中編「自慰行為の話はエッチな話だろ!」
「自慰行為で、宇宙を感じちゃったからなの!!!」
からなの!!からなの!からなの、からなの……。
静寂の中脳内で反響する低めの声に一瞬、世界中に二人だけみたいだなぁと、そう思った。
というか実際に店内が静まり返っていた。突然の大声に、全ての視線がこの狭いボックス席に突き刺さっている。
「……はい?」
そして時は動き出した。
「だからその、オッ、オッ、オナッ」
「あーあーあーあーストップ!ストップだそれ以上言うんじゃない!か、会計!会計しましょう!秘密のことなら他の場所がよさそうです!」
顔を真っ赤にして脳の演算メモリをすべて使い切って暴走寸前のポンコツマシンのような飯田の代わりに伝票を引っこ抜く。そのままレジに直行して伝票を叩きつけると、レジの店員は完全に苦笑いしていた。税込六百円、払いやすくて助かった。
釣りの百円玉を四枚ポッケにねじ込んだところで飯田もやってきた。テーブルの上に残したミラノ風ドリアを一気にかき込んだらしくもぐもぐしている。
「ふぁ、ふぁたしがふぉごるって」
「口にモノ入れたまま喋るんじゃない!とにかく場所を変えますよ!他の、人があんまりいないところにっ」
とりあえず飯田の手を引いてサイゼリヤを出たところで、んっと一気にドリアを飲み込んだ飯田が逆に手を引っ張った。
「こっち!」
飯田の超重力天体が如き引力で引っ張られ、俺は午後の街を駆ける。冬の寒さなど微塵も感じない。この一場面だけ切り取れば、まるでウブな青春の一ページのようだった。
宇宙と自慰、この二つの異物を除けば、だが。
「どうぞ、楽にしてていいから」
「おじゃまします……」
冬の街を夢中に駆けた俺は飯田の住んでいるらしいアパートの一室に招かれていた。少女漫画に出てくるようなメルヘンでファンシーな感じではなく、整頓された本棚の隅に置かれた小さなぬいぐるみやこたつの上に置かれた小さな鏡など、普通の一人暮らし女性の部屋という感じである。
「そこの椅子、使っていいから」
促されるまま、机の前に置かれた椅子に座る。机には難しそうな化学の参考書の置かれていた。俺と同じく大学生のようだ。いやまあ、平日のこの時間に出歩いているのだからそりゃあそうなんだけど。飯田はというと、部屋の反対側に置かれたベッドに腰掛けた。
「で、話の続きなんだけど」
「うん……」
「そ、そんなに身構えないでよ。別にエッチな話をするわけじゃないんだから」
「自慰行為の話はエッチな話だろ!」
「それもそうなんだけど!」
いかんいかん、冷静になろう。二人きりの部屋であるとはいえ壁だって防音なわけがあるまい。それに自慰行為という言葉に釣られて混乱してしまっているが、自慰行為はあくまでも宇宙降臨の原因という話である。スカートの中の宇宙を解決しようとしているのだがらその原因の話をするのは必要なのであって、その過程が多少エッチだろうと構わない。俺だってもう成人男性だ。分別くらい弁えているさ。
「そうだな、まずは状況を整理しましょうか。その過程で多少エッチな話になるのは仕方がない。だからできるだけ簡潔に、自慰行為でどうしてスカート宇宙の原因なのか、そう思う理由を説明してほしい」
飯田は大きく深呼吸すると、頬をペシペシと叩き表情を引き締めた。そして頷き、宇宙と自慰がどう繋がったのかを話し始めた。
「私はいつも自慰する時……ああいや毎日してるわけじゃないよ!」
「誰もそんなこと言ってませんよ」
「そうだね……えっと、する時にわざわざ電気を消したりしないの。電気がついている部屋で、最終的には目をつぶっていることが多い」
最終的には、という言葉が気になるがソコに深く突っ込んだところでパニックになるだけだ。努めて冷静に、神妙な表情を作り続けることを意識する。
「でも昨日は違った。バイトから帰ってきて、部屋の電気をつけようと思ったらつかなかった。蛍光灯が寿命だったわけ。だけど代わりの蛍光灯を暗い中探すのは難しいし、何より疲れていたから服着たままベッドに寝転んだ。そのまま寝ようと思ったんだけど、気持ちがその、盛り上がっちゃって、始めちゃったの」
「ということはその服ってもしかして」
