1「ちょっと匿ってくれよ」
(初出:2021/12/21)
心地よい初夏の気候の頃だった。窓を開けて流行りの歌を口ずさみながら、ウーナは手遊びに木彫りの人形を作っていた。
小指程度の刃渡りしかない小刀は、兄に買ってもらったものである。どんなに小さなものだろうと、不器用な末娘であるウーナに刃物を持たせるのに両親は良い顔をしなかった。それを見かねたのか、市井で小さな小刀を買ってきた兄が、両親の目を盗んで手渡してくれたのだ。
(兄さま……)
今はここにいない兄の顔を思い浮かべて、ウーナは沈痛な思いで目を伏せた。
ウーナは王女である。
しかし、大陸の東部に位置するジェスタ王国は、現在はその主権を失い帝国の属国となっていた。
瞬く間に王都が陥落した一夜のことを思い出すと、ウーナは今でも眠れなくなる。大きな損壊は免れたものの、都のあちこちには修復が追いつかない傷跡が色濃く刻まれている。臣民が心身に負った傷も同じだ。すぐに癒えるはずがない。
何よりウーナの心を重くするのは、ぽっかりと空いてしまった家族の一席――最も年の近い兄の不在だった。
二つ三つばかり年の離れた兄であるカナンは、帝国の王女によって身柄を拘束され、奴隷にされたのだという。属国とはいえ、一国の王子に対して、あまりにも屈辱的な仕打ちだ。
けれど、先だっての戦で帝国に敗戦を喫したジェスタには、王女に歯向かう術などなかった。兄だって、帝国の王女になど逆らえるはずがない。
為す術なく、ウーナたちはカナンを置いて帝都を去り、ジェスタへと戻ってきた。もう半年近くが経とうとしている。
(こうしてまるで普段通りの生活を送っているようなふりをしたって、前のように戻れるわけがない)
だって、大切な家族が、ここにいない。
口ずさんでいた歌を打ち切って、削っていた木片を机の上に置く。はあ、とため息をついた。兄を置いてジェスタへ帰ってきてから、城の中は単に戦に負けただけではない陰鬱な空気に満ちている。
「――何だ、良い歌だったのに、やめちまったのか」
開け放っていた窓の外からいきなりそんな声が聞こえて、ウーナは思わず悲鳴をあげて椅子から転げ落ちた。
「だ、誰!?」
心もとない小刀を握りしめて、侵入者に向かって突きつける。ここは二階の角部屋である。窓の外に人がいるなんてありえない。腰を抜かして震え上がるウーナに、声の主は少し笑ったようだった。ちょうど兄と同じ年頃の少年だ。見覚えはない。
「ちょっと匿ってくれよ」と少年は躊躇いなく窓枠を乗り越えて、部屋の中に着地する。
「はいよ、ちゃんと座っててくれ」
床にへたり込んだウーナをすいと助け起こして椅子に座らせると、ウーナがなにか言う前に、奥の棚の影に屈み込んでしまう。その様子を呆気に取られて眺めていると、侵入者は唇の前に人さし指を立てて小さく笑った。
と、廊下の方から慌ただしい足音が近づいてきて、ウーナは弾かれたように扉を振り返った。扉が叩かれ、彼女は短く返事をする。
「失礼します、ゼシュエ=ウーナ」
生真面目な口調で姿を表したのは、確か、この春の配置換えで小隊長に昇級した兵である。冠称までつけた儀礼的な呼びかけに、ウーナは思わず身構えた。
小隊長は新任早々の失態に青ざめているらしい。
「大変申し訳ございません。先程新兵が訓練中に逃げ出してしまいまして、捜索の最中なのですが、怪しい人間は見ませんでしたか」
「怪しい、人間……」
見たか見ないかで言われたら、『見た』に決まっている。が。
……しかしそこで、先程の侵入者の『匿ってくれ』という言葉がウーナの脳裏を過ぎった。
「その逃げ出した新兵っていうのは、危ない人なの?」
「いえ、決して犯罪者やごろつきの類ではなく、その、どうにも素行不良で不真面目なために手を焼いております。殿下に危害を加えるような者ではございません」
