に言えないような話か、姫さん」
ただの一兵卒に過ぎないアスタに明かせないような話は、たくさんあった。だからウーナが何も言えずに黙り込んでしまうのは初めてではない。こういうのが、ウーナは苦手だった。
かつて自分たちは、厳然と立ちはだかる身分の壁を感じた。未だに、あのときの居たたまれなさを直視することができない。だからか、それ以来お互いに、立場に言及するのが暗黙のうちに禁句になっている。
自分に縁談が来たのだ。言葉にしてしまえば短いものなのに、何故か声は喉元でわだかまって解けない。アスタはしばらく真顔でウーナを見下ろしていたが、ふと曖昧な笑みを浮かべた。
「そりゃ、姫さんもお年頃なんだから、人に言えない話のひとつやふたつ、あるだろ」
わざと何てことのないように振る舞う軽口であった。互いの身分の話題を巧妙に避けた言葉だったが、それが尚更ウーナに刺さった。「おとしごろ」と口の中で呟く。そうなのだ。自分は既に子どもではない。それだけの事実を噛みしめて、ウーナは顔を上げた。へらりと笑う。
「そうね」
真正面から視線を合わせて頷くと、アスタが息を飲んだようだった。思わずというように、頬に落ちていた髪を耳にかけられる。「悪い」と慌てて手が離れる。まじまじと、アスタがこちらを観察していた。
「……姫さん、いつの間にか綺麗になったな」
「ありがとう」
初めてそんなことを言われたはずなのに、あまり心は浮き立たなかった。私が綺麗なんだったら、きっとシュリエの嫡男も気に入ってくれるだろう。
「詳しいことは、なにも、言えないけど」
囁いて、ウーナはそっとアスタの胸を押した。遠ざけるような仕草に、ひんやりとした空気が流れるのを感じた。
「今度、遠くに行くの。これから忙しくなるし、あなたも暇じゃないでしょう」
自分は間違っていないという確信はあった。上手に笑えているという自信もあった。
「だから、もう会いに来ないで」
私は、もう歌わない。子どもみたいな我儘は、言わない。
「出てって」
二度とその顔を見せないで。
涙が零れるのを見せたくなくて、深く俯く。アスタがこちらに一歩踏み出しかける。
衛兵を呼び寄せるための鈴に手を伸ばして初めて、アスタは下がった。顔を上げたときには、既に窓のカーテンが微かに揺れているだけだった。