「恥ずかしながら昨日のまま。いやまあオ、自慰行為の話をしていて今更恥ずかしいも何もないんだけどね」
ヘヘッ、と遠い目で自嘲する飯田。言い分はごもっともである。
「そしたら最後のところで目をつぶっていよいよ達した時、腰のあたりがふわっとした感覚に包まれた。電気もついてない完全な暗闇の中、まるで宙に浮かんでいるような感覚。そう、まさにその瞬間に、私は宇宙を全身に感じていた……」
「……」
「で、朝起きたらこうなってたわけ」
「待て待て急展開すぎる」
流石に突っ込まざるを得なかった。
「だから、イッちゃったときに宇宙を感じて、そのまま寝落ちたらこうなってたの!簡潔にまとめるとこれ以上のことは言えない!」
「服はそのまま寝てたんだよな、本当に朝起きた時にはそうなってたのか?どうやって気づいた?」
そんな、達する瞬間に宇宙を感じたら股ぐらが本当に宇宙になっていたなど奇々怪々にも程がある。何か他に原因があるんじゃないのか?それらしい儀式とか怪しい未確認飛行物体とか。いやまあそれらも十分奇怪だし信じられないとは思うんだけども!
「朝起きてベッドから降りる時に転んじゃって、たまたま置いていたペットボトルの上に尻もちをついてしまったの。スカートの内側で。でもペットボトルの感触がしないから立ち上がって確認してみたらペットボトルは消失していた。その時にふとスカートの内側を確認したらもう、宇宙だった」
飯田の声色は真剣そのものだ。冗談を言っているようにも、まして嘘をついているようにも思えない。
自慰して寝たら宇宙だった、という主張はもう受け入れるしかなさそうである。
「それで、解決方法に目処はついているんすか?」
「全く。スカートを脱いでみようかとも考えたけど何が起きるかわからなくて怖いし、そもそもこれが幻覚か何かかもしれないし。途方に暮れて町をさまよっていたら、君に出会った」
「そして転んだあの時、宇宙が俺にも見えていると気づいたという」
「そういうこと。正直経緯が訳わかんないし恥ずかしいしでいっそのこと全くの他人に相談した方がいいんじゃないかと思ってね」
悪い人そうでもなかったし、と飯田。なるほど、あの時転んでさえいなければ俺がこんなことに付き合わされるハメになることはなかったということか。とんだアンラッキーデイだ。
「何か試してみたことはあります?」
「まだ何も。というか敬語じゃなくていいんだって。たぶん中山も大学生でしょ?」
「まあ、そうだが……」
言いかけて、いい加減距離感の話をするフェーズはとっくの昔に過ぎていると思い直し、提案に素直に従うことにした。
さて、どうやって元に戻せばよいのだろうか。当然ながら、当方股間性宇宙降臨病については詳しくない。
「うーん、こういうのは逆のことをするのが手っ取り早いと思う」
「逆?」
「電気を消してしたことで宇宙を呼び出してしまったわけだ。だから、言いにくいんだが……」
「な、なるほど。電気をつけてまたやってみればいいってことね」
「股間が宇宙と化している状態でどれくらい通常通りにできるかは分からないが、どうなんだ?」
「一応おしっこはできたから、そこに『ある』とは思うんだけど……」
飯田は納得したようだが、同時に顔を赤くした。そう、今から元に戻そうということは、つまり今ここでソレを試さなくてはならないということである。
「外、出ていようか」
「こうなっては背に腹はかえられぬ……お願いします」
飯田が頭を下げるのを見届けて、俺はそそくさと玄関に向かった。
「帰ったりしないでよ!」
靴を履いていると後ろから絶叫するが如き懇願の声が投げつけられた。
「分かってるよ。ドアの外で待ってるから終わったら呼んでくれ」
「絶対だから!」
「分かった分かった。絶対いるから」
まるでトイレが怖い未就学女児のようなことを叫んでいるが気持ちはわかる。というか俺、その呼びかけがなかったら帰っちゃってたかもしれない。この狂った状況で、逃げ出さずにいるのは正直なところ奇跡だ。
外に出て、通りに面したアパート3階の廊下からなんとなく空を眺めた。
なんという晴れ渡る空、朝方までの雪が嘘みたいだ。嘘みたいな出来事が連続している今、さすがに本物であろう空の色はなんとなく安心感を与えてくれた。その空の向こうには問題の中心である宇宙がある。