「ふぅん……」
ウーナは少し躊躇って、唇を尖らせた。何となく魔が差したのは、悪戯っぽく指を立てた少年の表情が、ちょっと兄に似ていたせいだろう。
「見ていないわ。さっき足音なら聞いたけど、外でした」
そう言って首を振ると、小隊長は「承知しました」と頷いて、突然の非礼を詫びてから扉を閉じた。足音が遠ざかるのを待って、たっぷり二十まで数えてから、ウーナは戸棚の方を振り返る。
「……行ったわよ」
「命拾いしたよ、感謝する」
いそいそと棚の影から出てきた少年を睨めつけて、ウーナは眉根を寄せた。一目見たときは少し兄に似ていると思ったが、改めて見てみれば別段顔立ちが近い訳でもない。……兄さまの方が、ずっと格好良いもん。
相手が凶悪犯ではない――狼藉者であることには間違いないが――ことが判明して、ウーナは虚勢を張るように胸をそらした。
「訓練から逃げ出してきたの? 駄目よ、ちゃんとしなきゃ」
「だって阿呆くせぇんだもん。剣の握り方とか素振りとか、何の役にも立たないだろ」
少年は堂々と椅子を引っ張ってくると、どすんと腰掛けて横柄な態度で胡座をかいた。無作法な仕草に、ウーナは絶句する。こんな人、今まで見たこともない!
「な、何事も基礎が大切だって、大兄さまが仰っていたわ」
「おおにいさま?」
一音ずつはっきりと繰り返した少年は、そこで改めてウーナの姿格好や部屋の内装に気づいたらしい。ぱちぱちと瞬きをして、周囲を見回す。
「そういえば、さっき変な呼ばれ方してたな。ゼシュエ……何とかって」
「ウーナ。ゼシュエは敬称のようなものよ」
「……あんた、誰だ?」
「王女、です」
少年の真似をして、殊更に口を動かして告げると、彼は今度こそ目を丸くして凍りついた。動きを止めた少年を眺めていると、おもむろに立ち上がって彼が歩み寄ってくる。腰に手を当てて身をかがめ、顔を近づけてまじまじと観察された。
「あんた、姫だったのか」
「いきなり近づかないで! びっくりするわ」
胸の前で小刀の小さな柄を両手で握ったまま、ウーナは首を竦めて少年を間近から見上げる。短い黒髪が好き放題に四方八方へ跳ねた、どこか垢抜けない感じのする少年だ。初見の印象と変わらず、ちょうど兄と同じ年頃に見える。
鼻先が触れそうなほどに顔を寄せられて、ウーナは思わず息を詰めた。まるで珍獣や変な虫でも見るように眺め回され、むっと唇を尖らせる。
「あなた、失礼だわ。言っておくけれど、わたしが叫べばすぐに衛兵が駆けつけるし、だいいち、今わたしは刃物を持っているのよ!」
威嚇するように言い放つと、少年は束の間、呆気に取られたようにぽかんと口を半開きにした。近づかないで、とウーナは小刀を持つ腕を伸ばす。少年は目を丸くして小刀を見下ろした。
「……まさか、そのおもちゃのことを刃物だって言ってるのか? とんだ平和ボケの姫さんだな」
馬鹿にするというよりは、心底驚いたような口調であった。言葉の意味を測りかねて少し当惑し、それから向けられたのが侮辱だと気づいた瞬間、ウーナは大きな声を出していた。
「わたしの大切な宝物のことを、馬鹿にしないで!」
ぶわりと顔に熱が上り、目頭が熱くなる。止める間もなく大粒の涙が頬に転げ落ちた。小刀を胸に抱いたまましゃくり上げるウーナに、困惑するのは今度は少年の方である。「何だよ」と不本意そうな声を出しつつ、その両手はおろおろと中空を彷徨った。
「……兄さまが、くれたものなの」
俯いたまま小さく呟くと、少年はしばらく怪訝な顔をする。それから、ウーナが王女であることと『兄』の単語が繋がったのか、息を飲んだ。
手の甲で目元を拭おうとして、手首を掴まれる。慎重な指先だった。
「小さくても刃物なんだから、持ったまま顔に触るな」
そう言ってゆっくりと手を下ろさせて、粗雑な仕草で頬を擦られる。顔の形が変わるほど乱暴な手つきに、ウーナは「やめて」と顔を背けた。
「……悪かったよ」
手を離して、少年はバツが悪そうに項垂れた。「あんたが大切にしてるものだって知らなかった。謝るよ」と予想以上に殊勝な態度である。あまりしつこく追及するのも躊躇われて、ウーナも黙り込んでしまう。つと気まずい空気が漂った。
「邪魔して悪かったな」
そう言って、少年はそそくさと部屋を横切ると、窓枠に足をかけて外へ飛び出してしまった。
あっと声を上げて駆け寄ると、彼は窓のすぐ側まで伸びている枝に跨っている。入ってくるときも、この木を伝ってきたのだろう。呆れてものも言えないウーナを置いて、「じゃあ」と彼は瞬く間に枝を降りて姿を消した。
それが、彼との出会いであった。
「よう、姫さん」
「ちょっと! 言っておきますけどわたし、あんまり気安く会えるような立場の人間じゃないのよ」
「バレなきゃ問題ないだろ」
当然のような素振りで窓から顔を覗かせた少年に、ウーナは目を剥いて腰を浮かせた。窓を大きく開けて一歩下がると、彼は軽やかな仕草で枝を蹴って部屋へ入ってくる。着地に足音はしなかった。
「見つかったら叱られるどころじゃないわ、処罰よ」
「殺される?」
丸い目を動かして首を竦めた少年に、ウーナは尊大な仕草で腰に両手を当てた。やたら勿体ぶった口調で応える。
「そこまでされる前に取り成してあげるけど」
「姫さんがお優しくてありがたいよ」
けろりと言って、彼は堂々と部屋を横切ると部屋の隅の水差しを手に取った。口をつけないようにしながら、水差しを傾けて直接水を飲む。信じられない、とウーナは呆れ顔でその様子を眺めた。
見知らぬ侵入者がいきなり『匿ってくれ』と部屋へ飛び込んできてから、ひと月ほどが経つ。
あれから彼は度々ウーナの部屋へ侵入してきては、ウーナのおやつを拝借するついでにどうでも良い話をして、そのままさっさと逃げるのを繰り返していた。
徐々に真夏へ差しかかろうとする時季だが、習慣は変わらないらしい。ウーナが一人でいるときを狙い澄まして、彼はまた窓から忍び込んできた。
「何でいつも、わたしが一人でいるって分かるの?」
外から部屋の中は見えないはずだ。ウーナの部屋には侍女や教師が出入りすることも多いのに、彼は一度として他の人と鉢合わせしたことはない。結構真面目な顔をして訊いた問いに、彼はしれっと答えた。
「だって歌ってるだろ、いつも」
ウーナは思わず目をぱちくりさせた。いつも歌っている? そう言われて思い返せば、確かに一人でいるときは、何ともなしに歌を口ずさんでいることが多い。最近は気温も上がってきて、いつも窓を開けている。耳を澄ませば外からでも聞こえてしまうのだろう。
彼がいつも上手に頃合いを見計らって侵入してくる理由は分かった。「あと二つ訊いても良い?」と言うと、彼は「どうぞ」と大仰に頷く。
「……どうして、わざわざ何回もわたしの部屋に来るの?」
単刀直入に訊いたのに返事がない。首を傾げて顔を覗き込むと、彼は首に手を当てて言いづらそうに目を逸らした。「答えられないの?」と追うと、「いや」と曖昧な言葉が返る。長いこと沈黙して、それから、ぎこちなく彼は答えた。
「……あんたが泣いてないかと思って、確認しに来てる」
まあ、と言ったつもりが、声が出なかった。かぁっと頬が熱くなる。怒っているのか恥ずかしいのか、自分でも分からなかった。意図せず声が高くなる。
「わ……わたし、いつも泣いてる訳じゃないわ! 確かに初めて会ったときは、ちょっとだけ……泣いちゃったけど、それもあなたが酷いこと言うからじゃない!」
「分かった、分かったから」
耳が痛いと言いたげな仕草で顔をしかめて、彼は唇をひん曲げた。「だから答えたくなかったんだよ」とまるで責めるみたいな言い草には納得がいかない。