人類未到の地が多く残された最後のフロンティア。それがまさか手に届く範囲にあるなど、よく考えれば凄いことだし完全に歪んでしまっているであろう物理学の諸法則について報告するだけでも科学史に残る大事件だ。だがそんな大きな野望とか大義名分とか、そんなものはどうでもいいから俺は一刻も早くこの状況から解放されたい。人類の進歩より俺の一歩の方が大きいのだ、この場合。飯田にとってもそれは同じだろう。
「こんな時タバコでも吸う習慣がありゃそれっぽくキマってたんだろうけど……」
一人呟いた後、それはないな。と思った。どこの世界に今日知り合った女の自慰行為が終わるのを待ちつつ宙への想いに黄昏ているハードボイルドがいるというのだ。
それはそうと、実のところ飯田夏海という女性そのものは結構俺の中で評価が高いというか、好みな感じはする。実際宇宙のくだりがなければ、俺の方から下心満載で食事によるお詫びを申し出ていたかもしれない……いやないな。俺にそこまでの勇気はない。そういう意味では、飯田との縁を繋げてくれた宇宙に感謝の念がある、かも。
冬風に吹かれながらそんなことを考えつつ、さすがに少し冷えてきてコンビニの肉まんが恋しくなってきた時にドアの開く音がした。振り返れば飯田がドアの隙間から覗いている。入ってこい、ということらしい。
「部屋のにおいを嗅いだりしないでね!」
部屋に入るなりそう忠告された。たしかにどことなくフローラルな香りがする。机を見れば消臭スプレーのボトルが置いてあった。特別においがするような行為ではない気もするのだが、こういうのは気持ちの問題なのかもしれない。触れないでおこう。
「……ダメでした」
椅子に座るなり、飯田の方から報告があった。スカートを突然捲り上げたためギョッとしたが、相変わらずそこには宇宙(天の川銀河が見えているらしい)が存在するのみで、下腹部はどこにも見当たらなかった。
「頑張ってみたんだけど、元には戻らなかったみたい」
飯田さんはかなりのショックを受けていた。というか今にも泣きそうな顔をしている。そりゃそうだ。突然見ず知らずの男に頼るだけでも大変なのに、ロクでもない精神状態で自慰行為をする羽目になり、挙げ句の果てそれが効果なし。しかも原因の方も自慰行為ときた。惨めさはとうの昔に限界を超えているはずだ。
「本当に訳がわかんない。着替えないで寝ちゃうことがそんなに悪いことだったのかな。オナニーだって普通にするし、それでたまたま寝落ちしちゃっただけなのに……どうして、こんなことに……」
ベッドの上にへたり込んだ飯田の鼻をすする音がやけに大きく聞こえた。蛍光灯が切れたままの室内は昼間といえど薄暗く、空気は澄んでいたが冷たくて、そして重たい。
「……大丈夫だって」
俺は立ち上がり、ベッドまで歩いて、すすり泣く飯田の手を握って。
「原因が分かっているんだから、その逆をするというアプローチ自体は間違っていないはず。あと何回か別の方法を試せばきっと解決する。俺も最後まで手伝うからさ」
気がつくと、口からそんな言葉が出ていた。
「ああいや!俺が手伝うのが嫌っていうなら代わりを呼んでもいいんだ!何も強制しているわけではなくて!」
無意識の言葉を必死に取り繕う。傷ついているところに取り入るような、俺が唯一の頼れる人間だと誤解させるような言動ではダメだ。あくまでその選択は飯田がすべきなのであって……。
「嫌じゃ、ない」
その思考に割り込んだのは飯田の声だった。
「元々、この人なら悪いことはしなさそうだなって、失礼かもしれないけどそう思ったから手伝ってもらっているの。じゃなきゃ流石に部屋まで入れないしね」
飯田はそう言って、笑った。その夜空のような目に涙に浮かべながら。
カラ元気だ。それはすぐに分かった。だけど、飯田が気力を振り絞って生み出した、前に進む気持ちなんだ。この理不尽な状況から脱出するための鍵となる力。かもしれない。
「じゃあ俺ももう遠慮しない。そこまでやるのは流石にどうかと思っていたが、確かめてみたいことがある。どうだ?」
飯田が力強く頷く。よし、早いとこ俺らの日常から宇宙を追い出してやる!