完全に拗ねて黙り込んでしまったウーナに、彼は憮然として腕を組んだ。
「もう一つは? 二つ質問があるって言ったろ」
明らかに話を逸らそうとする発言だったが、これ以上この話題を続けたくないのはお互い様である。ウーナは気を取り直すようにかぶりを振って、相手に向き直った。
「ね、お名前、教えて」
「どうでも良いだろ」
「良くないわ!」
彼も、二つ目の質問は薄々勘づいていただろう。これまでに何度も訊いては突っぱねられてきた問いである。初めて会ってからもうひと月も経つというのに、彼は頑として名乗ろうとしなかった。
不満に頬を膨らませたウーナを横目で見て、目を逸らして、彼は口の中で低く呟いた。
「あんたに名乗れるほどの名前なんて、ない」
そんなことないわ、と反論は黙殺されたようだった。
書庫から借りてきた本のページをめくりながら、ウーナは知らず知らずのうちに鼻歌を歌っている自分に気づいた。普段なら徐々に大きくなり、そのうち歌詞がつく。
けれど、先日の話を聞いたあとだと何だか今まで通り歌うのが憚られた。
だって彼はわたしの鼻歌を目印に部屋へ忍んでくるわけで、それを分かった上で歌うのは、……まるで、自ら彼を招いているみたいじゃないか。
耳が熱くなるのを感じつつ、口を噤む。
(何でわたしが、あの人のせいで気まずい思いをしなきゃいけないのよ)
唇を尖らせつつ、ちら、と目線がついつい吸い寄せられるのは窓辺である。ウーナの私室がある棟では、要人の姿が衆目に晒されないようにと、種々の中低木が壁に沿うように植えられている。
ウーナは木漏れ日が柔らかく射し込むこの窓辺が好きだったが、最近ではその木々に変な意味が追加されてしまった。この枝は、彼が潜んでくるときに使う枝だ。
……胸を占めるのは、ちょっと秘め事じみた、後ろめたい期待感である。
歌うのをやめた一人の部屋は、何だかいつもより温度が下がったように感じた。しんと静まり返った部屋の中で、ふと兄の顔が瞼の裏に浮かぶ。兄は今頃、一体どんな酷い目に合わされていることだろう。そう思うと、胸の内にひやりと冷たい手が触れて、現実に引き戻すような気がした。
(兄さまがつらい思いをされているのに、わたしだけ浮かれる訳にはいかないわ)
自省して、ウーナは深く俯いた。音のない部屋は、慣れた空間のはずなのに何故かよそよそしい。居心地の悪さを覚えて、ウーナは立ち上がった。散歩にでも行けば気が紛れるだろう。
強い陽射しを受けて、ウーナは額の汗を拭った。いきなり『散歩に行く』と言い出したウーナの背後には、侍女や近衛が規定の人数付き添っている。これじゃまるで姫君の御成だ。
気晴らしのつもりだったのに、外は暑いし護衛は物々しいし、ウーナは野外へ出て早々に帰りたくなっていた。
少しでも日陰に入ろうと、建物の傍に寄って壁際を歩く。ぐるりと棟を回ったところで日陰は途切れ、真昼の陽光を受けて広々とした訓練場が現れた。乾いた地面は、強い陽射しを受けて白くぼやけているように見えた。
「殿下。こちらはあまり殿下が立ち寄るような場所では……」
近衛が控えめに声をかける。確かに、普段あまり近寄る区域ではない。危ないから近づくなと両親にも言い含められている。はっと我に返って見回せば、近くで鍛錬をしていた兵たちが手を止めて怪訝そうにこちらを窺っていた。
「あ……」
戻らなきゃ、と咄嗟に思う。彼らは仕事中で、自分がいれば少なからず邪魔で迷惑だろうし、ウーナ自身もここに用はない。けれど目が、自然と、訓練場を見渡すのだ。
「さっさと矢ァ拾ってこい新入り!」
荒々しい怒鳴り声が響いたのはそんな折だった。きっと兵たちにとっては大した呼びかけじゃない。単に距離のある相手に声をかけるための大声だったのだろう。実際、他の兵たちは慣れた様子で顔を見合わせている。
しかし、ウーナにはその声と苛立ったような口調が本当に恐ろしく思えたのだ。思わず小さな悲鳴を上げて立ち竦んだ。
喝を入れられているのは「新入り」の言葉通りに体の小さな少年で、指示を受けて大慌てで走り出す。あんなに怒られて可哀想だわ、とウーナは眦を下げる。わたしだったら、あんな大声出されたら泣き出してしまいそう。きゅっと腹の底が締まるみたいな居た堪れなさだった。
「殿下、そろそろ……」
見かねた侍女がそっと肩を叩く。戻るか、別の場所へ移動しようと言いたいのだろう。そうね、と頷いてウーナが踵を返しかけた瞬間、怒鳴りつけられていた新兵が、ふっと、顔を上げた。
視線が重なる。随分と距離が離れているのに、目が合ったのが分かった。
彼は汗だくで、土や砂で汚れた訓練着を着て、疲れたような顔をして肩で息をしながら、的の下の地面にかがみ込んで矢を拾い集めていた。いつもの彼が、あれで随分と身なりを整えていたことを知る。
対する自分は、大勢の侍女や兵に付き添われて、綺麗な服を着て、頭上には日傘なんて掲げてもらって、悠々とその様子を眺めているのだ。
彼が怒鳴られているのを見かけたときとは、比にならない居た堪れなさだった。かっと頬に熱が上る。視線が外せないのはお互いだった。
物見遊山に来たのがウーナであることに気づいたのだろう。彼の顔には見慣れた不遜な笑みはなく、絶望したような表情が浮かんでいた。その表情に、横っ面を張られた気持ちになる。
先に目を逸らしたのは彼の方だった。随分長いこと固まっていたと思ったが、視線が重なっていたのは一瞬のことらしい。「さあ」と促され、ウーナは強ばる足を動かしてぎこちなく歩き出す。胸の奥に、上手く言い表せないもやもやとしたものが広がっていた。
……これまで、「わたしたちは立場が違うんだからね」と彼に何回も言ったことがある。彼はちっともそれを分かった風じゃなくて、自分だけがその差を理解しているつもりでいた。
でも違ったのだ。彼は多分、言われなくてもそんなことは重々承知で、何も分かっていないのはウーナの方だった。
***
誰も部屋に侵入してこない日々が続いて、もう秋になった。平穏な日々である。それが普通だ。元通りになっただけだ。互いにあるべき場所と立場に戻っただけのこと。そう言い聞かせるのに、どうしても、窓辺を何度も窺ってしまう自分がいた。
彼はきっともう二度と来ないだろう。漠然とした直感もあった。両者の立場がどうしようもなく隔てられていることを、ウーナは否応なしに理解した。意図せずそれを、彼に突きつけてしまった。
この上なく残酷な仕打ちをしたと思う。……でもそれで良いのだ。あと数年もすればウーナは大人になって、誰か知らない人のところに嫁いで、この城を離れる。胸に手を当てて、窓際に立つ。
どうせ、いつか終わる関係だ。分かっている。
それなのに。
細い声で歌う。外に向けて、窓を開けたまま、温かな橙や黄、赤色に染め上げられた木々を眺めて、たどたどしく歌った。こんなのは初めてだった。
指先が震えているのに気づいて、胸元で拳を握る。怖いのだ。怖い。恐ろしくて、情けなくて、不安で堪らない。
いつしか、目の縁に涙が溜まっていた。
「目を離したらまた泣いてるのか、姫さん」
熱くて硬い手のひらが頬を包む。ウーナはかたく目を閉じたまま顎をもたげ、ひく、と喉を震わせた。「うえぇ」と小さな子どもの泣き声が漏れる。
目尻からこぼれ落ちた雫を少し乱暴に拭って、彼が囁く。
「――アスタだ。あんたにとっては取るに足らない名だろうが、記憶の片隅にでも引っかけておいてくれよ」
言葉もなくしゃくり上げるウーナを慎重に片腕で抱き寄せて、アスタが苦笑する。会いたかった、と思わず漏らした一言は、唇に指先を当てて封じられた。
「それは、口に出しちゃいけない言葉だ」
だからその日から、ウーナの歌声は『会いたい』という暗黙の合図になった。