「俺が気になっていたのは、宇宙と飯田の身体との関係だ。飯田、確かさっきペットボトルがこのスカートの中に消えたと言ったよな?」
「うん。中山がサイゼで投げ込んだ紙くずも消えたし」
「つまりその瞬間は、紛れもなくそこは宇宙だったわけだ。しかし飯田は下半身がそこに『ある』感覚があるんだよな?」
「う、うん。でも直接触る感じじゃないっていうか、さっきもなんとなく雰囲気でこう……」
「皆まで言わなくてもいい。俺の予想では、そこにちゃんと下半身が『ある』と思う気持ちが、宇宙を引き剥がすのに有効なんじゃないかということなんだ」
何言ってるんだ俺。
「なるほど」
飯田もよくついてこれてるよな。
「そしてそれを裏付ける一つの証拠は足だ。ここから見ると、足が太ももの半分くらいから突然宇宙空間を突き抜けて生えているように見える。これは飯田が『足はある』と強く信じられているからじゃないのか?」
「ということは逆に、私は自分の下腹部の存在がわからなくなっているということ……?」
「言っていたな、宇宙に浮かぶようであったと。どんな現象なのかは知らないが身体の持ち主たる飯田、お前の認識の中で下半身に対する認識が『揺らいだ』結果として宇宙化してしまった。俺はそう考えている」
ストッキングに包まれた足を見る。その付け根の部分はやはり宇宙に飲み込まれて見えない。しかしながら逆に、ストッキングを履いているということはそれを裏付ける『口』の部分が必要不可欠のはず。宇宙の置換されてしまっている今でさえ、そこに足の付け根の部分とストッキングの『口』が存在しているという事実に揺るぎはないはずだ。
「つまり、宇宙化を解くには自分の下半身がそこに確かに存在するという強い認識が必要なんだ。多分」
「で、でも宇宙に手を入れても、お股のあたりを触っても宇宙化は解けてないよ?」
「飯田は普段、自分の身体のどこがどうなっているかと意識しながら生活はしていないだろう。それと同じ。たぶんお前は下半身が普通に『ある』とぼんやり認識しながらもその輪郭は希薄になっていて、同時に下半身が宇宙化しているという認識ができてしまっているんだ」
下半身と宇宙、本来ありえない矛盾する定義の境界が寝落ちするほど疲れた身体と暗闇、そして自慰行為によって混ざり、定着してしまったと、大方こういうことなのだ。
本当に自分でも何を言っているのかわからないが。
「じゃあどうするの?私が電気をつけて自慰しても認識は変わらなかったよね」
「おそらく自分自身を自分の行動で強く意識するのは難しい」
心臓の鼓動を、肺の呼吸を毎秒意識するだろうか。指の動き、腕の動きをわざわざ毎回考えるだろうか。どれも身体に当然の行動として普段認識から外れているはず。それが取り戻すのに、手っ取り早く強烈な方法がひとつある。
「俺が触れる」
「っ!」
飯田が短く息を呑んだ。
そう、他の人から触れられる時、人はその箇所を強く意識する。
「そ、それってつまり……」
「ああ、覚悟を決めてもらうぞ」




